保冷バッグの中から、おにぎりを取り出していく。ひ、ふ、み、よ、と胸の中で数えながら緩んだラップを握って直した。

「マル子さんのおにぎりだ」

「さとちゃんのリクエストだから、たくさん握ってきちゃった」

 顔中の筋肉を総動員して笑う彼女を見て、私は胸を撫で下ろした。



「マル子さんの作ってくれるあのおにぎりが食べたいな」

 話の流れでぽつりと呟かれた一言に私の思考は縛り付けられた。本当に食べたいと思うリクエストなのか、ただ私に気を使って口から出たのか、言葉の真意を深く読み取ろうとしてしまう。けれど、縛り付けられ、頭から離れないさとちゃんからの「あのおにぎりが食べたい」という言葉に取り憑かれるように、私は台所でひたすらおにぎりを握ったのだ。

 炊き立ての米に、めんつゆをふた回し、レンジで加熱した鰹節を手で粉状に砕き混ぜ合わせる。天かすをざっと流し込み、米全体が薄茶に染まれば完成だ。ひとつひとつラップの上にのせて三角に握っていく。その間も「本当に作ってよかったのだろうか」という疑問は消えないままだ。



「ももちゃんもおいでよー」

 さとちゃんに呼ばれて稽古場の自席に小さく座る少女が少しだけ目を輝かせ、こちらを見た。

「マル子さんのおにぎり本当に美味しいんだから! 早く取らないとなくなっちゃうよ」

 本人はひそひそ話をしているつもりの声量なのだが、舞台人である私たちのひそめた声はどうしてもよく通る。

「いただきます」と、ももちゃんの細い腕がおにぎりに伸びた。アイドルグループに所属をしている彼女は今回が初舞台なのだそう。

 稽古が始まって二週間。ももちゃんはまだ誰とも打ち解けることなく、自分の出番以外は稽古場の隅にある長机の席に小さく収まっている。世話焼きのさとちゃんが声をかけ続けわずかに打ち解けてきた感じはあるが、彼女はずっと台本を見つめている。姿勢良くしゃんとした佇まいは美しいが、まるで獲物を放すまいと齧り付く必死さが眼差しの強さに表れている。

 ももちゃんは、私がくしゃっと包んだラップを丁寧に剝がし、小さな口をほんの少しだけ開いておにぎりを食べた。じっくりと咀嚼したあとに小さく「美味しい」と呟くと、ひとくち、ふたくちと、続けて頰張り始めた。さとちゃんは満足気に、

「マル子さんのおにぎりは最高なんだから。私もこの天かすおにぎり大好き! バレないうちにもう一個貰っちゃおー」

 と、ももちゃんとは比べ物にならない大きな口でおにぎりにぱくついた。もぐもぐと咀嚼する度、さとちゃんの頭の上に結いあげられたお団子髪がゆらゆらと揺れている。彼女は四十代だが、元気のよさは二十歳のももちゃんより優っている。

「おはよう」

 演出家の野上さんが稽古場に入ってくると、ももちゃんの体にグッと力が入った。私たちは口々におはようございますと、野上さんに向かって挨拶をする。芸能の世界ではいつ何時でも、その日会った人にはまず「おはようございます」と挨拶をする習慣がある。

 わらわらと稽古場の中心に集まってくる役者たちを気にすることなく、野上さんは自分の席に台本を広げていた。スタッフがいそいそと水筒を持ってきて手渡す光景もいつも通りだ。緑の水筒には緑茶が、白の水筒にはコーヒーが入っている。私たち売れない役者は自分で煮出したお茶を持ってくるが、売れっ子演出家にもなれば何も言わずとも水筒に入った飲み物が提供される。それも含めて、野上さんのこれまでの仕事が認められたということだろう。

「今日は一幕三景を中心に稽古します」

 野上さんの隣に座る演出助手の田中くんが、誰よりも大きな声でハキハキと喋る。にこりとしたときに笑い皺がわずかに浮かぶハリ艶の良い肌。実はもうすぐ五十歳を迎えるらしいが、彼の肌を見ていると萎んでいる自分の肌が酷く年老いて感じられる。歳が二つだけ上の私の肌はシワやシミに覆われ、乾燥して毛穴も開いている。若いときはまだ円形だった毛穴も今や重力に負け、楕円状にたるんで目も当てられない。自分がおばさんである現実を突きつけられ、毎日挨拶を交わす度にその綺麗な肌はどうやって保っているのか田中くんに教えてもらいたくなる。

 芝居稽古が今日も始まった。役名のないアンサンブルも合わせた二十五名の役者たちが、自分の出番を待ちながら稽古場の隅で待機している。

 ももちゃんが舞台の真ん中で人を呼び込んだら私の出番だ。それまでは隅で息をひそめメインキャストたちの芝居を眺めている。テープで囲われた本番の舞台を想定したエリアに上がっても、自分の台詞以外は舞台の背景の一部になるよう心がける。メインキャストを引き立たせることが私たち脇役の仕事だ。

 本番まであと三週間。

 野上さんが座付き演出家を務める『劇団潮祭』。今年の秋公演は「ルパン三世」をベースにしながらも舞台を江戸時代に移し替えた盗賊チャンバラ劇である。

 主演の松山康二さんは腕の立つ盗賊・千石役で、今回のヒロインである中野ももちゃんは、千石が狙うお宝のあるお屋敷のひとり娘・千夏役。私はというと、千夏の住むお屋敷に勤める女中2という役どころだ。稽古でも、本番中でも、劇団員のさとちゃんの横で言葉数少なく彼女を見守るのが役割である。



 稽古が終わり、荷物がぎゅうぎゅうに詰まったかばんを抱えて帰宅をした。真っ暗な部屋に灯りをつけると、がらんとした空間が広がる。

 狭いけれどひとりで暮らすにはなんの苦もない築三十年を過ぎた六畳一間。十年も住んだこの部屋では、目をつぶったって生活ができるだろう。二口のガスコンロと、鍋をひとつ置けばいっぱいになってしまう流し。まな板で野菜を切る場所も満足に確保できないので、料理をするときは台所のデッドスペースにピッタリはまったキャスター式の棚を引っ張り出し、長細い台の上で包丁仕事をする。冷蔵庫はビジネスホテルにあるような正方形の小さなものがひとつ。アイスも買わないし、冷凍をしないと割り切ればものを傷ませることはない。冷やす、保存するという目的が果たせるこの冷蔵庫で十分事足りる。自分が食べ切れるだけの食料を買うことが身についた今では、大きな冷蔵庫など必要ないとさえ思える。

 縦型の洗濯機は轟音を立てて回るから、近所迷惑を考えて洗濯をしなければならない。ベランダ干しができないので、狭い部屋の中には下着や稽古着にしている過去に出演した公演Tシャツが吊るされたままだ。

 折り畳み式のローテーブルの前に腰を下ろす。全身の緊張が一気に抜け落ちそのまま床に寝そべりたくなるけれど、ここで横になればそのまま寝てしまうだろう。むくりと起き上がり、テーブルの上のタオルの上にちょこんと丸まる「かめちゃん」に「お母さん今日も頑張ったよー」と声をかける。かめちゃんは丸まったまま、茶色の体からちくちくしたハリを外に突き出しているだけで反応はない。私はいつも糸のほつれたタオルの上でじっとしているかめちゃんを眺めるだけだ。それだけでも、何かと生活している気持ちになれて心がほぐれる。

 どんなに疲れていても今日の稽古をきちんと復習し、完璧に体に入れるまでは眠れない。



 舞台の稽古が始まれば、日々の予定が決まってくる。朝は六時に目を覚まし、吊るされたTシャツをハンガーから外し着替えていく。緩みきった下半身をウエストがゴムになっているパンツに収め、六時半に始まるNHKラジオ体操を見ながら体を温めていく。稽古中に小腹が空いてもいいように簡単につまめるおにぎりを自分用に握り、一緒に朝ご飯も済ませる。それが終われば出かけるまでにこれまでの稽古を復習し台本を改めて確認する。どんなに覚えていようが台本を頭から読み直し、他の役の動きを頭の中でイメージして全員の台詞をきちんと入れておく。そうすることで、稽古場で他の役者の動きが把握しやすくなり、自分の芝居の視野が広がり新たなアイディアが浮かんでくる。それから、その日の稽古の予習をする。稽古場の一駅前で降り、ウォーミングアップがてら歩いていくことにしている。

 稽古場につけばストレッチをしながら自然と頭の中で台本を頭から暗唱している。開脚をし体側を伸ばす度、自分の腹の肉が邪魔でしょうがないと意識が削がれるのもルーティーンの一つだ。瘦せたくても、歳を重ねた分、瘦せるのにも時間がかかってしょうがない。改めて全員で準備運動をしてから、ようやく稽古が始まる。

 帰宅したら晩ご飯の準備をし、稽古の復習。ゆっくりする時間はわずかで、風呂のお湯を溜めている間にテレビを見たり、かめちゃんにその日あったことを話して聞かせたりしてすごしている。布団に入る前にもう一度翌日の稽古予定の部分に目を通し、十一時までに就寝する。これをただひたすら繰り返す。稽古期間中の生活の軸は台本と共にあり、片時も台本を離さず常にそばに置いておく。役のことでも、作品のことでも、発見や気がつくことがあればすぐにメモをしておけるようにペンもセットだ。



 本番まであと二週間を切った。まだ時間があるように感じても、通し稽古が始まればあっという間に劇場入りの日がやってくるだろう。このくらいの時期になると稽古場まで歩く道に体が馴染んでくる頃だ。歩くリズムに合わせ、歌のように台詞が気持ちよく浮かんでは流れていく。

 騒がしい新宿の片隅にある稽古場はいつも熱気に満ち溢れている。今回の演出家である野上丈さんは、私が新人の頃から何度もお世話になっている演出家である。当時は演劇界でも新進気鋭と言われ、小劇場から始まった自分の劇団を今では新国立劇場の中劇場で四十公演を満員御礼にし、さらに追加公演までしてしまうほどの人気劇団に育て上げた人物だ。

 とにかく演出が細かく、自分のイメージと違う芝居には即座に直しが入る。繰り返し同じ台詞を役者に反復させ理想とする音になるまで徹底的に稽古をつける。普段は気さくでいい人だが、ターゲットになった人はもう大変。野上さんの集中攻撃に参ってしまった若手を私は何人も見てきた。今回ターゲットになっているのは、舞台初挑戦のももちゃんである。

 彼女は次々とつけられていく芝居の動きを覚えるのに必死になり、頭から湯気が出そうなほど追い詰められていた。稽古中の野上さんの視線や、呼吸に意識が行き過ぎて、どんどん芝居が臆病になっていくのが見ていて居た堪れないほどだ。自信のなさは声に表れやすい。どんどん彼女の声が細くなり、それでも無理をして出そうとするからか、声が嗄れ始めている。

「ももちゃん、大丈夫?」

 さとちゃんが稽古場で心配をしても、彼女は「自分が未熟だからダメなんです」と台本を片手に得意のダンスの振り付けを覚えるように舞台エリアで動きを繰り返していく。

「一番から、上手の四番、そのあとは右に抜けながら下手の椅子に座る」

 口の中で呪文を唱えるようにして台本にかじりついても、彼女は稽古になるとぴたりと動きや台詞が止まってしまう。謝る度、野上さんの檄が飛び、ただでさえ小さい彼女の体はもう一回り小さくなる。

「事務所にパワハラって言われないかねぇ」

 野上さんの激情っぷりを見ながら、劇団員の梅元が呟いた。さとちゃんはあっけらかんとして、

「でも野上さんってももちゃんのことが好きだから、ああやって演出つけるんじゃないですか? 本当にダメな子は台詞ガンガン削って喋らせないようにするし。ほら、いつだったかあったじゃないですか。客演の若手俳優の子、三番手だったのに言葉を喋らないキャラクターに代えられちゃったこと」

「あったねえ、そんなことも。ただ、あのままじゃつぶれちゃうよ。俺だったらもう逃げてる」

「私も、ささーっと姿消しちゃう」

「最初の台詞もももちゃんだしねえ。重要だからこそ、野上さんも気合入ってるのかな。この間も頭の長台詞を何時間も繰り返し稽古させられてて、流石にかわいそうだったし」

「メンタルも喉も心配ですよね」

 私の言葉に二人も大きく頷いた。

「マル子さんもよくうちの劇団に客演できてくれるじゃないですか。私が劇団に入る前とか、ターゲットになったことあるんですか?」

「さとが劇団員なのに、なんでマル子さんは客演なのかね」

「いつもマル子さんがいてくれたら、美味しいご飯食べられるから、劇団員になってくれたらいいのになあ」

 そう言ってヘラヘラ笑うさとちゃんの笑顔を見ながら、何かに属していることは人に余裕を与えるのだなと思った。私も、ももちゃんも、所詮お客様なのである。今回が最後かもしれないし、もう一度仕事として呼んでもらえるかもしれない。どの仕事でもそうだが、今の仕事から次につながるようにアプローチをしていかなければそのまま燻って終わっていくだけだ。趣味で芝居を続けるならいいが、私は周りに反発するようにして、板の上に立つことで食べていく人生を選んでしまった。そのためには必死でここから降りないようにしなければならないのだ。

 ありがたいことに今は小さな芸能事務所に拾ってもらい、完全にフリーとしてさまざまな劇団を客演として渡り歩いた頃よりは多少生活に安定感も出てきた。けれど、次の仕事が必ずあるわけではない。いつも危機感と隣り合わせである。潮祭のみんなのようにチームに属しているという感覚が持てないでいる。現場にマネージャーが来ることは滅多にないし、顔を合わせるのは年に数えるほどしかない。仕事のやりとりはメールで済んでしまうし、自力で営業をして人脈を作っていたときより、孤独感が増している。

 それにしても、ここ数日のももちゃんの憔悴加減は、目も当てられないほどだった。梅元さんが言うように、キャスト全員の前で、冒頭の一人の長台詞を何時間も稽古していた。焦れば焦るほど彼女の芝居は崩れていき、その度に野上さんの檄が飛ぶ。迫り上がってきた涙を流すまいと必死に堪えながら、台詞を口にする彼女を見ていると心が痛くてしょうがなかった。あのままでは萎縮してできるものもできなくなってしまう。どうしたら彼女は自由になれるのだろうか。

 稽古の合間、ももちゃんに声をかけた。彼女はまた一人自分の席に座り干し芋を小さな口で食んでいた。ぎらついた目はしっかりと台本を捉え、チラリと見えた彼女の台本は赤ペンの文字と、付箋でいっぱいになっている。

「今日、終わってから時間あるかしら」

 干し芋を咥えたままの彼女の目が私を捉えると、鋭かった視線は一変し、瞳の中にきらりとしたものが光る。どんなに疲弊していても目に輝きを持つ子だからこそアイドルになったのかと腑に落ちた。ぎらついた印象があるのに面と向かうと彼女は所在なさ気な表情を見せるのだ。計算なのかはわからないが、弱った姿は助けてあげたい、見守りたいという気持ちにさせる。だからこそ彼女は多くの人から支持されているのだろうか。

「マネージャーさんに聞いてみます」

 ピンク色のカバーのついたスマホを手にすると、テンポよく文字を打ち込んでいく。

「もも!」

 演出席から野上さんが彼女を呼んだ。飛び上がるように席を立ち、台本を引っ摑んで彼女は野上さんの元へ走っていく。横顔は、わずかに微笑んでいるように見えた。

(続きは本誌でお楽しみください。)