close

物語を愛するすべてのひとたちへ-小説すばる

2022年1月号 小説すばる

【新連載】
米澤穂信
「栞と嘘の季節」

第一章 栞と花

 その人は本を丁寧に扱った。
 こわれものを置くようにそっと、放課後の図書室に本を返していった。
 本が返されたとき、僕は督促状を書いていた。この学校の図書室は利用者が少ないけれど、それでも貸し出した本が期限までに戻らないことは驚くほど多く、督促状を書くときはリストと首っ引きになる。それで僕は、その人が近づいていることに気づかなかった。
 この図書室のシステムとして、本を返す際は返却箱に入れるだけでよく、その箱には蓋がない。僕がかすかな人の気配、たとえばそれは本と箱が擦れあう音や、ひょっとしたら衣擦れだったのかもしれないけれど、そうした何かに気づいて顔を上げると、さっきまで間違いなく何も置かれていなかった返却箱に、一冊の本があった。
 見れば、換気のために開け放たれていたドアから、誰かが出ていくところだった。学校指定のセーラー服を着た人の後ろ姿が、一瞬だけ見えた。
 督促状を書き続けるのにうんざりしていたので、僕は作業の手を止め、返却箱に置かれた本を見た。
 美しい本だった。大きさはふつうで、表紙は硬く折れ曲がらない紙で出来ている。遠近法を使わない古風な技法で、中東風のような、ヨーロッパ風のような、世界中のどこにもないような建築が描かれている。背景に林立するオレンジ色の三角形は、尖塔のようにも、木々のようにも見える。建物の上空には翼の黒い天使が飛んでいて、その指先からは稲妻が迸っている。分厚い。左上に描かれた題名は『薔薇の名前』、下巻だった。
 著者はウンベルト・エーコで、たしか上下巻構成のはずだ。僕は読んでいないけれど、映画は見たことがある。人が感情を持つことにさえ理由と正統性が必要とされる世界を描いた、おそろしい映画だった。僕は何となくその本に触れることをためらい、棚に戻すのは後にしようと考えた。
 図書室に、僕のほかには誰もいない。この学校では珍しくないことだ。作業を再開する。
 時代遅れの機種に使いづらいシステムを入れたものではあるけれど、図書室の貸出履歴はコンピュータで管理されている。誰がいつどの本を借り、延滞しているのか、すべてデータを取ってある。ただ、僕を含む図書委員は、そのデータを見ることができない。誰がどんな本を必要としたのかは人の心そのものを映し出すもので、クラスで選ばれただけの図書委員に他人の心を覗き見る権利はないのだ。とはいえ、借りた本は返してもらわないと困るし、返せというためには誰がどの本を借りているのかを知る必要があるわけで、つまりここに矛盾がある。
 いま、僕が見ているモニタには、延滞者リストとして「誰が」「何日に」「何冊」借りたのかだけが表示されている。「何を」借りたのかは表示されていないこのデータをもとに、図書委員は督促状を作る。
 督促状は、毎日大量に作るものではない。ところが残念なことにこの図書委員会はいたってモチベーションが低く、書くべき督促状は溜め込まれる傾向にある。そこで気づいた人が、つまり今日の場合は僕が、数日分をいっぺんに書くことになる。
 この仕事は、面倒だ。モニタに出ている情報を用紙に書き写すだけなのだけれど、貸出カウンターのスペースが狭いせいで、モニタの前に用紙を広げられないのだ。そこで、モニタで必要な情報を見て、作業スペースに戻って用紙に書き込む。今日だって、もう何度モニタの前を行ったり来たりしたかわからない。延滞者リストをプリントアウトしてくれれば楽なのに、司書の先生はそれを認めてくれない。「データで見られるものを紙にするのは無駄づかい」なのだそうだ。僕たちの労力は紙一枚よりも軽い。
 かつて僕は、督促状を二人で作る方法を思いついた。一人がモニタの前に座ってデータを読み上げ、一人がそれを用紙に書き取るのだ。このやり方を開発した結果、僕ともう一人は溜まっていた業務を一時間足らずで片づけてしまい、その結果、図書委員会の中では「督促状づくりは堀川次郎たちにまかせよう」という共通了解が成り立った。上手いやり方を発明したら仕事が増えたわけで、腑に落ちない話ではあるけれど、それも別に嫌ではなかった。二人なら、楽勝だったから。
 けれど今日、僕は一人だ。
 ─図書室の壁にかけられた時計を見る。放課後に入って一時間近くが経っている。ボールペンを置き、大きく伸びをして、呟く。
「遅いな」
 放課後、図書委員は二人一組で当番をする。今日は僕と、一年生の植田が当番だ。正確に言うなら、僕と組んでいた図書委員がこのところ図書室に来ないので、その代わりに植田が来ることになっていたはずなのだ。ところが、植田も来ない。督促状づくりがまるではかどらないのは、そのせいだ。
 僕はポケットから携帯を取り出し、植田を呼びつけようとしたが、少し迷ってやめにした。植田はそれほどいい加減な奴ではない。来ないのは何か事情があるからだろうし、そうでなかったとしても、何の報酬もなく放課後に作業させられる図書委員に突然嫌気がさすこともあるだろう。督促状づくりなんて、できなかったら別にそれでも構わないのだ。受付カウンターのテーブルには、新しく納入された本や図書館だよりの原稿、貼っておくべき読書感想文コンクールのポスターなど、仕事が山積みだけれど、それが片づかないのも、さして問題ではない。僕は携帯をポケットに戻した。
 風が吹き込む。十二月に入り、ようやく冷え込んできた。日のあるうちは震え上がるほどではないけれど、こうして日没が近づくと、やはり風が冷たい。図書室は埃が溜まりやすく、放課後には窓とドアを開けて換気をする決まりだけれど、もう充分だろう。僕は席を立ち、カウンターを出て窓際に立つ。
 窓から見える北八王子市には、日暮れの気配が濃い。グラウンドではサッカー部が練習していて、ときどき、ボールを蹴る鈍い音が聞こえる。グラウンドの外周に沿ってランニングしている一団もいる。誰も、声は出さない。この学校は住宅街のただなかにあり、運動部が声を出すと、近所から苦情が来るのだそうだ。
 しばらく外を眺めてから、窓を閉め、鍵をかける。換気の間だけ開けていたカーテンを隙間なく閉じて、紫外線が入り込まないようにする。十二月の弱々しい太陽でも、紫外線は図書室の大敵だ。
 振り返ると、受付カウンターの内側に男子が座っていた。
 彫りの深い顔で、口元にはどこか皮肉めいた笑みを浮かべている。カウンターの内側が定位置だと言わんばかりにくつろいで、新しく納入された本をぱらぱらとめくっている。彼は僕の視線に気づくと本を閉じ、軽く手を挙げた。
「よお堀川」
 僕も片手を挙げ、それに応じる。
「やあ松倉。ずいぶんな遅刻じゃないか」

「遅刻か」
 そう言って、松倉は苦笑した。
「そうだな、遅くなった。悪い」
「植田が来るはずなのに、あいつも来ない」
「代わったんだ。植田の方がよかったか?」
 どうだろう。
「あいつ、手際が悪いからなあ」
「それはそうだが、やらせないと上達しない。お定まりのジレンマだ」
 松倉は、本や紙が無造作に散らばる受付カウンターを見まわす。
「こいつはずいぶん、仕事を溜めたもんだ」
 これは訂正の必要がある。
「溜めたんじゃない。溜まったんだ」
「そりゃあ大変だったな」
 お前が来ないから溜まったんだ、とは、言わないでおいた。そんなことは、松倉だって充分にわかっているだろうから。
 松倉詩門は、僕と同じ二年生だ。クラスが同じになったことはない。
 初めて会ったのは今年の四月、図書委員会の席上でのことで、当時、図書委員会はまともに機能していなかった。図書室は図書委員会の遊び場で、図書委員が騒がしくておちおち本も読めないという状態だった。その状況に対して、強いて抵抗はしないまでも加担もせず、通常の業務を第一にするというスタンスを取っていたのが、僕と松倉だ。
 私物化を主導した三年生たちが引退し、図書室が徐々に平穏を取り戻してからも、僕たちのやることは変わらなかった。この学校の図書室がかつて、そしていま大過なく運営されているのは、ひとえに僕と松倉がずっと変わらず雑務を続けてきたからだ─と誇っても、さして言い過ぎでないはずだ。
 松倉は、僕が作りかけていた督促状に指を置いた。
「この辺から始めるか。カンを取り戻したい。どっちが読む?」
 わかって言っているのか、本当にカンを忘れているのかわからない。督促状づくりでは松倉がリストを読み上げ、僕がそれを書き取るのがいつものやり方だった。松倉はあんまり字がうまくないので、書き仕事をやりたがらないのだ。
「いつも通りに」
 僕がそう言うと、松倉は悪びれる様子もなく、モニタの前に移る。
「よし、やるか。どこまでやった?」
「二年一組、佐田桃、二冊」
「OK。じゃあその次。一年三組、アオキマサミチ。青は青信号の青、正道は正しい道」
 松倉が言うままに書き取っていく。
「次」
「二年四組、タカモトユウリ。高い低いの高、本、悠々自適のユウ、示偏のリ」
「示偏?」
「おっと……衣偏だ」
 衣偏のリ? それもわからないが、
「そもそも悠々自適が書けない」
「辞書を引け辞書を」
 松倉はそう言いながら、手近な紙に「悠裡」と書いて僕に渡す。
 二人なら、楽勝だ。僕たちは五分もかけずに督促状を作り終える。松倉は督促状の束をつかんで、ばさばさと振った。
「図書室はたいてい無人同然なのに、督促状はこんなにたっぷりだ。質量か何かの保存法則に反してないか」
「数少ない来館者が一人残らず延滞してるんじゃないか」
「性悪説に転びそうになるな」
 お前はもともとそっちじゃないか、と言いかけて、やめた。あんまり軽口で言いたい話じゃない。
 松倉はしばらく、図書当番に来なかった。図書委員の中からは、これまでさぼったことはなかった松倉がどうしたのか、何かあったのかと訝る声も上がった。松倉があけたシフトの穴を植田で埋めるまでには、紆余曲折もあった。
 ─僕は、なぜ松倉が図書室に来ないのか知っていた。
 松倉には解決すべき問題と、検討すべき選択肢があったのだ。あえて確認はしなかったけれど、学校にも来ていなかったのではないか。松倉が図書委員の仕事よりも、学校に来ることよりも自分の問題を優先したとしても、不思議ではなかった。そしていま、松倉詩門は図書室に戻ってきた。松倉は問題に答えを出したのだろうか。その答えは、どういうものだったのだろう。
 僕は松倉に、例の件はどうしたんだと訊きたかった。
 だけど、その言葉もまた、僕の口からは出すことはできない。僕は、松倉の問題にかかわることをやめたのだ。結論だけ聞こうなんて虫がよすぎる。
 だから僕は督促状の束を取り戻して、言う。
「仕事を続けよう」
 松倉は肩をすくめ、少し笑った。
「もっともだ。で、何をする?」
 受付カウンターを見まわす。新しく入った本や、破損した本、汚損した本など、図書委員として処理すべき本は何冊もある。けれどやはりまず手をつけるのは、これだろう。
「まずは返本かな」
 返却されてきた本を、書架に戻さなくてはならない。
 返却箱には、さっき置かれた『薔薇の名前』下巻があるだけだ。けれど、返却本はそれ一冊ではなかった。図書室にはキャスターつきの可動ラックがあって、そこにはたっぷりと本が並べられている。松倉はそのラックを見て、ちょっとうんざりした顔をする。
「こっちも、溜め込んだもんだな」
 あの可動ラックは本を置いておく場所ではない。あくまで、本を書架に戻すのに便利な、動く作業スペースなのだ。そこに本が溜まっているというのは、ここ数日の図書当番が返本作業をさぼっていた証拠にほかならない。松倉が本を目で数える。
「見た感じ、二十冊はあるか」
 二十冊溜まっているのなら、僕の経験から言って、二日か三日はさぼりが続いている。残念ながら、珍しいことではない。
 松倉は肩を小さくまわした。
「やるか。俺、返本は嫌いじゃないんだよな」
「わかる」
 図書室に返された本は、本の背表紙に貼られたラベルに書かれた図書記号に従って、元の場所に戻される。なんというか、あるべきものがあるべきところにきっちり収まるのは気持ちがいい。
 返却本は、裏表紙に貼られたバーコードを読むだけで、データ上は返却が完了する。ラックに並んでいる本は、バーコードの読み取りは終わっていて、もう書架に戻すだけの状態のはずだ。松倉が受付カウンターから出て、ラックから手近な本を取ろうとする。その手が、ふと引っ込められた。松倉は空中でページをめくるような手ぶりをする。
「チェックは済んでるのか」
「……ああ、そうか。どうかな」
 チェックという図書用語があるわけではないけれど、言いたいことはよくわかる。
 返却された本には、ときどき何かが挟まっていることがあるのだ。栞がわりに手近なものを挟み込んでしまうのだろう。いちばんよく見かけるのは市販の文庫本についてくる栞、次にコンビニなどのレシートだけれど、進路調査の用紙なんかが挟まっていたこともある。そして一度などは、千円札が挟まっていたことさえあったのだ。
 本に挟んだままの忘れ物を見つけるだけでなく、書き込みや汚損を見つけることもある。返却された本をぱらぱらとめくって何も挟まっていないか確認するひと手間は、トラブル防止に有用だ。ところがこのひと手間が、なかなか浸透しない。ラックに本を並べた図書当番がチェックを済ませているかは、言われてみれば、はなはだ心許ない。
 松倉はラックから数冊をいっぺんに抜き出し、それを僕に差し出した。
「やっちまうか」
「だな」
 本は半分ほどが小説で、残りは進路に関する本や科学読み物、雑学本など、多種多様だ。バイクの整備に関する本なんかもある。どうしてこれが高校の図書室にあるのか、ちょっと疑問が残る。
 僕が最初に手にしたのは、『監獄の誕生』という本だった。ざっとめくっていくと、あるページがぱかりと開いた。「一つの身体は、人々が配置し動かし他の身体に連結しうる一つの要素となる」という、わかるようなわからないような文章が目に入る。そして、ポイントカードが挟まっていた。
「何かあるぞ。〈かっつかつ〉? 何だろう、経営が苦しそうな店名だけど」
 僕が呟くと、松倉がひょいと僕の手の中を覗いてくる。
「知らないのか。〈かっつかつ〉を知らないやつがこの学校にいるとはな」
「なんだか、お前も知らないんだろうって気がするよ」
「見損なうな。とんかつ屋だよ」
「旨いのか?」
「食ったことはないな」
 知らないも同然じゃないか。
 二十ポイント溜まると五百円引きと書かれたポイントカードは、十七ポイントまで溜まっている。これをなくしたのでは、持ち主の悲嘆は察するに余りあるというものだ。忘れ物入れ─いつのものとも知れないクッキー缶だ─に入れておく。
 ほどなく松倉が、『サンバガエルの謎』という本から紙きれを取り出す。
「大漁だな。こっちにもあった」
 紙はふつうのコピー用紙をちぎったものらしい。そこには何やら、数字が書いてあった。数字がいくつあるか、指さして数える。
「数字が七つ。なんだろう」
 特に規則性はなさそうな、偶数と奇数がでたらめに並んだ数字だ。
「なんだろうってお前……」
 松倉があきれたように言う。
「確定できるわけじゃないが、まず思いつくのは、あれだろう。電話番号」
 もう一度、数字の羅列を見る。
「いや、おかしいだろ。電話番号にしちゃ、明らかに短い」
「市外局番を略せば、七ケタになる」
「略すって、電話番号を省略したら使いものにならないじゃないか」
 松倉は何か言いかけて言葉を吞み、まじまじと僕を見た。
「堀川。お前ひょっとして知らないのか。市外局番を省略しても電話は通じるぞ」
「……噓だ。引っかけようったって、そうはいかない」
「いや本当だって。携帯は駄目だが、固定電話から同一の市外局番地域にかけるなら、市外局番は省略できる」
 僕は心からの疑いを眼差しに込めた。松倉はいたって真剣な顔で、
「本当だ」
 と繰り返す。
「そうか、松倉がそこまで言うなら、そうなんだろう」
「お前、絶対信じてないだろ」
「信じてるよ。これっぽっちも疑ってない」
「棒読みなんだよ」
 いちおうこれも、忘れ物入れに保管しておく。
 ざっとではあるけれど、可動ラックの本は調べ終わった。あとは本を書架に戻していくだけだ。そう思って受付カウンターを出ようとしたところで、返却箱に一冊だけ残っている『薔薇の名前』の下巻に気づいた。
「おっと、忘れてた」
 箱から取り出し、スキャナーでバーコードを読み取る。短い電子音が鳴って、この本のコンピュータ上の状態は、「貸出中」から「在架」になる。松倉が僕の持つ本を見て、ちょっと身を乗り出した。
「『薔薇の名前』か。すごいのを借りたやつがいるんだな」
「読んだのか」
「映画は見た」
 友よ。
 松倉は僕から『薔薇の名前』下巻を受け取り、ぱらぱらとページをめくり始める。思わず警告する。
「ミステリだから、あんまり先を読むなよ」
 ページに目を落としたまま、松倉は生返事をする。
「読みはしない。ただのチェックだ」
 そうしてぱらぱらとページをめくっていく。その動きがふと止まり、松倉はさも嬉しそうに笑った。
「調べてよかったな。今日だけで三件だ」
 本に挟まっていたのは、栞だった。

(続きは本誌でお楽しみください。)

top