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物語を愛するすべてのひとたちへ-小説すばる

2021年11月号 小説すばる

【新連載】
月村了衛
「十三夜の鬼」

十三夜の邂逅

 天に広がる雲が月を遮り、湯島は一面黒い夜に沈んでいた。

 提灯を手に帰路を急いでいた先手弓組幣原喬十郎は、湯島切通町に差しかかったあたりで、前方に人影らしきものを認めて立ち止まった。

 不審に思い、提灯を突き出したがよくは見えない。だが、道の真ん中に突っ立っている者が一人、その足許に倒れている者が一人、いや二人。

 闇の底を吹き抜けた風が、微かな臭いを運んでくる─血の臭いだ。

「どうなされた」

 そう問いかけながら慎重に歩み寄る。

 立ち尽くしていた男がこちらをゆっくりと振り返ったまさにそのとき。

 雲が途切れ、十三夜の月が地上にさやかな光を投げかけた。

 月光に映し出された顔を見て、喬十郎は我知らず足を止めていた。

 男は両眼から涙を流して泣いている。声もなく、ただ頰をしとどに濡らしているのだ。

 柄までは分からないが地味な着物に、やはり落ち着いた色味の帯を合わせている。目立たぬ恰好をしているが、整った怜悧な容貌はただの町人とも思われぬ。

 まだ若い。歳は自分と同じくらいか。蒼い光の中で泣く男。その凄艶な立ち姿に、喬十郎は不覚にも声を失った。

 だがそれも一瞬。喬十郎は男が手にした匕首が黒く濡れ光っているのを確かに見た。側に倒れている女と男が、おびただしい血にまみれているのも。死んでいるのは一目で知れた。

 即座に提灯を投げ捨て抜刀する。

「先手組の幣原喬十郎じゃ。その場を動いてはならんぞ」

 その言葉で我に返ったのか、男は無造作に匕首を投げ捨てた。

 それから喬十郎に向き直り、どこか他人事のように言った。

「俺じゃねえよ」

 つい今しがたまでとは打って変わったふてぶてしさだった。その変貌ぶりに並々ならぬ自負が感得される。涙もまだ乾いていないというのに、あろうことか、彼はうっすらと嗤ってさえいた。

「わしが質すによって素直に申せ。まずその方の名は」

 男は何も答えない。

「どうした、早う申せ」

 風が吹く。雲が流れる。

 男はやはり答えない。

 喬十郎は抜刀したまま油断なく間合いを詰める。

「申せっ」

「嫌だね」

「なにっ」

 憤激した喬十郎が駆け寄ったとき、月が再び雲に隠れた。同時に男は近くにあった用水桶に足を掛け、一気に町家の軒へと跳び上がっている。喬十郎の剣は虚しく空を裂いたのみだった。

 紛うことなき盗人の身のこなし。しかも相当な手練れである。男は最初から月が雲に隠れる瞬間を待っていたのだ。

 猿の如く町家の屋根に駆け上った男は、こちらを嘲笑うかのように振り返った。

 雲に遮られているとは言え、十三夜の淡い光が男の影を黒々と浮かび上がらせる。

 待て、と叫ぶ間もなく男の姿は夜に溶けて消えている。

 喬十郎は恥辱の念に身を震わせ、男の消えた暗い夜空を見上げ続けた。

 恥辱─そうだ、恥辱だ。

 男を取り逃がした恥辱と、そして、男の異様な姿に目を奪われた己が未熟に対する恥辱。

 天明四年(一七八四年)五月、十三夜月のことであった。

 死んでいた男女の身許はすぐに判明した。

 男は近くに住む口入屋の國田屋庄右衛門。女は國田屋に住込みで奉公している下女のおたきであった。いずれも刃物で心の臓のあたりを何度も貫かれている。

 近所の者の話では、庄右衛門は先年妻に先立たれて以来独り身で子供もなく、そこに入り込んだのが若いおたきであるということだった。しかし二人が本当にわりなき仲であったかどうかまでは知る者もなく、少なくとも表向き、おたきは女中としてかいがいしく働いていたようである。

 現場の様子から、二人はどこかへ出かけようとして家を出たところを刺殺されたものと推量された。

 駆けつけてきた町方に、喬十郎は己の身分姓名を名乗り、目撃したことについて余さず話した。また番屋にも同行し、さらに詳しい事情について説明した。

 本日は親類の法事に父宗治の名代として参列したこと、すっかり遅くなってしまったので提灯を借りて帰途に就いたことなどである。

 こちらの身許がはっきりしているので町方もそれ以上の詮議はせず、問わず語りに殺された者について教えてくれたという次第であった。

 すっかり夜が明けてから麻布飯倉片町の屋敷に帰着し、在宅していた父に己が遭遇した惨劇について報告した。

「賊を前にしながら、おめおめ取り逃がしたと申すか」

 思っていた通り、先手弓頭を務める父からは強く叱責された。

 厳密に言うと実の父ではない。幼少時から病弱であったという喬十郎の実父宗貞は、今から六年前、すなわち喬十郎が十二のときに病没した。その一年後、喬十郎は子のなかった伯父宗治の養子に入ったというわけである。

「先手弓組に名を連ねる者が、なんたる失態。町方も陰で嗤うておったに相違あるまい」

「面目次第もございませぬ」

 弓組約十組、鉄砲組約二十組、合わせて約三十組ある先手組は、若年寄支配にして江戸城各門の警備、将軍家外出時の警護の他、市中見廻りの御役目を負っている。同じく江戸市中の治安維持に当たる町奉行所が役方、すなわち文官であるのに対し、先手組は武官たる番方であり、代々勇猛の気風が受け継がれていた。父もまた例外ではなく、喬十郎が養子に入ってより、武芸の鍛錬にはことのほか厳しく、卑怯未練なふるまいはこれを決して許さなかった。

 先手頭は家格の高い旗本から選ばれており、幣原家はその一つである。当主宗治の性格もあろうが、それだけに幣原の家には日頃から張りつめたような緊張があり、喬十郎もまたこの家風に染まることを強いられ生きてきたのであった。

 誰に対しても峻厳極まりないこの伯父の前では、喬十郎も己の未熟を痛感させられるばかりである。

「下手人の顔を見たは私一人にございますれば、この汚名をそそぐため、また先手組本来の務めとして、御役目に障りのない限り、私はあの男の探索に専念致したく存じます」

 宗治は大きく頷き、

「それがよい。町方に侮られたままでは先手組の面目が立たぬ。奉行所にはわしから話を通しておくゆえ、しっかり励めよ」

「は、ありがとうございます」

 礼を述べながら、喬十郎はあの男の顔を思い浮かべていた。

 十三夜の月を受け、涙の乾かぬ頰を気にもせず、不敵に嗤っていたあの顔を。

 

「殺された國田屋なんですがね、どうにもはっきりしねえんです」

 湯島にある番屋の一つで、渋茶を啜りながら喜八が言った。

 國田屋殺しを調べる町方同心から紹介されたのがこの喜八で、湯島界隈を縄張りにしているという四十がらみの御用聞きである。

「はっきりしないとはどういうことだ」

 手伝いに来ている爺さんが出してくれた出涸らしの茶に形ばかり口を付け、努めてさりげないふうを装い尋ねた。

「曲がりなりにも口入屋なんで、あっちこっちに出入りはしてたみたいですよ。でもね、奉公先や仕事を世話してもらったって野郎はいるにはいるが、ちっとばかり、いいえ、かなり少ねえんでさ。あれでどうやって食ってんだろうって、近所の連中も首を傾げてたとか。一時は六助って番頭を置いてたらしいが、どういう事情かいなくなった。それからは奉公人も置かずに店のことは全部一人でこなしてたそうですから、なんとかやれてたのかもしれやせんけどねえ」

 なるほど、いかにも胡散臭い。

「越してきたのが五年前、そんときの挨拶だと、元は近江の方の出だって言ってたらしいんですが、それにしちゃあ言葉にあっちの方の訛りはなかったって話でさ」

 それにね、と喜八は声を潜め、

「家ん中を調べてみたら、ずいぶん溜め込んでましてねえ。そんときはわっちもお手伝いしやしたから間違いありやせん」

「ほほう、いかほど見つかったのだ」

「それがまたはっきりしねえんで」

「おまえもその場にいたのではないのか」

「いえね、山吹色の詰まった千両箱ならわっちだって大体の見当くらいつきやすよ。けれど見つかったのが手形とか証文とか、そういう書付ばっかり入った手文庫で。これは大した分限者だって八丁堀の旦那衆が目を剝いておりやしたが、それでも一体いくらになるのか、旦那衆でもすぐには分からなかったようで。そしたら御勘定方の方からお役人が見えられて、そちらでお預かりということになったんです」

 そこで喜八は大きな溜め息をつき、

「これで國田屋がとんだ強欲じじいだったってんなら話はまだ分かるんですが、聞いた限りじゃ強欲どころか、町内の祭り事なんかにゃかなりの寄進をしてたっていうし、腰は低いし愛想もいい、悪く言う奴は一人もいねえ。とにかく善人だったらしいが、わっちからすると、あっちこっちが、なんだかこう、ちぐはぐな気がしやしてね」

 喜八の話を聞くうち、頭をよぎった考えを口にしてみる。

「もしや、國田屋は御公儀にお届けなく大口の両替か金貸しでもやっておったのではないか」

「わっちもまずそれを疑いました。だがもしそうだとしたら、貸付の証文が見つかったはずだ。それなら八丁堀の旦那方じゃなくったってすぐに分かりまさあ。けれど手文庫の中にはそんなのは一枚もありやせんでした」

「國田屋を殺した下手人が持ち去ったのではないか。あの男が大金を借りていたなら國田屋殺しも筋が通る」

「どうですかねえ」

 こちらを素人と思ったか、喜八が苦笑を漏らした。

「旦那は男が國田屋を殺したところに居合わせたわけでしょう」

「殺したところは見てはおらぬ」

「おんなじですよ。で、その野郎は屋根に飛び移って逃げやがった、と」

「そうだ」

 苦々しい思いを嚙み殺して喬十郎は頷いた。

「だったら殺す前に盗んでなきゃならねえ。証文を盗んだ後で、國田屋を追いかけて女もろともぶっ殺したってわけですかい」

「それだけ恨みがあったとしたらどうじゃ」

「まんざらねえ話でもねえとは思いやすが……どうでしょうかねえ。手文庫は押入の奥に隠してあって、特に引っかき回された様子もありませんでした。下手人の野郎が、てめえの貸付証文だけじゃなく、他人の分まできれいに持ってってくれたってのもねえ。そんな親切な野郎がいるなんて、わっちにゃあとても信じられやせん」

 何から何まで喜八の言う通りであった。

 喬十郎はすっかり恥ずかしくなって、礼を言うのもそこそこに番屋を後にした。

 歩きながら考える。

 國田屋は確かに怪しい。本業の商いが形ばかりのものであったとすると、一体どこから手形の類を得ていたのか。そもそも誰が振り出した手形であったのか。それを調べるには勘定所の方を当たらねばなるまいが、さすがにそれは御役目違いの筋違いである。勘定所は勘定奉行、さらには老中支配となるから、勘定方の協力を仰ぐには確固とした証拠が必要となる。調べてみて何も出なかったとなれば、若年寄安藤対馬守様の手前ただではすまない。この筋は一旦捨てるしかなかった。

 照りつける日差しがいやに眩しい。通常の御用なら何人かの同輩と一緒に回るのだが、この件ばかりは単身で当たるよりない。道は乾いていて足を動かすたびに埃が舞った。左右に並ぶ商家の店先では、下女や小僧が盛んに打ち水をしている。

 路上に転がっていた死体。二人は何度も刺されたということだ。喬十郎も二人が血まみれになっていたのを目の当たりにしている。

 あの男は、泣きながら國田屋を刺したというのか。そこまで深い恨みがあったというのか。

 分からぬことばかりであるが、今はまずあの男の素性を突き止めるのが先決だ。

 喬十郎の思案は畢竟そこへと戻り着く。

 なんとしてもあの男を捕らえねば、先手組の面目が立たぬ─

 喬十郎が向かった先は、牛込行元寺門前にある鹿能屋清造の家であった。

 鹿能屋は牛込一帯を縄張りとする稼業人の元締で、幣原の家とは古くからの付き合いがある。喬十郎も幼少の頃、時折挨拶に寄った鹿能屋にずいぶんとかわいがってもらったものだ。

「これは若様、ずいぶんご立派になられまして」

 久方ぶりに訪れた喬十郎を、鹿能屋は上機嫌で迎えてくれた。しばらく見ぬうちに白髪がめっきりと増えていたが、隙のない目配りは少しも衰えていなかった。その傍らには片腕と言われる番頭の満五郎が控えている。

「若様はやめてくれ。今は御先手組の御用を務めておる。まだまだ見習いのようなものだがな」

 鹿能屋は野太い声を上げて豪快に笑い、

「見習いはようございましたな。御忠勤、せいぜいお励みなされませ」

「ところで鹿能屋、今日参ったのは他でもない、湯島の國田屋殺しは知っておるか」

 好々爺然としていた鹿能屋の顔付きが一瞬で変わった。

「へい、大体は聞いております」

「さすがに早いな」

「この鹿能屋清造、歳は取ってもまだまだ耳の方はよっく聞こえておりましてね」

 鹿能屋は所謂稼業人を束ねている。その配下は当然世間の裏にも通じており、江戸に数多いる無法者達からの情報が、自ずと集まるようになっている。その中には、二足の草鞋と揶揄される岡っ引き、下っ引き等の御用聞きさえ含まれる。幣原家は御役目上、こうした者達がもたらす話を大いに重宝していた。それゆえに鹿能屋とも代々懇意にしていたのである。

「ずいぶん酷い殺しだったようで」

「わしはあの夜、湯島の村井様に嫁がれた叔母上の法事に参列しておってな、帰途その現場に行き合わせたというわけじゃ」

「なんと、こいつは」

 鹿能屋は驚いたように目を見張り、

「通り合わせた若い御武家様が下手人を逃がしちまったって噂を聞きやしたが、そうですかい、あれは喬十郎様だったんですかい」

「言うてくれるな。この上はなんとしても賊を捕らえねば面目が立たん。いや、わしの気が治まらんのだ」

「ははあ、なるほど、そういうわけでござんしたかい」

 相手はすべて得心した様子。

「ようございます。あっしにできることならなんなりとお申し付け下さいやし」

「おお、力を貸してくれるか」

「ええ、幣原の御家にお出入りをさせて頂いておりますからには、ここで御恩返しを致さねばあっしの顔が立ちません。早速でございますが、その下手人はどんな野郎でしたかい」

 喬十郎は記憶にある限り男の特徴について説明した。歳の頃、背恰好、並外れた体術、そして利け者めいた冷ややかな容貌。ただし、月光に映える彼の涙に気を取られたことまではあえて触れなかった。

 腕を組んでしばし考え込んでいた鹿能屋は、満五郎と目を見交わし、

「その男、もしかしたら、代之助のところで仕事を始めたという新顔かもしれません」

「心当たりがあるのか。代之助とは何者じゃ」

「盗人の頭目でございますよ。大呪の代之助と申しやしてね、あっちの世界じゃ知らねえ者はねえってくらいの大盗でございます。手下も選りすぐりの腕利きを揃えていることで評判なんですが、そこに駆け出しだが腕の立つ若いのが入ったって噂を耳にしました。代之助の手下ってだけでも盗人の間じゃえれぇ箔が付く。それであっしの耳にまで入ったってわけで。お話を伺っていると、人相風体、どうもそいつじゃねえかと。名前は確か、千吉とか言いやしたか」

「大呪の代之助一味、千吉だな」

「確かじゃありやせんよ。仮にそいつが千吉だったとしても、頭の指図で動いているのか、それともてめえ一人の算段か、そこまではなんとも申せません」

「分かっておる」

「代之助の居所は、あっしの方で探らせます……満五郎」

「へい」

 低い声で応じた満五郎が、喬十郎に一礼して下がる。

 鹿能屋はそれを見送り、

「喬十郎様は、差し当たり國田屋の出入り先を当たってみられては」

「そうしよう。恩に着るぞ、鹿能屋」

 腰を浮かした喬十郎に、鹿能屋は案ずるように声をかけた。

「くれぐれも無茶はしねえでおくんなさいましよ。代之助ほどの大物が相手となると、迂闊に手を出したら後が厄介ですからね」

「心遣いには礼を言う。じゃが幣原の家に出入りするその方が、御先手組、ひいては御公儀を侮るが如き─」

 憤然とした喬十郎を片手で制し、鹿能屋は鷹揚に笑った。

「あっしとしたことが、いや、こいつは申しわけありません。若様の御身を案じるあまり、年寄りが要らぬお節介。どうかご勘弁を願います」

 若い己とは役者が違う。喬十郎も苦笑して立ち上がり、鹿能屋を辞したのであった。

(続きは本誌でお楽しみください。)

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