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物語を愛するすべてのひとたちへ-小説すばる

2022年3月号 小説すばる

【新連載】
香月夕花
「あの光」

 あの光のことばかりがどうして何度も思い出されるのだろう─。

 毎日をただ必死で過ごしてきた。日々の記憶は砂みたいに流れていくばかりで、思い出を刻む余裕もない。なのにあの光のことだけは、いつも鮮やかな夢のように蘇ってくるのだ。

 高校の体育館の舞台袖に、紅は一人で立っていた。

 カーテンで舞台と仕切られた薄暗い空間には、グランドピアノや演台などがところ狭しと押し込められ、埃っぽい匂いを放っている。その狭間で紅は、これから一国の女王を演じようというのに、小さく身を縮めていた。裏方に過ぎない自分が、部活仲間に縫ってやったドレスを自分で着ることになるなんて、今朝方までは思いもしなかったのだ。

 演劇部の三年生には、これが最後の晴れ舞台だった。舞台の上では、兵士に扮した部員達が敵国の虜囚となり、膝をついて望みを失っている。紅が演じる落魄の女王は、この後舞台に出ていき、彼らに檄を飛ばして立ち上がらせることになっているのだ。

 目の前では照明や音響のコントロールパネルが青く柔らかな光を放ち、裏方の部員がレバーに手をかけたまま、緊張の余り首の筋をこわばらせて、舞台上のやりとりに耳を澄ましている。

 そのひりついた気配に感染したみたいに、紅の両手はやにわに震えだした。

 セリフを書いたのは確かに自分だ。女王役の生徒の代わりに、一度だけ読み合わせをやったこともある。でも自ら舞台に出るなんて考えたこともなかった。自分には何もないのだ。それがこんな所に担ぎ出されるなんて。

 あの人が見たらどう思うだろう。紅は身の縮む思いがする。こういう華やかなことはあの人にこそふさわしい。生き抜く気力を失った者達に声をかけ、もう一度立ち上がらせる。そんな大それた力を操ってみせるのは─。

 舞台の上で飛び交っていた声がふっと途切れ、静寂が生まれた。もう出番だ。

「紅、早く出て」

「高岡さん、早く!」

 背後から、押し殺した声で仲間達が促す。けれども紅は動けない。このままでは、芝居の流れが途切れてしまう。

 焦った誰かに背中を小突かれるようにして、紅は舞台上へと押し出された。それを待ち構えていたように、舞台の向こう側から目映い照明が、紅をめがけて投げかけられる。

 思いがけない、ひとすじの光。

 それは目の中で一閃して、辺りを真っ白に染め上げ、照らされる者の心を、驚くほどの明るさと熱で満たした。

 予定通りの照明に過ぎないそれは、紅には何か、願ってもない恩寵のように思われた。何者かが暗闇の中で自分を見つけ、さっとすくい上げてくれた─そんな気がしたのだ。誰も自分の事など見ていない、ずっとそう思ってきたのに。

 光に慣れはじめた視界の中に、寄る辺ない兵士達の姿がゆっくりと立ち現れた。

 ワックスのはがれた床に膝をついた無力な彼らは、やっと運命に楯突いて反旗を翻したというのに、非力な動物みたいな有様でめいめい独房の中に閉じこめられている。

 その寄る辺ない眼差しが、一斉に紅を捉えた。生まれたときから既に敗北を背負っていた者達の、悲しみに洗われたような眼。

 紅は無性に、彼らを照らしてやりたくなった。たった今自分がそうされたように。

「今のまま、運命に踏みにじられるままでいいの?」

 自分が書いたはずのセリフが、まるで別物のような強靱さで、腹の底から湧き上がってきた。

「あなた達の嘆きの歌を誰にも聴かれないまま、静かに滅んでいくつもり?」

 自分の声とも思えないほど、そのセリフは澄み切って鋭く、静まり返った体育館を貫き通す。舞台上の兵士達は、いまや演技ではなく、本物の驚きをそれぞれの顔に浮かべていた。

「こんなところに私達は閉じ込められているべきじゃない。そこから出てきなさい。今すぐ立ち上がって、この石牢を打ち破るのよ!」

 額が、頰が、燃えるように熱い。今や幾本ものスポットライトが、紅の姿を光の中に捉えていた。白熱した視界の中に、目を丸くした兵士達の顔もまたゆっくりと溶けて消えていく─。

 

                一

 

 衣類ゴミをたっぷり詰め込んだ袋に腰掛けたまま、紅は突然我に返った。

 ワンルームマンションの室内は、真昼だというのに薄暗い。ベランダに続く大きな窓をほとんど覆い尽くす勢いで、生活ゴミが山のように積み上げられているせいだ。

 空のペットボトルが並んだ半透明の稜線をかすめるようにして、窓の上端からひとすじの陽射しが差し込むのが見えた。それはスポットライトさながらに、金色に舞い踊る埃を貫いて紅の足下へと落ちてくる。

 この光が記憶の引き金になったのだ─手に取ったコンビニ弁当のパッケージを足下に置いたゴミ袋へ投げ入れながら、紅は小さく笑った。

 裾を引くようなドレスなんて、あの一回きりで紅の人生からは跡形もなく消えた。今は社名入りの作業服に身を包んで、そびえ立つゴミの壁をこつこつと突き崩していく毎日だ。

「あの……高岡さん」

 傍らからおずおずと声がかかった。振り向くと依頼主の間宮さんがいる。歳は二十代の後半で、紅から見ればちょうど妹ぐらいの年代だ。

「マヨネーズがついたプラゴミって、このまま捨てていいんですか? それとも、洗わないとダメなんですか?」

 彼女が手にしているのはコンビニで売っているサンドイッチの包装フィルムだった。ただ問いかけているだけなのに、なぜか謝っているように聞こえる。

「汚れてるのは可燃でいいですよ。そんなに悩まなくて大丈夫」

 間宮さんはまだ不安そうにみえる。分別に迷って結局捨てられなくなるのは、こういう部屋の依頼主にありがちなことだった。元から優柔不断、というわけではない。何かを判断するだけの気力が尽きてしまっているのだ。

「ほら、陽射しが入ってきましたよ。これでやりやすくなりますね」

 紅は窓辺のゴミの山を目顔で示しながら、励ますつもりでそう言った。ゴミの圧力で窓がひび割れ、山からはみ出たフィルムの端が風にそよいで、さざ波めいた光を躍らせている。毎日ゴミとばかり付き合っていると、自然ときれいなところが見えてくるから不思議だ。それは心まで荒れないようにという、防衛反応みたいなものかもしれなかった。

「……ごめんなさい。部屋が暗いと、やっぱりやりづらいですよね」

 間宮さんは顔も上げられない様子で呟いた。誰も責めていないのに本気で謝っている。電気が既に止まっていて部屋の明かりがつかないことを、彼女は密かに気に病んでいたらしかった。こういう現場はいくらでもあるのだが。

「謝ることないですよ。暗いのが明るくなったんだからいいじゃないですか」

「でも……」

「窓際の山もすぐに崩せますよ。そしたらもっと明るくなります。どんどん捨てて全部燃やしてもらいましょうよ。この街のプラゴミって、実はかなり燃やされちゃってるらしいし、悩むことなんかないですよ」

 紅は調子よくたたみかける。それでも間宮さんは顔を上げなかった。

 彼女が卑屈になるのも無理はない。何しろ、恥をぎゅうぎゅうに詰め込んだようなこの部屋を赤の他人に晒しているのだから。

 外から見れば何の変哲もない単身者向けマンションの一室には、驚くほどのゴミがため込まれていた。玄関から続く短い廊下には、奥の居室に向かってなだらかなゴミのスロープが形作られ、足をとられながらそれを上っていくと、居室の入り口から奥の窓に向かってどっと山が高くなる。

 何年もの歳月をかけて、間宮さんはたった一人でこの惨状を作り上げたのだった。でも片づけるとなると一人ではどうにもならない。彼女は既に別の場所に引っ越していて、この部屋は引渡しの期日が迫っている。そこで何とか間に合うようにと紅達に依頼があったのだった。

 作業日数はたったの二日。配置されたスタッフは合計五人。紅を含めた三人が居室の片づけ、一人がユニットバスにこもって水回りの掃除、そしてもう一人が廊下を片づけながらごみを運搬するという分担になっている。

「これ、要ります?」

 窓際の山の中腹あたりから、男性スタッフの里中がつっけんどんに問いかけた。彼が手にしているのは、ほとんど新品に見える鮮やかなマリンブルーのカーディガンだ。多分一度だけ着て、そのまま放り出してしまったのだろう。

 ゴミの地層の中からまだ新しい衣類が出てくるのはよくあることだった。着たい服が埋もれてしまって見つからないから、しかたなく新しいものを買ってくる。一度だけ着たそれをつい山の上に置いてしまい、いつのまにかゴミの下に埋もれて手が届かなくなる。こうなるとまた新しい服を買ってくるしかない。同じ事の繰り返しで、ゴミの地層は際限なく積み上がっていく。

「いえ、いいです。もう捨てて下さい」

 間宮さんは何か振り切るような調子で答えた。里中は無言でカーディガンをゴミ袋に放り込む。袋の中で美しい色味が際だって、どこか恨めしげな風情だ。

 値が張りそうな衣類や鞄、それにアクセサリーなどの換金しやすいものが出てきたときには、本当に捨ててよいかを依頼主に確認するのがルールだった。お金の管理が不得手な依頼主がつい高い買い物をして、物の管理も苦手なものだからせっかくの品をゴミの底に埋めてしまう、ということがよくあるのだ。その手のお客さんはたいがい取捨の決断にも迷いがちで、紅達を延々待たせるところまでがお約束なのだが、間宮さんは違っていた。ろくに品物も見ずに、「もういいです」ばかり繰り返している。

 この手強い現場に五人で取り掛かって期限はたったの二日間、部屋を完全に空に出来るかは微妙なところだった。見積もりに来たまだ若い営業マンがゴミの量を読み違えたのだ。クローゼットの中や風呂場の浴槽にまでゴミが詰め込まれているのに気付かず、少なめに見積もってしまったらしい。だから間宮さんが「捨て」を即断してくれるのはとてもありがたいのだが、反面、本当は取っておきたかったのに、と後悔しないか心配になる。 

 里中がいる辺りには衣類がたくさん埋まっているらしく、古布を詰めたゴミ袋がどんどん出来上がっていた。山の斜面で中腰になって、布を見つけては手際よく引き抜いて袋に詰めていく。入社してまだ半年だが、要領がいいのか現場で足手まといになったことは一度もない。あれで他人に気遣いが出来れば文句なしなのに─そう思った矢先のこと、里中が勢いをつけて引っ張り出した何かが、ゴム紐みたいに粘りながら伸びていくのを見て紅はハッとした。あれはどう見てもパンストだ。それまで無表情で遠慮がちにしていた間宮さんが、途端に顔色を変えた。

(続きは本誌でお楽しみください。)

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