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物語を愛するすべてのひとたちへ-小説すばる

2021年10月号 小説すばる

【新連載】
千早茜
「赤い月の香り」

 音が消えた。

 身体のどこかが必ずぶつかるせまい厨房から、ランチタイムの騒がしい店内に一歩出た瞬間、ふつと音が吸い込まれたように感じた。

 短髪の、一人の男に。

 捉えどころのない表情に、どことなく淡い色の髪。てらてらした赤いギンガムチェックのビニールクロスがかかった安っぽいカフェで、その男の周りだけ青い夜の気配が漂っているように見えた。

 白い月が浮かぶ。薄くて、透けそうな、乾いた骨の切片みたいな月。

 突然、皿を持つ腕に衝撃があった。と、思う間もなく、耳障りな音が折り重なるように響いて視界が乱れた。熱い飛沫がズボンと靴下に飛び、コーヒーカップが砕け散り、銀の盆がわんわんと床で踊る。

「失礼しました!」

 反射的に叫ぶ。俺にぶつかってきたホールの女の子は小さく悲鳴をあげただけで何も言わない。俺が見ると、肩を縮めて後ずさった。目に怯えがあった。しまった、と思う。目つきが怖いと陰口を叩かれていたのに、またやってしまった。

 店内のあちこちで「失礼しましたー」の声があがり、カウンターの中からやってきた店長が「なに、やってんだよ」と舌打ちしながら言った。女の子が弾かれたようにモップを取りに走る。やはり謝らない。

「や、ぶつかってきたのはあっちで……」

「違うでしょ、なんで朝倉くんがホール出てくるの」

 店長が口をひらくたび、ねちねちと唾液が鳴る。この喋り方が苦手でなるべく近くに寄らないようにしているのに。顔を背けると、「なんでって訊いてるんだけど」と距離を詰めてきた。コーヒーがかかった足首がひりひりする。火傷したかもしれない。

「手が足りないからテーブルに持っていってと言われたんですけど」

「誰に」

 誰だっただろう。盛りつけをしていて顔は見ていないが、男の声だった。声の主を探そうと店内を見回すと、大学生バイトたちがさっと目を逸らした。

「五番テーブルにって……」

「だから、誰に」

 店長の片足が床を小刻みに叩く。カップの破片がひとつ、靴先にぶつかって転がっていった。

「勝手なことしないで、ほんと」

 わざとらしく溜息をつく店長の肩越しに、大学生バイトたちがちらちらと目配せをして笑っているのが見えた。かっと皮膚の裏が熱くなった。

「おい」

 考える間もなく、怒号がもれた。駄目だ、と思うが止められない。「おまえら、また─」口が勝手に動き、肩に力が入る。赤く染まっていく視界の中で、店長の顔が強張る。畏怖のまなざし。いけない。やめろ。この視線を向けられた後にやってくる苦い味を知っているのに。

 その時、テーブルがすごい音で鳴った。店の隅っこのテーブルに両手を置いたまま、黒ずくめの男が勢いよく立ちあがる。椅子が仰向けに倒れ、また派手な音が響き、店内が完全に静まり返った。

 黒ずくめの男は気にした素振りもなく「あれ」と振り返り、椅子の背を摑んで立て、「それ」と俺のほうを見た。

「それさあ、俺らのじゃねえの」

 指に挟んだ煙草で、俺の両手にある皿を指す。店長がぎょっとして「あ、あの……お客さま、お煙草は……」と言ったが、男の「ああ?」で目をさまよわせた。黒の革ジャンに、細身のパンツ、尖った革靴。背が高く、威嚇するように身体を斜めにしている。

「知ってるって、禁煙だろ。ちゃんと見ろよ、火ぃ点いてねえし。そんなことより、飯さっさと持ってきてくんない? 俺、めちゃくちゃ腹へってんだけど」

 早くしろ、と言うように顎をくいっとあげる。「あ、はい! ただいま!」と店長が俺を肘で小突いた。黒ずくめの男が叩いたテーブルが五番だった。最悪だ、と思う。

 黒ずくめの男の向かいには、さっき目をひかれた短髪の男が座っていた。人形かと思うほどに微動だにしない。音をたてて椅子に座る黒ずくめに、静かだがはっきりした声で「うるさい」と呟いた。

 それが合図のように店内にざわめきが戻る。店長はそそくさとカウンターに戻り、店員も客も五番テーブルと俺を見ないようにして手や口を動かしはじめた。皿とカトラリーの擦れる音の中、二人のテーブルに近付く。

 二人は同じ歳くらいに見えた。二十後半か三十前半くらい。けれど、友人同士にも会社員にも見えない。黒ずくめの男なんか明らかにヤクザの下っ端だ。不貞腐れた顔をして脚を組み、椅子をぎしぎし揺らしている。短髪の男は無表情のまま座っていた。姿勢は良くも悪くもない。オーバーサイズの白シャツ一枚に、ベージュのパンツ。暖房が効いているとはいえ、見ていて寒くなるほどの薄着だ。坊主に近い短髪はなめらかな茶色で、背後の曇った窓ガラスのせいで輪郭すらぼやけて見えた。空の端にかかった消えかけの月が、また浮かんだ。

「パスタセットはどちらでしょうか」

 からからになった口で言うと、黒ずくめが「俺、俺」と片手をあげた。日替わりのガレットを短髪の男の前に置こうとすると、その人はふっと顔をあげた。「それも彼に」と遮られる。もうスパゲッティをすすっていた黒ずくめが「はあ?」と大きな声をあげる。「そんなに食えねえし」

「空腹なんだろう」

「お前が頼んだんだろ!」

「僕が外食できないことはよく知っているはずだ」

「棒棒鶏ガレットなんて意味わからんもん食いたくねえよ! なんでわざわざ頼むんだよ!」

 黒ずくめの怒鳴り声が響き、日替わりガレットを考案している店長が傷ついた顔をした。今週は二軒隣に新しくできた中国料理屋に対抗すべく中華風ガレットをだしていたが、厨房スタッフからも客からも評判は芳しくなかった。特に今日の棒棒鶏なんて季節も合っていない。

 俺はガレットの皿を手に持ったまま、言い合いをする二人の間で呆然と立ち尽くしていた。とはいえ、喚いているのは黒ずくめの男だけで、短髪の男は表情も口調も静かなままだった。また、音が遠のく。

 ふいに、短髪の男が俺を見た。

「この職場は君に合っていない」

「なんだ、いきなり」と、黒ずくめの男がなぜか俺の心の声を代弁してくれた。「お前さあ、順序ってもんがあんだろ」

 黒ずくめ男を無視して、短髪の男は続けた。

「緊張や不安といったストレスがかかると、皮膚からガスが発生する。いわゆるストレス臭といって、硫黄化合物系の、一般的には不快な臭いだ。ここはそれが充満している。メニューのセンスの問題以前に、食事をする環境ではない。それに」

 短髪の男は俺を見たまま言った。けれど、その目はどこか遠くを映していて、首の後ろがぞくっとするような奇妙な浮遊感をもたらした。

「君からは怒りの匂いもする。それは他者の攻撃性を誘発する。悪循環だ」

 ポケットから銀縁の眼鏡を取りだしてかける。音もなく立ちあがり、テーブルにそっと片手を置いた。俺はただその動きを目で追うだけだった。

「うちで働くといい。業務内容は家事手伝い、兼、事務、接客といったところだ。こちらから勧誘するんだ、報酬ははずむよ。わからないことはこの新城に聞いてくれ」

「おい、朔! ちょっと待てって、こいつ男じゃん!」

 新城と呼ばれた黒ずくめ男がフォークを振りまわす。

「ゆっくり食べろ。僕は車で待っている。ここの匂いはもう限界だ。まだ新城のニコチン臭のほうが耐えられる」

 白い紙片を残して歩き去っていく。すれ違った瞬間、香りがたった。香水でも、柔軟剤でもない、瑞々しい野菜や果実を切った時のような匂いがした。苦みを帯びた、青いひんやりした粒子が鼻先で弾け、吸い込むと苔や根を思わせる深い余韻となって胸の奥に落ちていった。

 思わず、振り返る。香りは糸を切るようにふっつりと途絶え、あんなにも独特だったはずなのにもう思いだせなかった。テーブルに皿を置き、残された名刺に手を伸ばす。

─la senteur secrète

 表にはそれだけしか書かれていなかった。そっと鼻に近付けると、印字された文字がぼやけた。インクの湿っぽい匂いと先ほど嗅いだ香りが混じり合っている。空気中に散った調理油やランチ用の煮つまったコーヒー、客の化粧品や整髪料、汗、エアコンで乾いた頭皮、店内の猥雑な匂いが遠くなる。何者をも寄せつけない、凜とした孤独を保つ香りだと思った。

 なぜか、じわりと胸が痛んだ。

「あの、これ、どこの香水ですか?」

 訊くと、黒ずくめ男はわずかに口をひらいて俺を見た。仕方なく、というように「香り」と訂正した。「香水じゃなく香り」あっという間に空にしたパスタ皿を押しやり、フォークで名刺を指した。

「その香りは」と、長めの前髪の隙間から濃い二重の目が俺を睨めつけた。

「どこにも売っていない。この世にひとつだ。あいつにしか作れない。うちはそういう香りを作っている」

 香水と香りはどう違うのだろう。もう一度、名刺の匂いを深く吸い込んだ。かすかに触れた鼻先から、しんとした気配が浸み込んでくるようだった。

「なんの香りですか」

 問うと、「あいつに訊け」と面倒臭そうな答えが返ってきた。

(続きは本誌でお楽しみください。)

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