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物語を愛するすべてのひとたちへ-小説すばる

2021年9月号 小説すばる

【新連載】
櫛木理宇
「少年籠城」

 プロローグ

 

 記憶の中の〝梨々子ちゃん〟は、いつまでも十一歳のままだ。

 彼女との思い出は、たいてい柳楽家の書庫とセットになっている。ずらりと並ぶ本の背表紙。古紙の黴くささ。天窓の磨りガラスから斜めに射しこむ光の帯。その帯の中で上下に舞う、こまかな塵。

 それらを背景に、梨々子はいつも壁に背を付け、両膝を立てて本を読んでいた。

 柳楽家の長男である司にとっては、書庫なんて場所ふさぎで鬱陶しいだけだった。

「こんなもんよりゲーム専用の部屋を作ってくれよ、親父」

「それかホームシアターでもいい。本なんかいらない」

 と不満ばかり言っていたものだ。

 だからだろう。「じゃあ司くん、取っ替えてよ」ことあるごとに、梨々子はそう訴えてきた。

「うちの親あげるから、代わりに司くんのお父さんちょうだい。取り替えっこしよう。うちのお母さんなら一日じゅうゲームしてようがテレビ観てようが、ひとっつも文句なんか言わないから」と。

「おー、いいぜ。取り替えよう」

 そう答えながらも、心の底で「それはやだな」と司は思う。

 司の家には父親しかいない。〝梨々子ちゃん〟には母親しかいない。

 お母さんがいることも、一日じゅうテレビを観ていられることも、確かにうらやましくはある。でもやっぱり〝梨々子ちゃん〟に成り代わりたいとは思わない。

 ─だって、〝梨々子ちゃん〟のうちは。

 そのあとは口に出さない。子どもだって、それくらいの分別はある。

 梨々子がふんと鼻から息を抜いて、ふたたび本をひらく。その両腕にはいくつもの青痣があり、火傷の痕があり、刃物でできたらしい古傷が走っている。

 その日、とくに目立っていたのは左目をぐるりと囲む痣だった。

 治りかけの痣は青から紫に変わりつつあり、そのまわりはぞっとするような暗い黄いろでまだらに染まっていた。

 その黄いろを眺めながら、司は胸中でつぶやく。

 ─第一ほんとに〝取り替え〟ちゃったら、おれたちはきっともう遊ばなくなる。

 梨々子が司の家に通う理由は、ひとえにこの書庫だ。

 書庫を手に入れてしまえば、彼女は満ち足りる。司と幾也に付きあってサッカーなんて絶対にやらないだろうし、川遊びも、幾也のゲーム観戦もしないだろう。下手をしたら、書庫から一歩も出てこないかもしれない。

 梨々子は、本が好きだ。

 そしてこの書庫には父の蔵書だけでなく、死んだ母の愛書も並べてある。梨々子のお気に入りは、ほとんどが後者だった。『クラバート』『指輪物語』『赤毛のアン』『ジェーン・エア』『はてしない物語』『飛ぶ教室』『子どもだけの町』『ナルニア国ものがたり』……。

「取っ替えなくていいからさ。おまえもうちの子になりゃいいんじゃん?」

 棚に寄りかかり、なるべくさりげない口調で司は言う。

「そのほうがいいよ。そんでおれの代わりに、うちの食堂継いでくれよ」

「え、わたしが継いでいいの?」

 梨々子の目が輝いた。

「もちろん。でも一生、他人のメシ作って生きてかなきゃいけないぜ」

「いいよ、そんなの全然いい。ていうか、それのなにがいやなのかわかんない」

 むきになって言いかえす梨々子に、

「ああ違う違う、わかった。おまえ幾也とケッコンすりゃいいんだ」

 と司は膝を打った。

「だってさあ、あいつん家のお姉ちゃんも本が好きなんだぜ。漫画だっていっぱいある。幾也の親父さんは会社員だから、べつに継ぐもんないしな。あいつとケッコンすれば、本が読めるし食堂もやんないで済むじゃん」

 早口でそう言いつのる。

 なぜって、司は知っていた。幾也のやつは〝梨々子ちゃん〟が好きなんだ。

 だからおれは協力してやらなきゃいけない。こういうときは男の友情が最優先だ。男同士ってそんなもんなんだ。漫画で得た知識で、固くそう思いこんでいた。

「ふぅん」

 つまらなそうに、梨々子が天窓を仰ぐ。

「……司くんはきっと、一生ケッコンできないね」

「は?」

「女心がわかんないもん。そんなんじゃ、一生無理だと思う」

 そのとおりだ、と三十一歳になったいまの司は思う。

〝梨々子ちゃん〟は正しい。彼女の言うとおりだった。おまえは馬鹿で鈍感で女心のわからない糞野郎だったよ。店を継ぐべきはやっぱり彼女だった、と。

 ─もしくは、おれたち二人で。

「おまえ、その本好きだなあ」

 小学生の司は話をそらそうと、梨々子が膝に広げた本を指さす。

 松谷みよ子の『ふたりのイーダ』だ。これもまた、亡母の愛書だった。

 司もすこし読んでみたことがある。だが冒頭から怖くてやめた。椅子のお化けが女の子を捜して、脚をことこと鳴らしながら歩きまわる話なのだ。なんだか暗い雰囲気がしたし、気味が悪かった。

「それおまえにやるよ。持って帰れば」

「え? 駄目だよ。司くんの本じゃないでしょ。勝手にそんなこと言ったら駄目」

 司の言葉に、梨々子は眉をひそめて首を振る。

「そうかな。じゃあ期限なしで貸してやる」

「いいの?」

「うん。返すの、いつでもいいよ」

 親父にはおれから言っとくから─。そう付けくわえた。

 その瞬間、梨々子がどんな顔をしたのか司は覚えていない。たぶん笑ったんだろう、と思う。嬉しそうに顔をくしゃっとさせて、目を細めて笑ったに違いない。

 でも、どうしても思いだせない。

 はっきりしているのは、その本が書庫に戻ってこなかった、という事実のみだ。

 本と一緒に〝梨々子ちゃん〟は消えてしまった。

 ある日、母親とともにいなくなった。彼女たちが住んでいた部屋はからっぽのがらんどうになり、一箇月もすると、別の誰かが当たりまえのように住みはじめた。

 そしてそれ以来、司は彼女に会えていない。

 司と幾也は彼女を失ったのだ。たぶん永久に。日光に焼けて背表紙が薄れた、『ふたりのイーダ』とともに。

 

 

  第一章

 夏休みが明けたとはいえ、まだまだ蟬の声はうるさかった。

 エアコンを二十度設定で効かせていても、厨房の中は暑い。火のついたコンロの前に立っているだけで、うなじにも背にもじんわりと汗が湧いてくる。

 柳楽司は首を左側に傾け、耳と肩の間に固定電話の子機を挟んでいた。

「だからな、言ってやったんだよ。『自分だけ若いつもりでいたって、肝心の体は付いてこんのだ。さっさと免許なんざ返納しちまえ』って……」

 子機から流れてくるのは父の声である。

 この『やぎら食堂』の先代店主だった父は、五十五歳の誕生日を機に、店を息子に譲って田舎に引っこんだ。

 妻に先立たれた男三人─ほかに元古本屋の店主と、元喫茶店のマスター─とで徒党を組み、いまは年寄りばかりの限界集落で〝憧れの、晴耕雨読の暮らし〟を送っている。古民家でちいさな畑を耕しては茄子やピーマンを収穫し、雨の日には大好きな埃くさい本を読みふけるという、単調かつ優雅な生活だ。

「いやあ、まったく田舎の年寄り連中は頑固で困るよ。自損事故くらい、平気の平左なんだからな。大怪我してからじゃ遅いって、何度も注意してるのに」

「そうは言ったって、車なしじゃなにもできないだろ。あの村は」

 鰯の梅干煮の火加減を見ながら、司は父に反論する。

「こっちと違って、一日二本しかバスが走ってないんだろ? じゃあ免許を手ばなす決断ができなくて当然だ。親父もあんまりぽんぽんものを言うなよ。しょせんよそ者なんだから、土地の人に嫌われちまったら住めなくなるぜ」

「なあに。気ごころが知れてるからこそ、遠慮なくものが言えるのさ」

 と父は軽くかわして、

「もし村八分にされたとしても、こっちは男三人で固まってるしな。最低限の暮らしは確保していける。ノープロブレムだ」

「はいはい。そりゃよかったな」

「なにがはいはいだ、最後にものを言うのはやっぱり友情なんだぞ。……なあ司」

 父の声のトーンが変わる。司はいやな予感がした。

「だからだな、おまえもそろそろ幾也くんと仲なおりを─」

「仲なおりじゃないって。何度言わせんだよ。おれはあいつと、いっぺんも喧嘩なんかしちゃいないっての」

 やっぱりいつものお説教だった、と司は早口で父をさえぎる。

「しょうもない雑談だけなら、もう切るぞ。おれは仕込みで忙しいんだ。じゃあな。まだ言いたいことがあればメールで送っといてくれ」

 一方的に言って、切った。

 子機を充電器に立てかけ、司はふうと息を吐く。

 そう、喧嘩などしていない。幼馴染みの三好幾也とは、ごく自然に疎遠になっただけだ。

 こちらは食堂の店主で、向こうは所轄署の警察官。職業からしてかけ離れてしまった。お互い三十一歳の働きざかりで、べたべた遊ぶような歳ではない。昔ほど会わなくなっても、なんの不思議もあるまい。

 なのに父は気になるようで、

「幾也くんはまだ、店に顔を出してくれんのか」

「喧嘩はよくないぞ。おまえから譲歩したらどうだ」

 などと毎度ちくちく言ってくる。

 ─譲歩もなにも、その譲るもんの心あたりがないんだよ。

 ひとりごちて、司はコンロの火を止めた。梅干煮の鍋から煮汁をひとすくいして味を見る。うん、美味い。

 さて次は豚汁の仕込みだ。

 まずは牛蒡である。風味が失せるから本来なら剝きたくないのだが、九月の牛蒡は旬とは言えない。ぶ厚い皮をピーラーで軽く剝き、ささがきにし、五分ほど水にさらしておく。

 その間にほかの具材を刻もう。この時季の白菜は高いから、キャベツで代用だ。キャベツは一口大、大根と人参は銀杏切りにする。

 長葱も高くて手が出ないため、玉葱を使うことにした。あまり大量に入れると甘くなるので、量を加減しつつ半月切りにしていく。

『やぎら食堂』の定番メニューは、なんといってもこの豚汁である。一年を通して司は毎日必ず豚汁を仕込む。

 ほかの定番といえばハンバーグ、竜田揚げ、豚の生姜焼き、ポテトサラダ、焼きそば、出汁巻き玉子くらいのものだ。あとは客のリクエストを聞きつつ、旬の安い食材で臨機応変にこしらえていく。

 ふと、入口の引き戸がわずかに開いた。

 まだ開店時刻ではない。引き戸には『準備中』の札も下げてある。しかし薄く戸を開けて、誰かが半分顔を覗かせている。

 司は目をすがめた。十歳前後の女児であった。

 はじめて見る顔だ。ベリーショートと言えるほど短く切った髪と、色褪せたピンクのワンピースが不釣り合いだった。服の中で瘦せた体が泳いでいる。どう見ても、誰かのお下がりだろう。

 豚汁の具材をさっと炒め合わせながら、

「おい、名前は?」

 と司は訊いた。

「……ココナ」

「どんな漢字かわかるか?」

「心に、えーと、菜……は、こういう字」

 空中に指で字を書いてみせる。司はうなずいた。

「よし心菜。うちは、ガキならなんでも百円だ。もしくは労働で支払ってくれてもいい。五十枚の皿を割らずに洗えるならカツ丼、三十枚なら親子丼、二十枚なら玉子丼だ。さて、どうしたい?」

「……何枚洗えるか、なの? 二十分洗えばいい、って聞いたのに」

「親父の代までは時間制だった。でもそれだと、サボるやつばっかだからな」

 司は笑った。鍋に鰹出汁と水を加え、コンロを強火にする。

「まあ入れ。戸もぴったり閉めろよ、冷房がもったいない。─店のことは、誰から聞いたんだ?」

「えっと、『千扇』の番頭さん……。あと和歌乃ちゃん」

 なるほど、と司は納得した。温泉旅館『千扇』の番頭のしなびた顔と、和歌乃の大きな猫目がつづけて脳裏に浮かぶ。

「和歌乃ならうちの大常連だぞ。仲いいのか」

「まあまあ」

「ふーん。で、皿は何枚洗えそうだ?」

「三十枚」

 心菜は即答してから、

「あ……でも、玉子がいい。玉子丼」おずおずと付けくわえた。

「そうか。三十枚洗えるけど玉子丼、な」

 司は復唱し、豚汁の具材を順に鍋へ放りこんだ。

「ちなみに鶏肉は駄目か? 鶏の唐揚げとか、チキンナゲットとか食えないか」

「え、……ううん、好き」

「じゃあ初回サービスで鶏肉も入れてやろう。鶏肉入りの玉子丼だ。代わりにおまえは三十枚の皿洗いをする。これでいいな?」

「うん。いい」

 心菜が大きくうなずいた。強張っていた頰が、ほっとしたようにようやく緩む。

 この手のやりとりは、この店ではよくあることだ。

『やぎら食堂』をはじめて訪れる子どもの四割は「親子丼」という単語を知らない。なぜなら親子丼を作って食卓に出す親がおらず、本を読まないから語彙がなく、学校にも行っていないせいだ。

 ちょっと前までは、テレビドラマやアニメが子どもたちに一般家庭の風景を教えてくれた。しかし最近はスマートフォンでの動画鑑賞が主流で、子どもたちがインプットできる知識はますます狭まっている。

 だがそれを、司は子どもたちに指摘する気はない。「いまどきの子どもは」とも言いたくないし、無知を笑いたくもない。

 教えられることなく、また学ぶ機会もないなら、知識は乏しくて当然だ。司自身、知らない単語やことわざはいくらだってある。いい歳をした大人だって、知らないことを「知らない」と言うのは勇気がいる。

 子どもならばなおさらだ。彼らはプライドの高い生き物だ。「オヤコドンってなに?」と無知を認め、「二十枚しか洗えない」と実力以下の卑下をするくらいなら、

「三十枚洗えるよ! でも玉子丼が好きなの」

 と強がってみせる。それが子どもというものだ。

「おい心菜、座れ。まずは食うのが先だ」

 司はカウンター席を顎で指した。心菜がおとなしく椅子を引いて座る。

「十分待てるか? もうちょっとで豚汁ができる。玉子丼はそのあとだ」

「うん」

 玉杓子に取った味噌を、司はゆっくりと煮汁で溶きのばした。味噌のいい香りが店じゅうに広がっていく。

 心菜の喉が、ごくりと上下した。

(続きは本誌でお楽しみください。)

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