序 蝶侍

――慶応四年(一八六八)新春


 時代を変える風は、いつも嵐らしい。
 伊藤俊輔は、兵庫運上所の外国掛事務所を出ると、足早に港へ向かった。
 夕べの強い潮香が鼻を衝く。
(こねぇな所で躓いたら、松陰先生と高杉さんに申し訳が立たん)
 新政府軍が鳥羽伏見で旧幕府軍を大破したと聞くや、伊藤は山口で急ぎ英国軍艦に便乗したが、上京の途上、開港して間もない神戸で、大変事の出来を知った。
 侍行列を横切ろうとしたフランス人水兵に、吉備藩兵が発砲したのである。たちまち銃撃戦となり、英仏米伊普蘭の六ヶ国陸戦隊が上陸、翌日のうちに神戸は占領された。発砲が三宮神社付近で起こったために、「三宮事変」と呼ばれている。
「ヒラヒラ蝶どもめ! よけいな真似をしおって」
 忌々しさで、伊藤は覚えず声に出した。
 三十一万五千石の雄藩でありながら、家中に人物が出なかった吉備藩は結局、尊王か佐幕か腰も定まらぬまま、土壇場で朝廷になびき、維新回天を迎えた。伊藤ら志士たちは、藩主沼田家の家紋である〈蝶〉が右へ左へ揺れ動くさまを馬鹿にして、吉備の「ヒラヒラ蝶」と蔑んだものだが、かろうじて保身に成功しただけの時代の端役が、新政府の足を引っ張ろうとは……。
 作りかけの新居留地を歩くと、伊藤はロンドンにいた四年前を思い出す。
(この動乱を生き延びて、必ず再度、欧州の地を踏んじゃる)
 そのために、伊藤はとにかく目立って、長州藩と新政府でのし上がってゆくのだ。
 長州藩士はあまりに多く死にすぎたせいで、伊藤のごとき軽輩でも出世できる。戦は不得手だから、英語を活かして外交で立身する腹積もりだった。方針を決めるのはお偉方だが、現場で列国公使たちとやり合う時は、洋行帰りの出番だ。英国留学以来、外国との折衝はたいがい伊藤の役回りになった。
 波止場に立つと、偉容を見せつける十数隻の黒船が並ぶ先、沖合からユニオン・ジャックをはためかせながら、軍艦が一隻入ってきた。
 今日あたり、長州藩の首魁ともいえる木戸孝允が、岡山から神戸に着くはずだった。
(あの人は偏屈者じゃからな。今回はわしを褒めるべきところじゃが、逆に怒るやも知れん)
 軍艦が物々しく着岸すると、ぞろぞろ下船してきた異人たちの中に、見慣れた美貌の武士が一人交じっていた。木戸は伊藤を買ってくれるありがたい先達だが、たいてい不機嫌そうに苦み走った顔つきをしている。
「ロッシュが今日あたり、江戸で慶喜と会うとるはずじゃ」
 木戸は挨拶も前置きもなく仕事の話に入る。伊藤はだしぬけに鼻柱をぶん殴られた気がした。
「あの髭爺め、新政府の足元を見おって」
 昨年十二月、政権を返上したはずの徳川慶喜は、大坂城で六ヶ国公使と会見し、外交権はなお自分にあると表明していた。かねてフランスは幕府を支援しており、公使ロッシュは三宮事変を利用して、外交交渉の相手は依然として旧幕府なのだと、天下に示す肚か。異国がこの調子で旧幕府に肩入れすれば、日本は真っ二つに割れる。
「この交渉に失敗すりゃあ、泥沼の戦になりかねん。また人が死ぬる」
 木戸はさらりと言ってのけた。
 薩長土肥と公家中心の新政府は産声を上げたばかりで、先月、王政復古の大号令を発し、数日前に三職七科制を定めたものの、新元号さえ決まっておらず、日々が綱渡りの連続だった。これまで幕府を相手に交渉してきた西欧列強が、引き続き旧幕府を正統な政府と認めれば、万事休すだ。慶喜は惰弱でも、幕臣には骨のある武士たちがいた。徳川の力は侮れぬ。政権の帰趨はまだ、見えていない。
「俊輔、印度や清国の二の舞だけは避けにゃあならん」
 英国に食い物にされる印度と、阿片戦争で敗れた清国の惨状が、伊藤の脳裏をかすめる。三宮事変がアロー号事件の再現となりはすまいか。やり方を間違えれば、国を滅ぼしかねなかった。
 木戸が顔の筋肉ひとつ動かさず、伊藤の肩へ手を置いた。
「これから日本を動かすさぁ新政府じゃと認めさせよ。朝幕の戦に手出しをさせるな。この事変の処理次第で、戦の勝者が決する」
 伊藤は身震いした。
 自分が国を、時代を作っているのだ。高位の公家や藩主ら錚々たる面々が上役でも、異人相手に体を張るのは、数えで二十八歳の伊藤だった。
 並んで運上所へ向かいながら、伊藤は木戸の耳元で声を落とす。
「木戸さん。三宮の件は、ヒラヒラ蝶に泣いてもらいます」
「吉備藩の報告書を読んでも、非があるようにゃあ見えなんだが」
 その通りだ。伊藤は最初、この事変を甘く見ていた。
 幸運にも死者が皆無だったと聞き、なじみの英国公使パークスに、「三日のうちに始末をつける」と大見得を切ったものの、意外なことにロッシュは、発砲を命じた指揮官の処刑まで求めてきたのである。
「お尋ねいたすが、さんざんな目に遭わされてきたわが長州に、どれだけ非がありましたか」
 乱世で正義は通らない。どれほど多くの志士たちが、理不尽に命を奪われてきたことか。
 反問に黙り込む木戸に、伊藤は畳みかける。
「朝敵にして征伐すると脅しゃあ、吉備は大人しゅう従いまするか?」
 鳴かず飛ばずの雄藩ながら、もしも吉備藩が佐幕に回って本気で抗えば、西国街道、さらには瀬戸内の往来が封じられる。同族の鳥取藩までなびいたなら、せっかく新政府に傾きつつある天下の趨勢さえ、逆転しかねなかった。吉備藩の内情は、掌上でうまく転がしながら交渉してきた木戸が、一番よく知っていた。今回も、木戸は岡山城で三宮事変の報に接したという。
「従うじゃろう」
 木戸は苦虫を嚙み潰したような顔つきのままだ。
「安心し申した。博打を打つ度胸なぞ、岡山の連中にゃあない」
 三宮事変は、吉備藩の誰ぞに責めを負わせて、収める。
 報告書によると、戸木雅楽なる家老の藩兵八百のうち、滝田某という砲術家の率いる大砲隊が発砲したらしい。かつて長州藩は、三家老の首を幕府へ差し出して、藩を守った。時代への生贄は誰でもいい。昔からよくある話だ。
 一陣の荒れ風が、異人たちの行き交う往来に、小さな砂柱を立てた。
「ひとつ、岡山で気になる話を聞いた。吉備藩随一の武士が蟄居を解かれて、近々出仕するそうな」
 聞くなり、伊藤は吹き出した。
「ふん、ヒラヒラ蝶に、今さら何ができると?」
 吉備藩はやることなすことお粗末で、見ていて哀れなほど後手後手に回ってきた。
「わからん。ところで、薩摩はわが長州のみに手柄を立てさせはすまい。そろそろ奴を送り込んでくるじゃろう」
 伊藤は舌打ちした。かの藩で外国事務掛といえば、五代才助だ。
「あの優男は、嫌いでござる」
 今は味方だが、薩摩藩の遣英使節団員であった五代とは、藩で担う役割が同じだから、そこかしこで遭遇、対峙する腐れ縁だった。
 辻を曲がると、運上所が見えてきた。
 二階に露台のある立派な建物は、ビードロが異国風で、綺麗だ。明かりが灯っている。
 暮れ空を心持ち見上げながら、木戸がぼそりと応じた。
「坂本君が言いよったろう。皆、同じ日本人じゃ」
 伊藤も馴染みのあった坂本龍馬は、変わり種の志士だったが、昨冬暗殺された。激動の時代にあって、武士は桜花の散るごとく簡単に死ぬ。長州藩士たちも同じだった。乱世でのうのうと眠りこけていた吉備藩の蝶侍の一匹、二匹、何ということもない。
 伊藤は木戸に続き、足早にビードロの家の玄関へ入った。

 二十五年前――。


第一章 六ポンド砲

――天保十四年(一八四三)盛春



 荒れ風が春爛漫の桜堤に花吹雪を作っても、宇甘川はこの日も清らな水を流し続けていた。
 今日は催しが果てるまで一般の航行が禁じられ、船着き場に高瀬舟がずらりと並んでいる。
 御藪の陰から、藩兵に曳かれて、ホウィッツル砲が堂々たる巨軀を現わした。
 中嶋河原に詰めかけた観衆が、どっと歓声を上げる。
 金谷村の民草にとって、藩主の御前で行われる試砲式は、花見の贅沢な余興だった。
 砲車の横をゆっくりと歩きながら、滝田源五郎は誇らしさに胸を張る。
 えびす顔でよく肥えているから、数え二十四でも貫禄たっぷりに見えるそうだ。
 岡山城から旭川を遡って、北の山間へ四里ばかり。陣屋町の金谷がこれほど賑わったのは十年前、前藩主が幼い愛娘の晴姫を連れ、この地を治める家老の戸木家を親しく訪ねて以来だろう。
「のう、梅爺。もっぺんだけ砲身を見てくれんか」
 備中の鋳物師に作らせた自慢の六ポンド砲は、砲身の長さが実に一丈三尺(約四メートル)を超える。
 へい、と六十絡みの家人が瘦せた手で砲耳を摑み、砲身が架台にしっかり固定されているか確かめていた。梅爺は「梅太夫」が本当の名だが、しなびた梅干しのような顔つきと小柄な瘦身のせいもあって、そう呼ばれていた。
「若様、世話ぁねぇ」
 梅干しが、真剣そのものの表情でうなずいてきた。
 昨夜、緊張のせいで寝つけなかった源五郎は、深更に何度も厠へ立ったのだが、その際ホウィッツル砲のある蔵のほうから、ごそごそと物音が聞こえる気がした。「すわ物ノ怪か」と思い、怖くて確かめられなかったが、朝になって梅爺に言うと、「猫か鼠じゃ。大きゅうなっても、若様は怖がりじゃけぇ」と笑っていた。
 手車で木箱が運ばれてきた。源五郎は取り出した火薬袋を、砲身の先端から砲腔へ入れ、槊杖で奥まで押し込む。梅爺から手渡された重い砲弾を、続けて装塡した。
 次は、砲身の角度を念入りに調節してゆく。
 深呼吸をしながら、源五郎は自分に言い聞かせた。
(しくじるはずがねぇ。三べん試して、三べんとも上手う行ったんじゃけぇ)
 左手の帷幄へ、チラリと目をやった。
 竹藪を背に張られた純白の幔幕に、漆黒の揚羽蝶紋が浮かび上がっている。
 新藩主沼田慶斉とその腹心、島山福之進らを初めて迎えるとあって、金谷を挙げて準備した盛大な試砲式には、戸木家中の一族郎党が緊張の面持ちで雁首を揃えていた。
 藩主の傍らに座す主君、戸木雅楽の斜め後ろには、父の善四郎が厳めしい顔つきで端座する。そのすぐ脇には数え七つの弟、蓮三郎が紋付の羽織姿で控え、利発そうな童顔で河原を見ていた。
 源五郎は膝へ手をやり、また掌に搔いた汗をさりげなく拭う。
(弱ったのう。体が勝手に震えてきおった)
 極度の緊張のせいで足がガクガクして、立っているのがやっとだった。
「こねぇにぎょうさん、人が集まるたぁのう……」
 金谷は「大川」とも呼ぶ東の旭川、これと合する南の宇甘川を天然の濠とし、東西に長い町の両端に家臣団の侍屋敷を配して、その間に二百軒に満たぬ商家と町家が軒を連ねる。小ぶりながら、岡山と津山を繫ぐ宿場町で、同時に川湊でもあった。名君に恵まれ、仁政が敷かれてきたおかげで、武士と民の間の垣根も低く、和気あいあいと暮らしていた。
 今日はまるで、その金谷の民が総出で押しかけているかのようだ。
 宇甘川の此岸から対岸まで、川沿いはさながらお祭り騒ぎの賑わいだった。藩主と六家老が揃い踏みして、きらびやかな武者装束だけでも見応えがあるうえに、六ポンド砲の巨大な砲身と豪快な砲射を見物できるとあって、陣屋町はもちろん付近の村々から老若男女が繰り出し、河川敷へ押しかけたのである。

(続きは本誌でお楽しみください。)