春と呼ぶには暖かすぎる午後だった。

 父の遺骨を抱えて、いく先もなく、ふらふらと街を歩いていたら、ユニクロでてきとうに見繕った喪服のジャケットを、道端に捨てたくなるほど汗をかいた。  

 ─高収入! 高収入! 高収入!

 高収入を叫ぶトラックは左から流れてきた。信号は赤になり、わたしの目の前で止まった。

 こうしゅうにゅう、こうしゅうにゅう、こうしゅうにゅう。

 高収入のリフレインには、知らぬ間にできた青あざのような、得体の知れない感じがあった。

 信号は青になり、トラックはみるみる遠ざかっていく。

 横断歩道の白をひとつ、ふたつと踏みながら、こうしゅうにゅう、こうしゅうにゅう、と小さな声でつぶやいてみる。うん、やっぱり、得体の知れない感じがする。

 それから、二時間くらいずっしり重い遺骨を抱えたままぐずぐず歩き、腹が減ったので三百六十円のぶっかけうどんをたいらげ、ややうなだれながらドトールコーヒーに入り、カウンター席で足をぶらぶらさせ、手を使わずにストローをくわえてりんごジュースを飲み、高収入を叫ぶトラックに書かれていたコトバを検索し、デリバリーヘルス『ピチピチ』に面接を申し込んだ。



『ピチピチ』に指定されたのは西新宿のビルの一室だった。ほこりっぽい部屋には、ばらばらと女の子が散らばっていて、化粧をなおしたり、漫画を読んだりしているのだけど、そのどれもが中央線で乗り合わせるようなふつうの女の子だった。そのなかの一人と目が合ったので、頭を下げると「なんかきてるよ」とだるそうに誰かを呼んだ。

 すると隣の部屋から坊主頭が顔を出した。

「おっ、十七時からの?」

「はい」

「店長の田中です。じゃあ、こっちに」

 田中の目の下にはカフェオレをこぼしたような不気味なクマがあった。

 通された部屋にはちいさなソファーが対面で二つ置いてあり、比較的あたらしいソファーに田中が、革が破れて中の綿が見えているソファーにわたしが座った。田中はシワのよったワイシャツをズボンにぎゅうと押しこみながら、

「緊張しないでね、逆にこっちが緊張するから、あはは、噓だけど、俺緊張しないけど、あははは」

 と言って、それから抑揚のない声でさらさらと、年齢や経験人数、胸の大きさ、タトゥーがあるかどうか、志望理由を聞いた。わたしは、あーとか、えーとか言いながら、十九歳、五人くらい、シー(ほんとうはビーカップだけれど)、なし、あそぶかねほしさ、と答えた。



 服を脱ぎ、ユニットバスの扉を開ける。シャワーでからだをよく濡らし、ボディーソープをつけて、シェーバーを肌に滑らせる。すね、太もも、おなか、うで、指先、わき。

 生えては剃って、剃っては生えてのくりかえしに、わたしはときどき馬鹿みたいなきもちになる。いちばんそういうきもちになるのは、乳首のまわりを剃っているときだ。いいや、どうも、こんなのは馬鹿だ。女のからだには毛がないことを、わたしは誰に教わったのだろう。男のすね毛が雑木林のようにわっさわっさと混みあっているのを見ると、わたしはうれしいきもちになる。生きているっていう感じがする。でも、どうしてだろう、自分自身には、けっして、毛があってはならないような気がする。すね毛をのびのび生やしてみれば、わたしも生きているって感じがするのだろうか。そういうことを考えはするものの、実行にうつすと損をするのはわたしなのだから、剃る。馬鹿みたいでも剃る。

 黒くて小さな点々が、泡と一緒に、穴へ、下へと吸い込まれていく。

 もうずっと買い替えていないバスタオルでからだをふいて、上下セットの下着をつける。レースのやつ、ちょっとお尻が透けているやつ。それからワンピースをかぶって、家を出た。

 星がきれいな夜だった。

 そういう夜に、わたしはいつも思い出す。父が一度だけ連れていってくれた旅先で見た星空を。

 山と海に挟まれたその町は、夜になると町ごと闇に沈んだみたいに真っ黒だった。

 小学生だったわたしは、闇が、闇の隙間から吹く風が、闇のなかで寄せる波がおそろしく、なんだか涙が出そうだった。闇はこんなに深くて暗いことを、わたしはそのとき初めて知った。

 うつむくわたしの頭を父はかるくこづいて、上のほうを指さした。見上げると、夜空いっぱいに星が広がっていた。小さな星も、大きな星も、くつろいでいるみたいに自由に光っていた。

 東京でも絶え間なく光っているはずの小さな星は、ビル群の光にかき消され、わたしの目まで届かない。いま、この目に見えるつよくたくましい大きな星たちを、じっと見つめてみると、ふるえるようにまたたいていた。ふるえることと、またたくことは、同じことだろうか。それでも結局はきれいだと感じる星空を仰ぎ見ながら駅まで歩いた。

 電車の中はもう冷房がきいていて、しばらく揺られているとすぐにからだはつめたくなった。

 目に入ってくるつり革に摑まる青年や、子供を連れた父親や、優先席に座るお爺さんのことがいびつに思えた。

 いまから売られにゆくのだな。そう思うと耳の奥がキーンと高く、高く鳴った。




『ピチピチ』につくと、すぐ田中に話しかけられた。

「お、さきちゃん」

 さきちゃんとはわたしのピチピチネームである。

「さっそく一件入ってます。いこうか」

 田中は、わたしにそう言ったあと、

「真夏ちゃんもいくよ」

 とソファーに寝転がって漫画を読んでいた女のひとにも声をかけた。

 三人で狭いエレベーターに乗り、下まで降りて、店の車だというシルバーのワンボックスカーに乗った。車の中は蒸し暑く、体臭とカビがない交ぜになったような、こもったにおいがした。

 車は走りだす。どこかへ向かっている、とか、どこかへ送ってもらう、というよりは、どこかへ運ばれている、そういう感じがした。

「お客さんには、はじめてって言ってあるからね。緊張してる?」

 バックミラー越しに田中と目があった。

「そうですね、緊張してます」わたしはあいまいに笑い返す。

「緊張してる感じが好きなお客さんは多いから、だいじょうぶだよ。あ、段取りはおぼえてる?」

 面接が終わったあと、接客の段取りや、禁止されていること、その断り方などを、田中から教わっていた。

「はい、だいたいは」

「とりあえずね、お金もらうことさえ忘れなければいいから」

 そう言ってから田中は、うんうんうんと自分でうなずいた。

「わからないことがあったら、横の真夏ちゃんに教えてもらいな。うちのナンバーワン」田中は言って、顎をくいっとさせた。

「よろしくおねがいします」わたしが頭を下げると、真夏さんはふっと笑って「なんかほっとするね」と言った。それから「どうぞよろしく」と、口角をきれいに上げてほほえむ。真夏さんは桃のような、石鹼のような、あわいにおいがした。

 それから二十分ほど走り、車が止まったのはビジネスホテルの前だった。

「お客さんフロントまで降りて来てますから。グレーのスーツを着ている人が、吉田さんです」

 ホテルへ入ると、エントランスでグレーのスーツを着たひとが立っていた。わたしが軽く一礼すると、気づいた吉田さんはわずかに頭を下げて、何も言葉を発さないまま、エレベーターへ足を向けた。わたしはあわてて吉田さんを追いかけて、同じエレベーターに乗る。

 吉田さんはかっぷくのいいひとだった。背が高く、横にも広く、成熟した熊のような、力のつよそうなひとだった。こういうひとに思いきり殴られたら、わたしは簡単にしんでしまうだろう。

 エレベーターに乗ると、吉田さんは急にへらへら笑い出した。

「うはは、はじめてなの?」

「えへへ、そうなのです」わたしもあわせて、へらへら笑う。

 田中に教えられたとおり、部屋に入ったらまずは吉田さんからお金をもらい、タイマーをセットした。そしてわたしも吉田さんも服を脱いで、下着をとった。裸になると、からだじゅうに、なにかが押し寄せてくる感じがあった。その一方で、なにかがこぼれおちていく感じもあった。なにがわたしのからだに押し寄せているのか、なにがこぼれおちているのか、それが一体なんなのか、これ以上、考えてはいけない。とにかく黙っていれば、ただあいまいにほほえんでいれば、すべては順序どおり、オートマティックに進行する。

 シャワーは一緒に浴びるきまりになっていた。

 一緒にご飯を食べたこともない人のからだをさわるのは初めてだった。わたしはあんまり吉田さんの裸を見ないようにした。けれど、きちんと洗わないと、汚いのだから、それは自分が困るのだから、からだのすみずみまでていねいに洗った。

 シャワーをすませると、吉田さんはベッドの上でわたしを引き寄せた。

「ピアス、かわいいね」

 そう耳元でささやいてから、わたしの耳を舐めた。ピアスごと舐めた。

 こんなものをつけてくるべきではなかった。耳いっぱいに、ゼリーをぐちゃぐちゃかき混ぜるような音が響く。吉田さんの爪は伸びていた。膣の中をちからいっぱい動かされると痛かった。でも、「痛い」と伝えていいのかわからなかった。この痛みごと料金に含まれているのかもしれなかった。血が出ているんじゃないかとヒヤヒヤしている間、吉田さんはニコニコ笑っていた。わたしは、下唇をかるく嚙み、眉を寄せ、声を出し、それらしい感じをつくったまま、じっと耐えた。

「こっちを見て」

 そう言われるから、目をつむることはゆるされなかった。

 わたしは、吉田さんの鼻のふくらみをおぼろに眺めながら、満員電車のことを思い出していた。日頃、満員電車に乗るときは、魂をどこか遠くへ飛ばすイメージをする。魂をからだの中に入れたままぎゅうぎゅうと押し潰されると、きもち悪くなるし、腹が立ってくるし、悲しくてたまらなくなってくる。とても正気ではいられない。だから魂を遠くへ、できるだけ遠くへ、山へ、海へ、屋上へ飛ばす。そういうイメージをする。すると、自分のきもちも、からだも、他人事のように感じられて、その場から逃がれることができる。

 セットしておいたタイマーの安っぽい音が鳴った。シャワーの時間ですよ、という合図である。田中に教えてもらった通り「お背中流しましょうか」と声をかけてみたけれど、射精後の吉田さんは、裸のまま仰向けになって、いまにもねむってしまいそうだったので、わたしは一人でシャワーを浴びた。念入りに耳を洗ったら、顎のあたりのファンデーションも一緒に落ちた。舐められたピアスは外して、排水溝に流す。星の形の小さなピアス、さようなら。

 シャワーから出ると、吉田さんは動物園のカバのように口を大きく開けてねむっていた。身支度を整え、わたしはホテルを出た。




「どうですか、大丈夫でした?」

 待ち時間にラーメンでも食べたのか、田中からは脂のにおいがした。

「はい、大丈夫です」

 忘れないうちに、お客さんからもらったお金を田中に渡す。田中はそこから『ピチピチ』の取り分を抜いて、残りをわたしに手渡した。この報酬が、この仕事に見合っているのかどうか、わからなかった。見合う金額など有り得ないと思った。でも、けれど、だって、わたしが一日中熱心に働くより、よっぽど良い稼ぎだった。

 初めての日に何件も行くと疲れるから、という田中の判断で、今日はもう家に帰ることになった。

「じゃあ、送るね。住所教えてください」

 田中はカーナビを設定しようとしたけれど、家の近くのドラッグストアの前で降ろしてもらうことにした。

 ぐったりつかれたからだをのせて、車は滑る。真夏さんは、まだ仕事中だろうか。田中がブレーキを踏むたびに、ぎっこん、とからだが前に出た。車酔いしないように、窓をあけて、遠くに目をやり、湿気たゆるい風に吹かれた。さっきまで見えていた大きな星は、ぶあつい雲にさえぎられてもう見えない。

 このまま直接、家に帰るのはなんとなく嫌なだけだった。もし、なんにも買うものがなければ発泡酒でも買って、飲みながら帰ろう。

 ドラッグストアの白い光はわたしを実生活に連れ戻した。その飾り気のない、演出のないまぶしさがわたしをわたしに立ち戻らせた。それは生活に根を張る光のなせるわざだった。浅かった呼吸はいくらか深くなり、息をするのが楽になる。

 わたしはしばらく柔軟剤や化粧品、ポカリスエットや漢方薬を見ながら、うろうろ歩いた。すると入浴剤がずらーと並んでいる棚の前で、なんとなく、足がとまった。ここだけ微かに甘いにおいがする。それはお花や柑橘、森林、カカオ、ミルクなんかが空気中で混ざったにおいだった。

 入浴剤はずいぶん品揃えが豊富で、お試し用なのか、ときどき使いたい人のためなのか、個包装のものもたくさんある。錠剤のもの、粉状のもの、溶けると中からキャラクターが出てくるようなものもあった。しばらくじいっと眺めていると、ぜんぜんいらないものを欲するこころが渦巻いた。ユニットバスだから家で湯船に浸かることはほぼないし……と、わたしはすこしばかり真面目ぶって悩んだけれど、欲しいものは欲しいものなのだから、無駄づかい、大いに結構、とひとりごちて、レモングラスのかおりと書かれた個包装のものを一つ買った。

 店を出ると、小雨が降っていた。浅く濡れながら歩いて帰り、玄関で靴を脱ごうとすると、急にちからが抜けてしまって、しばらく立ち上がれなかった。でも、稼いだお金のことを思い出すと、それもまた、急になのだけれど、案外平気な感じもやってきた。

 わたしは床にすわったままポケットに入れた入浴剤をとりだし、説明書きや成分表を一通り読んだ。包装を剝がしてみると、それはうすいオレンジ色の球体だった。安っぽくて、甘ずっぱい、トイレの芳香剤みたいなかおりがする。

 目線の先にはガラス製のまるくて大きい花瓶があった。それは今年の春にチューリップを束で買ったとき、花屋で一緒に買ったもので、いまは空っぽだった。

 手を伸ばしても、あと少し届かない距離にある花瓶に向かって、あらよっと、わたしは放り投げる。うすいオレンジ色はわたしの手のひらを離れ、ゆるやかな弧を描いて花瓶の中に、コトン。入った。

 その軽い音はわたしの耳の中でうすく響いて、なんだか世の中のすべてを(それはもちろんわたしを含めた世の中のすべてを)諦めたくなった。どうでもいい。考えたってムダ。そう思うと、変に力が湧いてきて、土遊びをしたあとTシャツで乱暴にぬぐって、見た目だけはきれいな手みたいに気持ち悪いままのからだをむしょうに洗い流したくなった。

 ワンピースを脱ぐと、ビジネスホテルに備え付けてあったボディーソープの、わざとらしいジャスミンのにおいがからだからたちのぼり、耳を舐められた感触がなまなましく甦ってきた。耳たぶをさわって、あのピアスがついていないことをたしかめると少し安心した。それからいつものシャンプー、いつものボディーソープで、からだじゅうが真っ赤になるまで洗いつづけた。


(続きは本誌でお楽しみください。)