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物語を愛するすべてのひとたちへ-小説すばる

透明な夜の香り

著:千早茜

発売日:2020.4.3
定価:1,500円(本体)+税

匂いに導かれ、過去と向き合う人々

 嗅覚は、脳内の記憶への回路を開く。雑踏でふと他人の体臭を嗅いで、名前すら定かでなくなった人のことを思い出したり、初めて訪れた場所に漂う香りから、もう二度と足を踏み入れることのない部屋を想起したりといった経験は、そう少なくない数の人におぼえがあるのではないか。耳にはふたができないように、匂いもまた、私たちを急襲する。


 もしも、尋常でないほど鋭くて分析的な嗅覚が備わっていたら、その人はどんな毎日を送るのか。『透明な夜の香り』はそうした夢想に、ひとつの答えを与えてくれる小説だ。


 小川朔は、その超人的な鼻の良さと調香師としての再現能力をいかし、完全紹介制で香水のオーダーメイドをしている。たとえば愛する人の体臭の香水を、とリクエストされれば、頭皮かうなじか手のひらかと部位の指定を受けられるほど。才能を見込んでやってくる依頼者はひと癖もふた癖もある人ばかりだ。


 その朔の、事務作業と家事全般の手伝い要員として、若宮一香は働き始める。面接時に、しばらく休職中だったことも文字通り嗅ぎつけられ、整髪料から洗剤まで指定のものの使用を約束させられる。さらなる重要な雇用条件は、噓をつかないこと。朔は噓の匂いをもっとも嫌うのだ。


 朔の住居と仕事場を兼ねる洋館には庭があり、一年を通じて、多品種のハーブ類や樹木やばらなどの植物が手をかけて育てられている。世俗と隔絶されたような洋館で、庭師の源さんと、朔を客たちにつなぐ新城だけが、天才ゆえに繊細で孤独な朔の魂に寄り添うことができるのだ。そして一香もおずおずと、この世界に足を踏み入れていく。


 物語は、朔がいっぷう変わった依頼人たちからの難題を次々と叶えていくのと同時に、一香が囚われていた過去が、これまた匂いをトリガーとして顕わになるさまを描く。〈「罰の香りを与えてくれました」〉。ただし一香は依頼人でなく雇用者に過ぎなかったのに、朔は香りを使って積極的な関与をした。雇用時に彼女の固有の匂いを剝奪してまで順応を求めながら、やがて、彼女の不可侵だった記憶への回路を無理に開かせたのは、なぜか。おそらく朔にも、自身の過去との対峙の必要性が迫ってきたからだった。〈「執着と愛着の違いを知りたい」〉


 人間はどれほど理性的に洗練を極めたとしても、動物としての野性の部分を手放しきれはしない。理屈より先に、人に惹きつけられること。それは本能が相手の匂いに反応したがゆえかもしれないのだ。匂いは不意打ちする。その不思議を、この嗅覚をめぐる物語はあざやかに私たちに解き明かしてくれる。

Writing

江南亜美子(えなみ・あみこ)
'75年生まれ。書評家。共著に『世界の8大文学賞』など。

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