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物語を愛するすべてのひとたちへ-小説すばる

2022年5月号 小説すばる

【新連載】
新庄耕
「地面師たち II」

 指先がかすかにふるえていた。拳をにぎり、痛みを感じるまで力をこめる。手ににじんだ汗がいとわしかった。

 稲田はその手でチップをつかむと、テーブルのむこうにもうけられたディスプレイの出目表に視線をのばした。

 出目表にはここ何ゲームかの結果が記録されており、プレイヤーとバンカーからなる出目がそれぞれ青と赤のマークでならんでいる。

 直近は、バンカー、バンカー、プレイヤー、バンカー、バンカー、プレイヤー、バンカーと規則的な流れできていた。流れにしたがっても、連続した目を追っても次はバンカーが来るように思える。もっとも、バカラに絶対はなかった。

 稲田は迷ったのち、すべてのチップをテーブル上の〝BANKER〟と記された場所へ置いた。いましがた三連勝したものの、二万シンガポールドルでスタートした手元のチップは、いつのまにか八千シンガポールドルを割り込んでいる。一気に負けを取り返したかった。

 稲田に便乗した右隣の中国人団体客がなにか大声を発しながら、次々とバンカーに張っていく。

 ディーラーが賭けを締め切ろうとしたときだった。

 かたわらから、オリエンタル系の強烈なコロンの香りがただよってきた。左隣の席に腰をおろした客が、黒褐色につやめくほっそりとした手をのばし、プレイヤー側にチップを十枚ほど置く。いずれも、日本円にして八万円近くになる千シンガポールドルの高額チップだった。

 稲田は左に目をやった。

 タイトなベージュのミニドレスをまとったアフリカ系の若い女が、その奥に座る、稲田と同じくらい大柄な紳士と談笑している。

 六十がらみの紳士の横顔に、目が引き寄せられた。鼻梁はとおっているものの、その顔立ちからすると日本人かもしれない。ハリウッドセレブよろしく、白いリネンのシャツに涼しげなオフホワイトのジレをあわせ、胸ポケットにフレームの黒いグラスを挿していた。アジア屈指の豪奢なカジノといえど、平場にいる客の装いとしてはいささか似つかわしくない。

 男は澄ました顔で相づちを打ちながら、見たことのないチップを十枚ほど積み上げて遊んでいる。そのうちの一枚が、二連のリングがはめられた右の小指からこぼれ、転がった。すぐに勢いをうしない、柿色のラシャの上で倒れる。

 セルリアンブルーに染まったそのチップは、VIPルーム専用のローリングチップにちがいなく、驚くべきことに十万シンガポールドルの数字がきざまれている。たった一枚で日本なら高級車が買えてしまう額だった。

 金だけしかないどこぞの道楽が平場を冷やかしに来たらしい。真剣勝負に水を差された気がし、不愉快だった。

 ディーラーが、オーケストラの指揮者さながら両手でテーブルのこちら側を制し、賭けを締め切った。間を置かず、かたわらのシューボックスから素早い動作でカードを引いていく。

 プレイヤー側の代表であるアフリカ系の女の前に二枚、ついでバンカーにもっとも多くのチップを張った稲田の前に二枚置かれた。

 女があっさりとカードをひっくり返し、つまらなそうにディーラーの方へ投げる。ディーラーがテーブルにならべたそのカードは、ハートの九とクローバーの七だった。合計の下一桁は六点。バンカーは七点以上でないとプレイヤーに勝てない。

 稲田は一枚目のカードに手を伸ばし、気持ちを静めるようにゆっくりとめくった。

 ハートのキングで、零点。

 バカラは、いわゆる丁半博打の一種で、客は「プレイヤー」と「バンカー」という仮想の二人のどちらが勝つかを予想する。ゲームは、定められたルールのもと機械的に進行し、形ばかりに代表者がカードをめくる以外は客がなにか駆け引きをしたり、ゲームの途中で選択や判断をせまられる余地は一切ない。

 最初にプレイヤーとバンカー双方に二枚のカード、その数字次第では、やや込み入った条件のもと三枚目のカードが配られる。勝負は、カードの合計数字の下一桁によって決し、九点により近い方が勝ちとなる。ただし、十をふくむ絵札のカードはすべて零点とみなされるため、バンカーに賭けた稲田がこのゲームで勝つには、次のカードで七、八、九のいずれかを引かなくてはならなかった。

 稲田はテーブルに伏せられた二枚目のカードから視線をはずし、バンカー側に積み上げられた自分のチップに目をやった。七千八百シンガポールドルあまり、日本円にして六十万円を超える。ついこの間までサッカー選手としてプロ契約していたクラブからの、毎月の支給額の三ヶ月分におよぶうえ、有り金のすべてでもあった。負ければ、全部うしない、残るのは借金だけとなってしまう。

 凝視したカードに手をそえ、縁に親指をかける。胸が高鳴っていた。

 隣の中国人たちが口々に切れのある声を発しながら囃し立て、拳でテーブルをたたいている。一気にはぐった。

 ハートの七。

「サンキューソーマッチ」

 稲田はカードを投げはなって快哉をさけび、中国人団体客からの労をねぎらうようなハイタッチにこたえた。頭の中の片隅ですっと抜けるような感覚があり、脳髄の底が心地よくしびれていた。

 次はどっちだ。倍増した手元のチップを積み上げ直しながら、ディスプレイの出目表に視線をむける。

 バンカー二回、プレイヤー一回のパターンを二セット繰り返したあと、バンカーが二回つづいている。次はやはり逆目のプレイヤーだろうか……いや、そんなに都合よく出目がならぶとは思えない。バンカーが来そうな気がした。

 どれくらい賭けよう。この四連勝で、一万五千シンガポールドルまでもどすことができた。間違いなく、流れに乗っている。ようやくつかんだ波にさからうべきではなかった。もう一度すべてのチップを賭けて勝てば、資金は倍増し、これまでの負けをとりもどすことができるどころか、トータルで一万シンガポールドルほどプラスに転じる。逆にそれで負ければ一万五千シンガポールドルをうしない、この異国で路頭に迷うことになってしまう。負けは許されなかった。

 稲田はチップの山をつかみ、そのまま〝BANKER〟の場所へスライドさせた。

 どこかから、同じ目を追うな、という声が聞こえる気がする。やめとけ、という囁きも聞こえた。首を振って心の雑音をはらった。

「ノーモアベット」

 ディーラーが賭けを締め切る。

 見ると、中国人団体客はみなバンカーの稲田に便乗し、紳士の肩にしなだれかかっているアフリカ系の女はプレイヤーにチップを置いていた。いつの間に連絡がいったのだろう、VIP客対応のスーパーバイザーがディーラーの背後にひかえている。

 カードが配られ、連れに気をとられている女にかわって、ディーラーがプレイヤーのカードをめくる。

 クローバーの四とダイヤの四で八点。

 中国人団体客から嘆息がもれる。無慈悲なナチュラルエイトだった。バンカーが勝つには九点を出すか、最低でも八点を出して引き分けに持ち込まなければならない。 

 にわかに呼吸が浅くなっているのを自覚しながら、稲田は一枚目を慎重にくつがえした。

 ダイヤの九。

 どよめきがテーブルをつつむ。

 次で十、もしくはジャック、クイーン、キングのいずれかの絵札が出ればナチュラルナインとなり、バンカーが勝つ。可能性はかなり高い。そうなれば稲田のもとに一万五千シンガポールドル、百二十万円以上の金が転がりこんでくる。勝ち筋だと思った。根拠はなかった。そんなものはなんの役にも立たない。

 勝ったらひとまずカジノを引き上げ、日本の高級店に引けをとらないという、シンガポールでも指折りの鮨屋で空腹を満たすとしよう。そのあとは、夜景が見渡せるようなバーか女のいるラウンジで酒を吞んでもいいし、階上のホテルに部屋をとってマッサージで体をほぐすのも悪くないかもしれない。

 稲田はカードの端に指をかけた。心臓が怖いぐらい激しく脈打っていた。

 背後でのぞいている誰かの叱咤が高まる。別の誰かが怒号にも似た勇ましいかけ声をはなっている。

 カードの左側が浮き、少しずつ立ち上がってくる。垂直になったカードから指を離した。みずからの重みでカードが右側に倒れていく。稲田は、表面をむけようとするカードに視線をそそいだ。絵札にちがいなかった。

 ダイヤのエース。

 ラシャの上に置かれたそのカードを見つめたまま動けなくなった。逆流した全身の血が頭にのぼるかのように、視界が白々とちらついていた。

 無言のディーラーが手際よく稲田のチップを回収し、隣のアフリカ系の女へ賭けた倍の額のチップを支払っている。連れの紳士が流暢な英語で賛辞をおくっていた。

 次のゲームがはじまり、客がそれぞれのチップを張っていく。ディーラーが、すべてのチップをうしなった稲田の顔を一瞥してから、賭けを締め切った。

 稲田は、バカラテーブルに拳を振りおろし、

「ざけんなっ」

 と、絶叫をあげた。

(続きは本誌でお楽しみください。)

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