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物語を愛するすべてのひとたちへ-小説すばる

2021年5月号 小説すばる

【新連載】
あさのあつこ
「プレデター」

 第一章 ラダンの壺

 気を失っていた? それとも眠っていた?

 よくわからない。気を失うか、眠る前にどこにいたのか、今、どこにいるのかも思い浮かばない。頭の中に白い霧みたいなものが広がっている。霧と違うのは、こいつがべとべとと纏わりついてくるところだ。

 べとべと、べとべと。

 気持ち悪い。身動きできなくなりそうだ。息さえできなく……。

 目の前に黒い棒が見えた。一本じゃない。並んでいる、何本も。一、二、三、四……。

 駄目だ数えられない。

 白い霧が邪魔をする。数えたり考えたり思い出すことを妨げる。

 これがアタマガボヤケルってことなのだろうか。昔、誰かが言っていた。「このごろ頭がぼやけて、どうにもならんよ」って。笑うような泣くような、明るいのに悲しげな声だった。

 あれは、誰? ここは、どこ? これから、どうなる……の。

 

 思いの外、明るい。そして、広い。

 部屋に一歩踏み込んだとき、まずはその明るさと広さに驚いた。驚いた拍子に肩からずり落ちたファーを慌てて元に戻す。

 光源はダウンライトだけらしく、一般的な部屋の明度には及ばない。でも決して薄暗くはなかった。薄青色の絨毯が敷かれた部屋は壁も天井も同系色で統一され、淡い光に照らされてぼんやりと発光しているようだ。地下室だから暗いと決めつけていたせいか、薄青く発光する部屋を明るく美しいと感じる。

 広さもかなりのものだ。ホテルの小ホールぐらいはあるだろうか。そこに白いクロスの掛かった丸テーブルと二脚ずつのイスが点々と置かれていた。ざっと目測するとテーブルの間は六、七メートルは離れているようだ。どのテーブルもダウンライトの明かりから微妙に離れ、薄闇に隠れていた。しかも座っている人々は思い思いのベネチアンマスクを付けている。ほぼ、八割の席が埋まっているようだが、人がいるという以外は確かめようがない。イスは二脚とも前方を向き、横に並んでいる。二人組で座っている者も一人の者もいた。二人以上のテーブルはない。三人目の席はないということか。前方には小さなステージがあり、スポットライトが当たってはいるが、人の姿も道具も見当たらなかった。

 なんてベタな。零れそうなため息を何とか抑える。

 品よく、そこそこの豪華風を装い、あちこちに闇と光のコントラストを作ることで隠し味程度のいかがわしさを生み出し、正体を晒さずにすむという安心感を醸す。昔からこの手の集いは、よく似た設えの中で催されてきた……のだろう、たぶん。

 背徳感、退屈凌ぎ、満たされる欲望、あるいは金銭の利益。何を求めてベネチアンマスクの人々は闇に潜んでいるのか。

 頭を左右に振る。また、ファーがずれた。

 見据えるのは現実だ。感情や感傷に沈むときではない。

 履きなれていないピンヒールをさも履きなれているかのように、歩く。足音は完璧に絨毯に吸収されていった。

 案内された席につくと、すぐにシャンパンが運ばれてきた。

「趣味が悪いな」

 傍らの男が言った。

「シャンパンを飲みながら、人間を競り落とす。このオークション、趣味が悪過ぎだな」

 聞こえない振りをする。どうせ、ただの独り言だ。

「それに、いかにもというこの作り、少し嗤える」

 眉を寄せ、唇の前に指を立てる。余計なことをしゃべるなと身振りで示したつもりだった。

 相手が軽く眉を上げた。それが合図だったわけもないが、唐突に、何の前触れもなく全ての明かりが消えた。室内はすとんと闇に落ちる。

 ざわり、ざわっ。

 微かに空気が騒めいた。一瞬の後、騒めきの気配は砂地に染み込む水に似て消え去る。どこかでグラスの砕けた音がした。

 スポットライトが再び舞台に当たる。闇が明かりに切り取られる。

「さあ」と男は吐息を漏らし、ゆっくりとシャンパンを飲み干した。

「ラダンの壺が開くぞ」

 

 

 ラダンの壺、どうしてそれを?

 呟く。前半は口の中で、後の半分は胸の内で。

「聞いたこと、ないのか」と問われ、「今、初めて耳にしました」と答える。答えてから、もう少し間を置くべきだったかと悔やむ。考え込んでいる風を装うための一秒か二秒が必要だったかもしれない。いや、必要だった。今さら遅いが。

 舌の先で後悔を潰す。苦くも甘くもなかった。

「聞いたこと、ないのか」と問うたのは、一応、上司だ。会社のオーナーでもある。会社といっても、オーナーを入れて正社員六人の零細出版社に過ぎないが。オーナーは四十過ぎの男で、去年の健康診断で筋力、体力、骨密度のどれも二十代後半だと診断された。この一年、それが何よりの自慢らしく、贅肉のない身体をさりげなく、しかし、ことあるごとに見せつけようとする。今も伸縮素材のTシャツの上に細身のジャケットを羽織っている。肥川太志という名前さえ「肥に太って二文字も入っている割に、余計な肉が付いてないだろう。もちろん内臓も脂肪とは無縁だぞ。見せられないのが残念だ」などと、冗談にもならない徒口に使っている。

 四十手前でホルモンバランスとコレステロール値の悪化を指摘され身体能力の衰えを日々痛感している身としても、職位が下という立場からしても、へらへら笑って受け流すという無難な対処をするしかなかった。

 しかし、今は笑えない。へらへらどころか、唇の端さえ持ち上がらなかった。

 嫌な予感がする。胸が騒ぐ。妙に気分が波立つ。いい予感はめったに当たらないが、嫌な予感はなかなか外れない。

 ラダンの壺。その言葉をなぜ、上司は知っている。なぜ、口にした。

「おかず」

 と、肥川が呼んだ。声音がいつもより柔らかい。それも嫌だ。寒気がする。

「和です。明海和。わざと〝お〟を付けて呼ばないでください」

「なぜだ」

「不快だからです」

 はーん、そうかと肥川は横目で和を見た。それから、声音と同じように柔らかく笑んだ。

「察するに、明海和さんは幼少のころから名前に〝お〟を付けて呼ばれ、からかわれていた。『おーい、おかず、弁当のおかずは何だ』みたいな。それがトラウマになって、今に至る。そういうことだな。どうだ?」

 わざわざ問うようなことか。しかも、したり顔で。

「トラウマにもストレスにもなっていません。確かに、そんなからかい方をしてくるアホで馬鹿で単純なやつらが何人かいましたけれど、相手にしませんでした」

「アホで馬鹿で単純なやつらってのは男か」

「男です」

「それで、いまだに男を相手にしないわけか」

「それは、わたしが独身でいる理由をしゃべれと仰ってるのですか。だとしたら」

 机に肘をついている男を見下ろす。伊達眼鏡の奥にある目を見据える。

「立派なセクハラです。言い逃れできませんよ」

「明海、おまえは何の仕事をしている」

「表向きは二流雑誌の記者です」

「裏があるのか」

「ありません。給料が安いので副業したいとは思っています」

「一流情報誌のスーパーデスクアドバイザーとしては『無理だ』としか言いようがないな。そして、一流情報誌の記者たる者がセクハラを修飾するのに立派ななんて形容動詞を使うなと、指摘しなければ」

「肥川デスク」

 机を両手で叩く。そんなに力を入れたつもりはなかったが、かなりの音が響いた。とっさに辺りを見回す。

 くすんだ灰色の壁、壁よりやや明るい色合いの天井、壁に嵌め込まれた窓、窓際に設けられたカウンター、その前に座りパソコン画面に見入っている者が一人、パソコン画面に見入りときどきため息を吐いている者が二人、耳孔挿入型携帯電話で話をしているらしい者が一人、微かな音をさせて移動している清掃用人型ロボットが一台。

 室内は色彩に乏しく、静かだった。それにも拘らず、和の立てた物音への反応は全くない。

 まあ、いつものことだ。いつものように我関せず、何の関心もない風の白けた、そのくせ淀んだ重い雰囲気が漂っている。ただ、この雰囲気はちょっとした刺激で一変するのだ。誰かの一言、一本の電話やメール、最新のニュース、突然の報せ、そういう諸々で様相を変えてしまう。そういう場所だった。

 一流とはお世辞にも言い難く、二流か、三流まで落ちるのかはわからないが、ここがweb情報誌〝スツール〟の編集部兼営業部であることは事実だ。

 和は視線を目の前の男に戻し、顎を上げた。

「わたし、仕事中なんです。ありがたいご指導は後日、お願いいたします」

 おざなりに頭を下げた後、壁の時計に目をやる。デジタルのオレンジ色の文字は、2032・10・10 15:00から15:01に変わった。

「もう三時を過ぎちゃった」と呟き、頭を左右に振る。

 もういいかげんに解放してください、というパフォーマンスのつもりだった。

 ここで切り上げたい。

 肥川がなぜラダンの壺を知っているのか気にはなったし、聞き出したくはあったがともかく時間がない。約束の時間に一分でも遅れれば、相手は消えてしまう。千載一遇のチャンスを逃すことになりかねない。

 肥川がふうっと息を吐いた。肉体と精神の安定のために、よりよい呼吸法を探求しているとかで、妙に長々と吐き出し続ける。

 約束の時間まで三十分を切った。荷物をまとめ、指定場所を確認し、タクシーを拾う。ぎりぎりの時間だ。余裕はない。「じゃ、これで」と足を引いたとき、肥川が身を乗り出した。

「ラダンの壺、ほんとに知らないのか」

「知りません。骨董品か何かですか」

 飽くまでとぼける。とはいえ、本当に骨董品かもしれないとの思案が頭の一隅を掠めはした。その程度にしか知らない。つまり、ほとんど何も知ってはいないのだ。だから上司に噓をついているわけじゃないよと、自分をいなす気にはならなかったしその必要も感じない。

 次号で掘り出し物の家具や器の特集でも組むつもりなのか。そのための取材なら他に回して欲しい。〝スツール〟は正規の記者は自分を含め数人しかいないが、フリーのスタッフをかなりの数、抱えているはずだ等々を、和は早口で告げた。

「骨董品じゃない」

「じゃ、何です」

「おれにもわからん」

 顎を引く。時間を確かめる。

 この人は仕事がぎゅうぎゅうに詰まって、多忙を極める部下をからかうのが趣味だったのか。あるいは、新手のハラスメントだろうか。どっちにしても、ろくでもない。

 趣味でもハラスメントでもないとわかっていたが、苛立ちと腹立ちは本物だ。ろくでもないと感じるのも本物だ。

 非難と怒りを滲ませて、肥川を睨む。和に睨まれて怯むような相手ではないと十分に承知している。それでも、感情のままに眼を怒らせてみる。

 肥川が横を向く。和の視線から逃れるためではなく、くしゃみをするためだ。他人と向かい合っていてくしゃみや咳が出そうになったら、顔を逸らせる。それくらいの常識は具えていたらしい。

「おまえの獲物にかかわっているかもしれん」

 肥川が、ぐすりと洟をすすりあげる。

「は?」

「おまえが、今、追っかけている獲物だよ。子ども狩と人身売買」

 息が詰まった。口の中の唾を無理やり吞み込む。喉の奥でくぐもった音がした。

(続きは本誌でお楽しみください。)

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