第一話 月消し帰る


1 雨宿り

「ついてないなぁ。昼間っから歩き回って収穫ゼロとはね」
 ただでさえ撫で肩の肩を落としながら、僕は嘆いた。目白駅を背にして歩くこと数分、灯を運ぶ都電のざらついた音が聞こえてきた。
「月のない夜なら、それも仕方あるまいよ」
 となりを歩く友人が笑った。友人の名は虚池空白。本名ではない。俳号だ。その界隈ではちょっと名の知れた俳人である。彼の冷笑は、いつでも悲しさと自虐が入り混じり、複雑な色を帯びている。
「クジラ、今のは〈月〉と〈運き〉を掛けたのか? 風流だな」
「古戸馬くん」虚池は僕の苗字を呼ぶ。「そんな古の歌人の真似事なんかしないよ。月がない分、暗くて壁の落書きが見づらいから、終了時間が早まったということさ」
「……俳人のくせに即物的な物言いだな。それに、ずいぶん吞気じゃないか。こっちはクビがかかってるってのに」
「俺だって印税がかかってる」
「もう前借りしてるだろ」
 虚池を編者に選んだ日に、印税は先払いした。バイトをクビになったというから仕方ない。虚池は生活者としての能力が著しく低い。
「重版分」
「初版も刷ってないよ……それにしたって、落書きだらけの大都会で野良句をまったく拾えないなんてね。そのうえ、雨ときたもんだ」
 まだ年寄りの独り言並みに頼りない雨粒だが、次第に強まるかもしれない。その前に会社に着ければよいのだが。
「ぼやきが止まらないね。釣りでも趣味にして忍耐力を鍛え直せ」
 この腐れ縁の俳人と日がな一日東京を徘徊していたのは、先日企画の通った本のためだった。世の中の落書きや看板から厳選した「詠み人知らず」の名句の魅力に迫るムック本『Nの歌を聴け』。
 僕の勤務するエヌ出版は、もともと俳句や詩歌の書籍ではかなり実績のある出版社だ。俳句の月刊誌『句愚れカス』も好調で、購買層もイメージしやすい。
 企画にあたり、〈野良句〉なる語を創ってみた。昨今はそこらに落ちている手袋だのマスクだのを野良手袋だ野良マスクだと喜ぶ傾向がある。ならば、野良句にも目が向けられてしかるべきだ。
 きっかけは、近所の神社の掲示板にある〈万事気の持ちよう〉という箴言の下に、〈月末百円也〉と落書きされていたのを見たことにあった。僕の目には、それが合作の俳句に見えたのだ。
 句と言っても、五・七・五には拘らない。現代人に響く言葉のリズムは定型句ではないかもしれないし、〈野良句〉で定型句を探すのは難易度が高い。だから、広く緩く自由律俳句であればよい。
 自由律俳句は、河東碧梧桐が俳句をもっと自由に、と考えて始めた新傾向運動の文脈から生まれたと言われている。季節を内包するだとか、五・七・五のリズムで詠むという従来の規則に縛られず、自由に感情のリズムを形にしよう、という動きがあったのだ。
 理論化したのは碧梧桐の弟子の大須賀乙字だが、自家薬籠中のものとしたのは種田山頭火と尾崎放哉だった。そして、その自由な精神は、その後も多くの俳人に連綿と受け継がれていった。
 とはいえ、いまだ世間一般からすると、異端の印象がある。俳句といえば、五・七・五の十七音に季節感まで盛り込む有季定型を想起するのが普通。自由律俳句と聞いても、十七音を基本とした〈字余り〉や〈字足らず〉の句のことかと誤解されがちだ。
 だから、企画にあたり、編集長からは名のある自由律俳句の俳人を監修者に立てるよう言われた。それで、頭に浮かんだのが、大学同期の虚池空白だった。昔から言葉に関する審美眼は信頼できる奴で、業界では〈自由律俳句の伝道師〉などと言われてもいる。これほどの適材は滅多に見当たらない。ただし、いろいろ問題もある。礼儀正しい反面口が悪く、そのくせ片想い体質で傷つきやすいのだ。
「ちょっと雨がひどくなってきたな。雨宿りでもしていくか」
 虚池がそう言ったのは、ようやくのぞき坂に差し掛かったあたりのことだった。「雨宿り」とは、この坂の上にある行きつけのバー〈のちえ〉を指さしてのこと。
 そう言えば、初めて〈のちえ〉を訪れたのも、大失恋で落ち込んでいる虚池を励ますためだった。あの時、店の空気の闊達さのお蔭で虚池の心の傷が劇的に癒えたのだった。それ以来の縁だ。
 僕は眉間にしわを寄せた。
「雨宿りするほど降っちゃいないよ。会社まであと五分。がんばったら、缶コーヒーを奢る」
「親心だよ。収穫ゼロで編集長に大目玉を喰らう君を見たくない」
「むう……嫌なことを言うなぁ……」
 たしかにこのまま手ぶらで帰れば詰問されるに決まっている。しかし、だからと言って飲んでどうする。
「飲みの席には思わぬ拾い物があることもあるぜ?」
「行きつけのバーにはさすがにあるまいよ」
「先日あの店で五百円玉を拾った。なかなか縁起のいい店だ」
「……わかった。一杯だけだ。一杯飲んだら帰る」
「偉いぞ、新米編集クン」
 虚池は踊るような足取りで坂を上り始めた。時計を見れば、夜九時四十分過ぎ。今頃編集部は不機嫌な編集長のもとで雑誌の大詰め作業が行われているだろう。いっそ戻らず直帰するか、などと考えるうち坂を上り終え、店の前に辿り着いた。
〈のちえ〉のオーナー、愛良さんは気まぐれなタチだ。何しろ気分次第で営業時間を変える。きらいな客の来る時間にいったん電気を消してまたつけるなんてこともあるらしい。ゆえに、常連客は店の窓から灯が洩れているかどうかで営業休業を判断する。今日は灯が洩れている。青白い灯は、六月のじんめりした湿気にも優しい。
 扉を開ける。仄暗い店内で、今宵も照明の青白い光を反射させてミラーボールが輝いていた。平成の頃に隆盛を極めたクラブハウスが潰れた際に引き取ったと、愛良さんに聞いたことがある。
「びっくりした、想定外ね。君たちって本当に神出鬼没」
 青のドレスに包まれた愛良さんは、首の動きだけで小さく歓迎を示してみせた。ずいぶんな塩対応だが、たしかに我々くらい不規則な時間に現れる客も珍しいのかもしれない。
「こいつがどうしても雨宿りをしたいと言い出しましてね。まったく編集者なんて贅沢な生き物ですよ」
 虚池はぐいと僕を前に突き出してそんなことを言う。
「な……君が来たいって……」
 言い訳する僕を無視して、虚池は愛良さんに従って中に進んでいく。アーチ形の出入り口、通路の巨大なエンタシス、アンティークのテーブル、壁にかかったラファエロの複製画、と店内はわずかにチープさも漂う欧風趣味に溢れている。
「今日もカウンター席?」
 いつもなら、僕らは並んでカウンター席に陣取るところだ。
 しかし――今日は狭いカウンター席には先客がすでに一人いた。
「いえ、今日はテーブル席で」と虚池が答えた。虚池は、あまりよその客と密接した席を好まない。三つしかないテーブル席も、うち二つはすでに埋まっていた。空いているのは、左奥の一席のみ。日頃はスタッフの控え席になっていて、よほど混んでいる時でないかぎり通されることはない。
「今日も野良句を求めて歩き回ったの?」
 先頭を歩く愛良さんが尋ねた。先週、ここで飲んでいた時に企画の話をしたのを覚えてくれていたようだ。愛良さんはその美貌もさることながら、気配りも一流だ。この店のスタッフはみんな気さくだけれど、客から最も愛されているのは、愛良さん本人だろう。
「そうなんです。なのに、まったくいいのにありつけなくて」
「このプロの俳句屋さんに書いてもらったら?」
「それじゃ意味がないんですよ」
「そんなもの? むずかしいんだね。いま片づけさせるから、ちょっと座って寛いでいて。ティナちゃーん?」
 通された奥の一席には、まだテーブルの上に空いた皿が一枚、グラスが一つ、片づけられずに残されていた。
 虚池が奥のソファに腰を下ろし、こちらは手前のソファに腰かけた。ほどなく洗面所から戻ってきたティナちゃんが僕らを見て素っ頓狂な声を上げた。
「わー、クジラくん来てるぅ! 私もうシフト終わったとこなのにぃ。すれ違いなんていやだぁ!」
 ティナちゃんはここのスタッフで、ブルガリアから二年前、東京にアニメカルチャーを学ぼうとやってきた子だ。本人もアニメから飛び出てきたようにはっきりとした目鼻立ちをしている。密かに僕のお気に入りなのだが、あいにく彼女は虚池にご執心である。
「ティナちゃん、俺たちはそういう運命なんだよ」などと虚池は表情一つ変えずに返す。べつだん気のない相手だと、虚池はこういう軽いノリで返せる。惚れた相手には口下手で、感情が伝えられなくなるくせに。
 ティナちゃんは「そんな運命いやー」などと言いながら食器を片づけた。勤務終了後に店の賄いを食べていたらしい。すぐに新たなグラスを持って舞い戻ってきた。
「せっかくだから、あと十五分だけ付き合わせて。どうせ十時まではいなきゃいけないんだもの」
「タイムカードを押す前から休めるっていいね」
「愛良さんは休憩も込みで仕事って考えなの。素敵でしょ」
「さすが愛良さん」
「その代わり月末に日本語の文法テストやらされるけどね。まあでもそのお蔭でこれだけペラペラ喋れるようになったし感謝感謝」
 このバーのスタッフは、みんな何らかの事情で海外から来ている。愛良さん自身もスペイン人の父をもつから、海外から来て定職に就けない子たちを助けたい気持ちがあるらしい。以前話を聞いたところでは、従業員が日本語学校に通う費用を給料以外で特別に支援しているという話だった。
 ――語学の壁を越えれば、いろんなチャンスが広がるからね。こういう国では、まずナメられない力をつけるしかないの。
 そう話す愛良さんの目の奥には、強い意志が感じられた。彼女自身、大学に入るまでにはさまざまな苦労があったらしい。
 ――小中学生の頃は髪や肌の色が違うってだけでからかわれたもんだったなぁ。当時まだカタカナ表記だったせいで名前で莫迦にされたりもしたね。でも言い返せなかった。家ではスペイン語中心だったから。でもある時腹を括ったの。この国では、日本語ではっきり意思表示をしないと自分を守れない。さまざまな偏見に覆われているから、せめて言葉という武器くらいはしっかり携えていないとね。
 その話を聞いた時、何だか居たたまれないような、申し訳ないような気持ちになったのを覚えている。愛良さんの半生は、僕なんかには想像もつかないイバラの道だったのに違いない。たしかにこの国には、ふつうに生きていたら気づけないさまざまな偏見があるのだろう。そしてその中を生き抜くのに、言葉は大切な武器になる。
 虚池が「とりあえずビ……」と言い終わらぬうちにビールが運ばれてきた。いつだって上手なのは愛良さんだ。
「一杯目はビールでしょ。はいはい。ゆっくりしていってね。ほら、古戸馬くん」愛良さんは天井を示した。「君の好きなパット・メセニー・グループかけといたよ」
 店内のスピーカーから流れる〈アズ・イット・イズ〉は、パット・メセニー・グループの名盤《スピーキング・オブ・ナウ》の最初の一曲だ。粋な計らいに、すっかり僕はいい気分になった。
 愛良さんが去ると、虚池は「今日は繁盛してるね」と言った。
「そうでもないよ」とティナちゃん。「そろそろあの手前のテーブルの客たちは帰る。いつも夜九時に来て、一時間もいないで帰ってくの。ケチでしょ」
 そこまで悪く言われては、我々も「ちょっと雨宿り」で帰るわけにはいかなくなった。ここのスタッフはみんな明け透けにものを言う。スタッフの素直さを愛良さんがよしとしているのだ。
「客の来たり帰ったりの時間ってそんなに決まってるもの?」
「だいたいはね。読めないのは編集者とか作家くらいのもんよ」
「そう言われると、何だか面目ないね」
 僕が謝る隣で、虚池はガハハと笑っている。
「たしかに俺らは神出鬼没で定収入としてアテにはできないよな」
「そのとーり。あ、ほらね。レジに行った」
 ちょうど手前の二組の客が順番に会計を終えて出て行った。つごう、客は我々とカウンター席の一人だけになった。
「ちなみにあの、いま愛良さんが話しているお客さんも常連?」
 男は、カウンターでグラスを磨く愛良さんに大声で一方的に与太話を繰り広げ、豪快な笑い声を飛ばしていた。その勢いでシャツのボタンも飛ばしてしまいそうなほど、腹が突き出ていた。若い頃は美形だったのが、付き合い酒から今のようになり、特にそれで不自由することもないといった雰囲気だ。スーツの生地の質感から、帰りに自家用飛行機が迎えに来ても驚かない。
 ティナちゃんが声を落として答えた。
「あの方は鎌田さん。大手製薬会社の社長でここのパトロンの一人」
「パトロンの一人?」
「愛良さんは大学時代、ミスコンでも優勝したくらい学内で高嶺の花だったの。で、そのマドンナがお店始めるって決めたら、同級生が俺も俺もって出資に手を挙げた。鎌田さんはその一人」
「ふうん。金を出してでも繫がっていたかったわけか」
 相変わらず虚池の感想はひねている。
「何であれ、私たち従業員にとっても大切な存在よ。日本語学校に私たちが通う費用は、彼の懐から出てるらしいから。けっこう人格者なんだと思う。なかなかできることじゃないよね」
「たしかに」と僕は相槌を打った。金持ちにはよくいるタイプだけれど、何もしない守銭奴に比すれば神様クラスだ。結局、世の中、行動がすべて。思っているだけで募金の一つもしない人間が多いなかで、余っている金を慈善事業に費やす者を偽善者などと、どうして罵れようか? そう考えると、あの突き出た腹さえも、人徳で膨らんでいるように思えてくる。
「この半年は奥様が長らく入院してらしたから、いらっしゃらなかったけど、闘病の末に亡くなられて、四十九日が近づいた頃から、またちょくちょく……」
「四十九日も済んでないのにバーで酒か」とすかさず虚池。
「君の言葉はいちいち棘があるよ」
 見かねて僕は注意した。ティナちゃんは笑いながら、
「寂しさを紛らわしたいんでしょ。来店早々に死にたい死にたいって言い募るの。で、愛良さんが〈はいはい、死ぬならここでね〉って宥めるのがお決まりよ。仕方ないわよ。急に一人になったわけだし」
「そりゃあそうだ」と僕もことさらに頷いたが、虚池はまだシニカルに片眉を上げながらビールを啜っている。
「まあ、〈死にたいって言えてるうちは大丈夫〉とも自分で言ってたから、大丈夫なんでしょうけどね」
 その時、ティナちゃんが立ち上がり、カウンターの中にいる愛良さんに向けて言った。
「愛良さん、それじゃあ私そろそろ失礼するけど、本当にいいの?」
「もちろん」
 ティナちゃんは微かに戸惑いつつも、一度腰を下ろすと、ジョッキの残りを勢いよく飲み干した。
「ぷはーっ、仕事終わりのお酒って最高。クジラくんとまだ飲んでたいのに名残り惜しいけど、帰らなきゃ。ベビーも待ってるしね」
「えっ……」
 ティナちゃんには子どもがいるのか……。初情報だが、店員のプライベートに一喜一憂すべきではない。すぐに気持ちを切り替えた。
「じゃあまたね。クジラくん、あとええと……」
「古戸馬です」
「ああそうそう、コトバくん。チャオ」
「ブルガリアってチャオじゃないでしょ。チャオ」
 鎌田という男も、ティナちゃんに慈愛に満ちた満面の笑みで手を振った。悪い人間ではなさそうだ。
 ティナちゃんが去ると、僕らのテーブルには品切れ状態の花屋みたいな孤独感が漂い出した。虚池の目がテーブルの真ん中あたりで止まったのはその時だった。
 虚池は手を伸ばして、目にしていたものをつまみあげた。折り畳まれた紙ナプキンに達筆な文字が記されている。内容は次のとおり。

 柱に当たって月消し帰る

 一見、詩的なフレーズだが、謎めいてもいる。簡単には意味がつかめない。誰が何のために書いたのだろう? 虚池は、そのメモをしばしじっと見つめていたが、やがてニヤリと笑った。
「雨宿り人が去り言葉残る――だな。今日という日は無駄ではなかった。面白いものに出会えたぞ」
 虚池がそう言ったタイミングで、店の電気が消えた。
「あらら? 停電かな? 雷でも落ちた?」
 だが、厨房の電気は消えていない。音楽も流れたままだ。慌てる僕に対して、吞気な声で虚池は呟いた。
「人工の夜空の下 人工の我」
 周囲を見回し、驚いた。壁紙に隠れていた蛍光性の模様が浮かび上がり、微弱な星空となっていたのだ。

(続きは本誌でお楽しみください。)