いつも通り罪人の首を斬るだけの仕事のはずだった。山田暁右衛門は眉間に皺を寄せて腕を組み、仕置き場に引き立てられてきた罪人を見下ろしている。
 後ろ手に縛られて荒筵の上に膝をつく男。浅黒い肌に粗末な着物を纏い、首に縄をかけられている。
 そこまでは良いのだが、問題は顔だった。首の半ばより上は黒い毛に覆われており、鼻は長く、耳も天に伸びていて馬とも鹿ともつかない奇妙な見た目をしている。面紙で目元が覆われているのもあってとにかく得体が知れない。
 雲一つ無い空。夏の暑さも消え去り、内向きに忍び返しの付いた練塀で囲われた牢屋敷にも涼やかな風が吹いているが、それだけでは濃く染みついた陰鬱な死の気配を押し流すことはできないようだった。
 鍵役の男が改めて罪人に名を問い、身分を確認している。それが終わるまで待ってから、暁右衛門は低く問うた。
「どういう、ことでしょうか」
 鍵役は慌てたように背筋を伸ばし、やや裏返った声を出した。
「は、この男は白昼堂々大名屋敷に忍び込んでは何百両も盗み出す犯行を繰り返し」
「そういうことを訊いているのではございませぬ」
 暁右衛門がぴしゃりと言い放つと、鍵役は後ずさって謝罪の言葉を述べる。まだ三十にならない暁右衛門より年も上だろうにやけに縮こまっているのは、刀の様し斬りの傍らで首斬りも請け負う暁右衛門の生業を恐れているからか、それとも暁右衛門につきまとう不吉な噂に怯えているからか。
 どちらも事実とはいえ、過剰に距離をとられても仕方がない。暁右衛門はできるかぎり優しい声音をだすようつとめた。
「こやつの首、いや、顔は……どう見えましょう」
「は、平凡な顔立ちにございますな。この特徴のない顔で商人や髪結いに化け、屋敷内に入り込んで下見をし後日犯行を行う悪質な」
「そういうことを訊いているのではございませぬ」
 申し訳ありませぬ、と身体を縮める鍵役を横目に暁右衛門は奥歯を嚙み締める。
 いったいどういうことだ。この罪人の首が化け物に見えるのは自分だけだとでもいうのだろうか。そんな馬鹿な。周囲を見渡しても、役人共はこちらに目もくれず刑の執行の準備のために忙しく動き回っている。
「アンタ、もしや俺の顔がバケモンに見えるのかい」
 その低い声は、獣顔の罪人のものだった。
「ア、ハハ、重畳だ。アンタにゃ気の毒だが、こいつァ願ったり叶ったりだ」
 鼻先をあげて歯を剝き出すその姿はいっそ滑稽だったが、そこから溢れ出す声はやけに魅惑的で空恐ろしいような響きを持っていた。
 静かにさせようと罪人を𠮟りつける鍵役を押しとどめ、平静を装って問う。
「おい、お前。どういう意味だ。なぜそんな姿をしている」
「なぜ、なぜかって、そんなもん俺にもわかりゃしねェや。何百年も代わり映えしねえツラ見せられて飽き飽きしてンだ。この首、ほら、ここんとこだ。バケモンと人の境目を綺麗に斬ってくれよ」
 罪人は首をさらけ出すように、斜めに顎を反らす。喉仏のすぐ下にその境はあって、艶々とした黒い毛並みと張りのある肌をはっきり分けていた。
「アンタなら余裕だろ? 殺しなんてもうやり飽きて厠でしゃがむより簡単なんだろうがよ、なあ頼むよ、首斬り暁右衛門さんよォ」
 興奮気味に膝でにじり寄ってくる罪人を、控えていた三人の介添え人足が慌てて止める。罪人が地に顎をつけながら低く笑うほど、人足達は顔を強ばらせてその肩を強く押さえ込んだ。暁右衛門は罪人の言葉の意味を考えながらそれを眺めていたが、騒ぎを耳にした周囲の者達が緊張を強めていく様子に気づいてようやく制止した。
「もういい。さっさと済ませよう」
 刑の執行が迫り錯乱する者は多い。それに慣れているはずの役人や介添え人足達が動揺するのは、誰よりも冷静でなければならない暁右衛門が困惑しているのが伝わっているからだ。
 じわりと背筋に滲んでくる汗に気づかないふりをする。首を斬ればよい。それだけだ。いつもの勤めとなんら変わりない。相手が何者であろうと構うものか。暁右衛門は鍵役に声をかけて下がらせた。
 暁右衛門が一歩踏み出せば、人足達が罪人を改めて跪かせる。がっしりとした体つきの人足が右腕を、背の高い人足が左腕を、顔に傷のある人足が肩を油断なく摑んでいたがもはや罪人に暴れる様子はなく、待ちきれないと言うかのように血を溜めるための深い穴の上に身を乗り出していた。背の高い人足が脇差で首にかけられている縄を斬り、罪人の着物を引いて肩までさらす。
 暁右衛門は柄に手をかけて音もなく刀を抜く。そして傍らに置いてあった手桶から柄杓で水を汲むと、刀身を清めた。柄杓を手桶の上に戻し、確かめるように刃を一瞬日にかざしてから、ただ正眼にかまえた。
 そして頭の中で経を唱え、その通りに唇を動かす。それは罪人の成仏を願うものではなく、かつて師匠に教わったことをそのままなぞるだけの行為。信心深かった六代目と違って、今代の暁右衛門は神も仏も信じない。
 いつだって平静に与えられた仕事をこなしてきた。十七の歳、師匠についていった仕置き場で初めて人の首を斬った時すら心は動かなかった。今回もそう、いられるはずだ。
 眼下にある太いうなじはまるで斬るための印のように、人の肌と獣の毛皮に分かれている。その下にある血の流れを、しなやかな筋肉を、硬い骨を思い浮かべる。それがあまりに生々しい命に満ちていたから、一瞬頭が熱くなる。どうしてだろう。相手が得体の知れない化け物だからというだけでは説明できない、胸の奥を搔き毟られるようなこの感覚。不愉快で実態の無い懐かしさ。自分の喉が勝手に動いて、誰かのことを呼んだかのような気がした。
 罪人がふと首を曲げたと同時に、罪人の面紙を結んでいた藁縄が緩んだ。その左目。深い茶色の目と目が合う。馬とも鹿とも違う、人間らしい目の瞳孔が一瞬で大きく開く。暁右衛門は強い力に引き寄せられるように刀を振り下ろした。
 ふいに罪人が身体を引き上げたから、ずれた切っ先が罪人の左肩を鎖骨ごと斬り裂く。粗末な着物の下で柔らかい肉が露出しているというのに声もあげず立ち上がった。そして暁右衛門の顔を正面から眺め下ろす。刀を引き抜くことすら躊躇う、異様な気迫だった。罪人の肩から溢れ出す赤黒い血が、暁右衛門の足下を濡らしていく。
 ああ、と罪人は息を吐いて、顔にまとわりついていた面紙と藁縄を力任せに破り捨てた。いつのまにか腕を繫いでいた枷も意味をなさなくなっていたらしい。もはや必死で押さえつけようとする人足達すらいないも同然だった。
 顔の側面についた目が、同時にこちらを向いている。通常の馬や鹿ではありえない眼球の動き。そして罪人は、眩しげに目を細めた。
「殿……」
 そう言ったようだった。周囲の人間の声など聞こえない。やけに空が高く、強い日の光が降り注いでいる。血の匂いが噎せ返るほど満ちていた。
 罪人は刀身を右手で摑んで無理に引き抜くと、そのまま刃を強く握りしめた。掌から溢れ出す赤い液体が刃文をなぞるように流れ落ちていく。
 それが柄まで滴った時、罪人は名残惜しげに手を離して一歩下がった。そして腕を交差させると、左右の人足の襟を摑んで勢いよく引いた。額と額がぶつかる鈍い音。一撃で人足達が倒れ込むのを見て我に返った暁右衛門は赤く染まった刀で横一文字に斬りつけようとしたが、胴体に触れる寸前で動きを止めた。罪人が、顔に傷のある人足を盾にしている。
「また、後ほど」
 罪人がそう囁いて、人足を突き飛ばした。暁右衛門はこちらに倒れ込んでくる人足を受け止めて姿勢を崩す。
 罪人は背を向けて、軽い足取りで走り出した。集まってきた役人達を蹴り、刃をくぐり、投げ飛ばし、高笑いをあげる。そして七尺(約二メートル)を優に超える練塀の前に至ると、信じがたい跳躍力で飛び上がった。尖った忍び返しで脚の皮を裂いたが、気にした様子もなく塀の向こうに消えていく。
 役人達が右往左往して後を追う様子を眺めながら、暁右衛門は人足を助け起こした。
「おい、無事か」
 人足は震えながらも、肯定の言葉を返してくる。そうかと思えば、自分も罪人を追うと言って駆けていってしまった。残りの人足達はまだ地面に倒れているが、呼吸はしているようだし命に別状はないだろう。
 騒然とする仕置き場で暁右衛門は、柄杓で水を掬い、刀に纏わりついた血を流した。いつもならそれで済んだ。首と胴が離れれば、後は溢れ出した血液が血溜めの穴に流れ込んでいくだけのはずだった。
 見回せば辺りには血溜まりができ、暁右衛門の手も足袋も赤く濡れている。
「無様だ」
 誰に聞かせるでもなく呟く。斬り損ねたことなど今まで一度もなかった。師匠が存命であったら、この惨状を見てなんと言うだろう。
 罪人はどこまで逃げたのか。あの出血量では助かるはずもないが。頭ではそう思うのに、胸騒ぎが消えない。これで終わるわけがないと、確信めいた何かを感じていた。

(続きは本誌でお楽しみください。)