「まず、このデータを見てくれ」監督の原口が厳しい表情で言った。「ここ三年間の、一試合あたりのハンドリングエラーの変遷と、スクラムの結果だ」

 回されてきた紙を見て、今田剛毅は首を捻った。試合前のミーティングはいつも通りだが、普通、こんな細かい話はしない。相手チームのプレーの特徴を確認し、その試合の基本的な戦術を決めるぐらいだ。パス中心か、蹴っていくのか─。

「年々、一試合あたりのハンドリングエラーが増えている。練習不足、それに気の緩みもあると思う。うちはずっと、パス中心のラグビーをやってきて、その伝統は確かに大事だ。しかし常に回すことだけを考えて、他のプレーに対する意識が低くなっていた可能性もあるんじゃないか? ハンドリングエラーはスクラムにつながり、スクラムの回数が増えればフォワードの負担が増えて、最前線から崩れてくる。実際、試合後半になると、スクラムで押し負けるケースが増加している。そこでだ、今日はハンドリングエラーを少なくする、スクラムを組む回数が少なくなるように意識して、試合を進めて欲しい。今田の引退試合なんだから、いい試合─勝って締めくくるのは当然として、チームとしてきちんと課題を解決しよう!」

 おう、と低い声が揃う。

 河川敷のグラウンドなので、当然ロッカールームなどはなく、サイドライン際のベンチ前での作戦会議。それにしてもこの指示は妙だ、と今田は思った。確かに最近、このチーム─レッドドラゴンズには細かいミスが多い気はする。原口が渡してくれたデータを見ると、それを実感する。去年、一試合平均のハンドリングエラーは二十五─これはひどい。一昨年は二十二・五、その前の年は二十を割っていたから、年々悪くなっているのは間違いない。しかし、スクラムの押し負けは……今田の記憶と記録が合致しない。そんなにスクラムで負けた覚えはないのだが、数字は冷徹に、去年は四十四パーセントしか勝てていないと示している。マイボールのスクラムでボールを相手に奪われたり、押しこまれて反則を取られたり。それがそのまま、プロップとしての自分の衰えを証明しているようで嫌だった。スクラムは八人で組むものだが、まずはフロントローの三人がしっかりしていないと、強くなれない。三人がスクラムのベースを作り、残る五人がそれを後ろから支える感じだ。

 過去を振り返り、将来に向けて修正するのは大事なことだ。しかし何も、今言わなくてもいいのではないか? 自分の引退試合の前に。

 それにしても……確かに。

 今田は、左プロップの門前と肩をぶつけ合った。今年の門前はまだ体が出来上がっていない……シーズンオフの間、ウェイトトレーニングをサボっていて筋肉が落ちたままという感じだった。まあ、この男は試合を通じて体を作っていくタイプの選手だから、毎年シーズン後半になって、ようやく絶好調になるのだが。

「監督、何であんなこと言い出したんだろうな」二度、三度と肩をぶつけ合いながら、今田は言った。

「さあ……でも去年から、ハンドリングエラーは気にしてましたよ。データ解析、俺も手伝わされましたけど、エラーが増えてるのは間違いないし」

「お前、そんなことやってたのか?」

「商売柄、ですかね」門前が平然と言った。この男はIT系企業の営業マンである。本人がプログラムを書くわけではないだろうが、数字をいじるのは得意だと常々言っている。表計算ソフトの扱いなど、お手のものだろう。「ま、今日はミスを抑えるということで。具体的な目標があっていいじゃないですか」

「そうだけど……」あの監督も、何を考えているか、いまいち分からないところがある。自分より五歳年上の五十歳。世田谷RFC─レッドドラゴンズで、四十歳までは現役だった。フルバックとしてチームを支え、現役を引退後は、当時の監督からその座を引き継いだ。自分より年上の選手も多い中、よくチームを引っ張ってきたと思う。データを重視し、精神論─気合いや根性などは絶対に口にしないタイプ……今日の指示も、分からないではないが、あまりにも唐突だ。

 俺の引退試合なのに。

 そのことだけ言って、送り出してくれればよかったではないか。これが最後の試合なのだから、存分に暴れさせてくれればそれでいいのに。



 今田が所属するレッドドラゴンズは、誰でも参加できるクラブチーム、いわゆる草ラグビーチームだ。昔は三十代以下の選手が多かったが、若い選手がなかなか集まらなくなり、選手の高齢化が進んだ。今日の先発メンバーの平均年齢は、今田とほぼ同じ、四十五歳ぐらいだろうか。チームは二部構成で、腕に自信のある「本隊」と、単純にプレーを楽しむシニアチーム─主に五十歳以上─に分かれている。シニアチームの方が先輩風をふかし、今田がプレーする本隊は「ユース」などとも呼ばれている。大会にも参加するし、交流試合、友好試合として、都内外のチームとの対戦もある。何だかんだで、春先から真夏以外のシーズン中は、毎週末に試合があるのだった。年齢が高いせいか故障者も多いが、今田はこれまで、ほぼ無傷で十五年以上プレーしてきた。ポジションは若い頃─ラグビーを始めた高校生の頃から一貫して、右プロップ。背番号「3」を背負って、もう三十年ほどになる。五十歳までは一線で頑張ろうと決めていたが、それは叶わず、四十五歳で引退─まあ、そんなことを気にするのは俺だけで、チームメートには関係ない。

 これまで何試合ぐらい、プレーしてきたのだろう。高校、大学、そして少しブランクを置いてレッドドラゴンズ……必ずしもトップクラスで活躍してきたわけではなかったが、自分なりに全力を尽くしてきた自負はあった。

 そして今でも─引退試合になっても、キックオフの瞬間には、胸が締めつけられるような緊張感を味わう。

 マイボールのキックオフ。浅く蹴ってくれ、と願う。最初のコンタクトで、ボールをキャッチした相手チーム・ブルーラインズの選手に強烈なタックルを見舞ってやる─。

 しかし、スタンドオフの徳田は深く蹴りこんだ。二十二メートルラインの近くにいたブルーラインズのナンバーエイトがキャッチする。突進してくる、と読んで、今田は最前線からダッシュした。五十メートル近くを一気に走り切り、まず相手に一撃を与える─しかし相手ナンバーエイトは、予想外の動きに出た。自分で突進しようとせず、すぐにバックスにボールを回したのだ。そんな深くからバックスを走らせるのか……積極的でいい手だと思ったのも束の間、ブルーラインズのスタンドオフは蹴った。それもタッチを狙うのではなく、レッドドラゴンズの陣地深くに。狙いはなんだ? 今田は方向転換して、すぐに戻り始めた。こちらのフルバック・宮尾がワンバウンドのボールを処理して前に出る。一気に突っこめ─と思ったが、宮尾も蹴り返した。おいおい、何なんだ? 自陣深くからの蹴り合いは、昔はよくあったが、最近は珍しい。とにかくパスを回して、常にボールをコントロールし、前進を図るのが一般的である。

 ボールはタッチに……出ない。ぎりぎりでキャッチしたブルーラインズのフルバックが、また蹴ってきた。しかしミスキック……タッチに出ずに、中途半端なキックになって、ちょうど今田の前に飛んできた。よし、前が空いている。このままゲインしてポイントを作り、じっくり攻撃を展開していこう。

 ノーバウンドでキャッチ。その瞬間、「今さん、左!」と声をかけられた。すぐ近くにいた右ロックの大澤がダッシュで近づいて来る。相手チームのディフェンスは迫っているが、今田ももう走り出してトップスピードに乗りかけている。ぶつかれば勝てる─ラグビー選手は試合中も常に、情報を収集・分析しているものだ。トイメンの選手の体格、スピード、姿勢。こちらのポジショニング、疲労感。試合が始まったばかりの今、体力は十分だ。突破できる。止められても、倒れずにこらえ、ドライビングモールにして押しこめる。

「今さん!」

 何だ、しつこい! しかし今田は、相手のディフェンスとぶつかる直前に、大澤にパスを出した。要求されればパスするのは、ラグビーの基本だ。後ろにいる選手の方が視野が広く、ディフェンスの穴を先に見つけていたりするから─直後、相手の選手とぶつかったが、これはレイトタックルというほどではない。ただ勢い余っての衝突だ。

 それは分かっていても、今田はぶつかる直前には異様に緊張して身構えた。衝撃がそれほど大きくなかったので一安心……駄目だ、こんなことでは。本当はラグビーなんかやっている場合ではない。しかし試合に出ている以上は、自分が今持っている力を全て解放すべきではないか。

 大澤は身長百八十八センチ。クラブチームのロックとしては長身で、実際、チームで一番背が高い。ラインアウトの中心だし、突破力も高い。今回も、二人がかりで止めに来たのをものともせず、前進する。相手の二人はジャージを摑んで何とか前進を阻もうとしていたが、止まらない。三人目が前からタックルに入って、ようやく倒れた。ボールはレッドドラゴンズがコントロール……今田もラックに入り、ボールの位置を確認した。これはすぐに出る。急いで出して連続攻撃だ。

 ラックにはあまり力を入れず、すぐに離脱できるようにした。右か、左か……追って、次の攻撃拠点を作るようにしなければならない。

 ボールはすぐに出た。右─自分がいたサイドにボールが回る。急いでラックから離れ、右後方へ展開した。ボールはバックスに回っている。早いパス回しで、スタンドオフからセンター、フルバックがライン参加して一人余った。ウィングが大外でボールを待つ。無事にパスが通れば一気にトライ─しかしライン参加が少し遅れたフルバックからウィングへのパスが乱れた。少し前過ぎる。ウィングの広井が必死でボールをキャッチしようと手を伸ばし……いや、ふいにスピードを緩めて諦めた。ボールはそのままタッチラインを割る。

 今田は思わず、広井を𠮟責した。

「広井、今のは取ってやれ!」

 広井はちらりと今田を見て「オス」と返事をしたが、すぐに目を逸らしてしまう。

 何だ、あいつ……今のは明らかな怠慢プレーだが、それを恥じる様子もない。もしかしたらどこか痛めていて、最後の一歩をダッシュする力が出ないのか? しかしディフェンスラインに並ぶ足取りを見た限り、体調には問題なさそうだ。

 だったら何が……。

 レッドドラゴンズのラインアウトは、大澤が入ってから一気に強化された。大澤は大学まで本格的にプレーしたものの、卒業後は普通に就職して仕事に勤しみ、家族を作り……しかしそういう普通の暮らしに満足できずに、四十歳目前にレッドドラゴンズの扉を叩いた男である。こういう「リターン組」は意外に多い。四十歳ぐらいになり、仕事も家庭も安定した時に、若い頃に打ちこんできたラグビーにもう一回チャレンジしたい─自分がまだ若いことを証明したいと思うのだ。

 そういう選手は普通、なかなか上手くならない。体力や技術は現役時代に比べてずっと衰えているし、それを完全に取り戻すことはできないのに、若い頃のイメージだけが残って焦ってしまうからだ。しかし大澤はラグビーから離れている間も走りこみや筋トレを続けていて、最初からコンディションはよかった。勘を取り戻すと、一年目からたちまち中核選手に……それから三年、今ではレッドドラゴンズに欠かせない攻守の要になっている。

 相手チームのスロワーは、二番目に並んだ選手にボールを投げ入れた。両脇の選手のサポーティングが少しぶれたが、何とかボールをキャッチする。空中からスクラムハーフにパスして、ボールはすぐにアタックラインに回った。しかしいち早く飛び出したレッドドラゴンズのディフェンスラインが迫り、ブルーラインズのセンターを摑まえる。すぐに密集─ラインアウトから少し出遅れた今田は、バックスの選手に混じって、二次ディフェンスラインを構築した。

 相手にボールが出る。ここへ突っこんでくる─今田はダッシュで前に出て、今日一発目のタックルに備えた。しかし突然、隣にいたセンターの福原が出足鋭く前に出て、突っこんできたブルーラインズのスタンドオフにタックルする。低い、いいタックルだったが、相手のスタンドオフは百八十センチを超える長身で突進力もある。倒されることなく踏ん張り、なおも前に出ようとした。

 今田は二の矢として入った。身長は向こうと同じぐらいだが、こちらは体重百キロだ。正面からぶちかませば、地面を舐めさせられる。

 しかし─ぶつかる直前に躊躇する自分がいた。全力でいけない。頭から突っこめば倒せるはずなのに。

 結局、ボールを目指していった。腕をボールに絡ませ、何とか奪ってマイボールに……しかし相手チームのスタンドオフは体を激しく揺さぶり、こちらにボールをコントロールさせない。ほどなく、ブルーラインズのフォワードがサポートに入り、猛烈な力で押しこんでくる。今田はその勢いに負けて、倒れこんだ。軽く後頭部を打って─河川敷のこのグラウンドは所々土がむき出しで、そこにぶつけてしまった─ひやりとしたが、痛みは大したことはない。

 自分の胸にボールが当たっている。ブルーラインズのスタンドオフが上にのしかかっていて、ボールは二人に挟まれたままなのだ。幸い、自分の腕はボールには触れていない─すぐにホイッスルが鳴った。倒れたままレフリーを見ると、ボールを胸に抱えた動きをした後、ブルーラインズのペナルティを宣言する。スタンドオフが、倒れてもボールを離さなかったということだろう。結果的に、向こうのサポートがスタンドオフを動きにくくしてしまったのだ。

 密集が解けると、徳田がやって来てボールを拾い上げた。相手陣地の十メートルラインを超えたところ。

「狙います」徳田がレフリーに告げる。ベンチに向かって合図すると、すぐに控え選手がキックティーを持って走ってきた。

「ちょっと遠くないか?」今田は思わず言った。ペナルティをどう生かすかは、ゲームキャプテンである徳田に任されているのだが……徳田は今田と同い年。まだまだスピードもスタミナも衰えていないが、この一、二年でキックの精度と飛距離が落ちている。去年は、この距離で成功したことは一度もなかったはずだ。ゴールのほぼ正面、ということは、距離は約四十メートル。昔の徳田なら、六割から七割の確率で決めていた距離と角度だが、今は厳しいだろう。

「普通にランでいった方がいいんじゃないか。ハイパントでもいいし、タッチに出しても─」

「狙うって言ったら狙うんだ」徳田が素気なく言って、キックティーを受け取る。ボールをセットすると、慎重にボールの角度を調整した。微妙に、自分の方に傾かせるのだが、これはゴールとの角度、距離で微妙に変わってくる。

「今日、皆、何か変じゃないか」

「何が」

「普通に回せばいいのに、蹴ってばかりで……」

「お前らのスクラムが当てにならないから、避けてるんだよ」

「おい─」

「いいから、黙ってろ!」徳田が唸るように言った。

 徳田はボールのセッティングに時間をかける方で、レフリーはそういうことは織り込み済みでジャッジしているのだが、あまりにも遅いと遅延行為と認定される。自分が話していることでそうなったら馬鹿馬鹿しい。

 今田は、少し離れたところで固まっている仲間たちのところへ行った。全員、この時間を利用して給水中だ。九月─シーズン入りしたばかりで、河川敷のグラウンドには、まだ夏の名残が濃厚である。今日は最高気温二十五度の予想で、これは我慢できる温度だが、湿度が高い。八十分間フルにプレーし続けたら、へばりそうだ……今田もスポーツドリンクを受け取り、すぐに飲んだ。今日は自分の引退試合。普通なら、フロントローの三人は後半二十分を過ぎると順次交代していくのが最近の戦術だが─フロントローの三人は、全選手の中で最も運動量が多いのだ─今日は絶対に最後まで出続けると、原口には宣言しておいた。最後の試合ぐらい、昔みたいに最後までプレーさせて下さいよ、と。原口の答えは「足が止まったら引っこめる」。しかし今日は、走る時間が多い試合になっていた。今田にとって、スクラムは一種の休憩でもあるのだが、今日はまだそのチャンスがない。

 ようやく徳田の準備が整い、給水チームも去っていった。ふとベンチの方を見ると、妻の美佳と娘の乃莉が日傘をさして立っているので驚く。美佳が来ることは知っていたが、乃莉まで……今年高校二年生の乃莉は、父親がラグビーをやっていることにまったく関心がない。小学生の頃は、日曜ごとに試合に出て行くので、遊んでもらえないと泣き叫んだものだが、中学生になると自分の部活や友だちづき合いが忙しくなって、父親と話す機会さえなくなっていた。高校でも同じ……それがまさか、引退試合に顔を出すなんて。いったいどういう風の吹き回しだろう。しかし試合中なので、真意は確かめられない。今いる位置からだと、表情もよく見えなかった。

 徳田は、全盛期のようなキックを見せた。これは入るな、と蹴った瞬間に分かる。ボールは真っ直ぐゴールへ向かう……いや、風に吹かれたのか、少し左へ流れていく感じだった。それでも何とか……ボールは左側のポストをかすってわずかに方向を変え、結局ゴールは成功。しかし、危なかった。

 拾い上げたキックティーをサイドラインに向かって放り投げながら、徳田が戻って来る。

「ナイスキック」今田は拍手しながら声をかけた。

「楽勝だ」徳田が強がる。「それよりお前、膝は大丈夫なのかよ」

「今日は絶好調だ」

「そうか」徳田がちらりと今田の顔を見る。こいつ、そんなことを心配してるのか?

 まあ、俺も心配だが。ただし今は、膝よりもずっと心配なことがある。

(続きは本誌でお楽しみください。)