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物語を愛するすべてのひとたちへ-小説すばる

2021年3月号 小説すばる

【新連載】
佐藤雫
「さざなみの彼方」

 茶々には、何が起きているのかわからなかった。

 城内を駆け回る甲冑姿の侍たちの足音や怒号が重なる。血と泥とはじける鉄砲玉の火薬の匂いとともに、櫓や城壁の燃え上がる熱気が城の奥まで漂ってくる。

「織田の軍勢が来ます! 今すぐ女子たちは逃げよと、長政様の命にございます!」

 茶々たちのいる部屋に駆け込んだ侍の声に、女人の悲鳴が重なる。周りにいる侍女たちが恐怖に震えて身を寄せ合い、茶々も傍らにいる母、市の腕を摑もうとした。しかし、市の腕には生まれたばかりの妹、江がいて、袖には茶々と一つ違いの妹の初が泣きながらしがみついている。

 茶々は伸ばしかけた手の行き場を失ったまま、母の横顔を見上げた。

 市の頰は、揺れる炎の色が映るくらい白い。その虚ろな横顔があまりに美しすぎて、茶々は手先が冷たくなっていく……。

 母は、兄の織田信長が夫の浅井長政を殺しにくる光景を、瞬きもせずに見ているのだ。

 市たちを一刻も早く城外へ逃がそうと、侍の声がせかす。

「さあ! 早くお逃げください!」

 市は一言も声を発さずに初と江を連れて、導く侍の後をついて行った。

「茶々様、はよう!」

 茶々も乳母に手を取られて逃げる。傍らにいる同い年の乳母子、弥十郎を見ると、不安を押し隠すように口元を引き締めている。

「父上は?」

 父の姿が見えないことに気づいた茶々に、弥十郎は固い表情のまま「わからない」というように首を振った。乳母は先を行く市たちの背中を追いかけながら、切迫した口調で言った。

「長政様は小谷の城主。最後までこの城に残ります」

 茶々は耳を疑った。

「父上を、残して逃げるの?」

 茶々の脳裏に浮かぶのは、父、長政のやわらかな笑みだった。ふくよかで大柄な父は茶々の姿を見ると、いつもはにかむように笑う。近江国小谷城主の威厳が消えるその一瞬のやわらかさが、茶々は大好きだった。

「父上もご一緒でないと」

 茶々の訴えに構うことなく、乳母は茶々を半ば引きずるようにして部屋を出た。その気迫に茶々は抗うことができない。

 茶々たちが奥御殿を出て、裏の抜け道まで来た時だった。遠くで轟音がして、驚いてその方を見やると、祖父の隠居所の小丸が燃え上がっていた。

「おじい様が……」

 祖父はきっと、あの炎の中にいるはずだ。

 祖父は、ことあるごとに市のことを「織田の娘が」と苦々しく言い、茶々も幼いながらに母は敵である家に嫁いだのだということはわかっていた。けれど、こんな日が来るとは夢にも思っていなかった。父と母はいつも仲睦まじく、二人が言い争う姿など一度も見たことがなかったのだから。

 そんな祖父だって、こっそり小丸を訪ねると「おう、茶々か」と手招いて膝に乗せ、「母上には内緒だぞ」と懐から菓子を取り出して与えてくれたものだった。

 あの燃える小丸の中で、祖父が生きているとは思えなかった。そうだとしたら、きっと父も、はにかむような笑顔を押し殺して、この城のどこかで独り……。

 そう思った時、茶々は乳母の手を振り払って駆け出していた。

「茶々様!」

 乳母が悲鳴を上げているが、構わなかった。

(父上が、死んでしまう!)

 燃え上がる城よりも、飛び交う鉄砲玉の爆音よりも、殺気立つ兵たちの叫喚よりも、茶々はここで父が死ぬという事実の方がずっと恐ろしかった。その父を置いて逃げる侍女や侍、そして母が、茶々には許せなかった。無我夢中で来た道を戻り、城内を駆け抜けた。

「父上! どこにいるのですか! 父上っ」

 父を求めて叫ぶ茶々の袖を、ぐっと引く者がいた。乳母が連れ戻しに来たのかと振り返ると、そこにいたのは、荒い息を吐きながら茶々を一心に見つめる弥十郎だった。

「茶々様!」

 息を切らしながら名を呼ぶ弥十郎を、茶々は振り払った。

「私は、父上を残して逃げたくない!」

 再び走り出そうとする茶々の手を、弥十郎が強く握った。連れ戻されるのかと思って茶々は足を踏ん張って身を固くした。だが、弥十郎は茶々の手を握ったまま、本丸の石垣を指し示した。

「あそこに上がりましょう!」

 その言葉に、茶々は泣きそうになった。

 いつも二人はこの石垣の上から見える湖……近江の海を眺め、登城する家臣や客人の姿を見張りの者より先に見つけては楽しんでいた。そこからなら、父の姿をきっと見つけられる、と弥十郎は言っているのだ。茶々は繫いだ手のぬくもりに救われる思いで、その手を握り返した。

 そのまま二人は石段を駆け上がり、石垣の上に並んで立った。だが、茶々は、眼下の光景を見て、息をのんだ。

 二人で眺めていた賑やかな城や湖畔の風光は、どこにもなかった。

 田畑は無残に焼き尽くされ、小谷城の対角にある虎御前山には、織田の家紋が印された旗が林立し、山を染め上げていた。そして、そこから小谷城に向けて、敵兵が途切れぬ群れを成して斜面をよじ登っている。それはまるで、地面に落ちた握り飯に蟻がたかるかのようだった。いたるところに浅井の紺青の旗が折れて転がり、矢が刺さったまま動かぬ兵も少なくない。生き残った兵たちが命懸けで鉄砲や矢を射かけているが、もはやその数は敵に到底及ばないことが茶々にもわかった。

 茫然としていると、弥十郎が「あぶない!」と叫んで茶々の頭を抱えて屈んだ。その瞬間、二人の頭上を流れ矢が掠めた。気づくのがあと少し遅ければ、茶々の体は射貫かれていただろう。茶々と弥十郎は転がるようにして城壁の中に逃げ込んだ。

「茶々様、あれを!」

 茶々が壁にもたれて震える息を整えていると、弥十郎が城の中を指した。その方を見ると、見慣れた重臣の後ろ姿が目に入った。そこは、城主長政との謁見や宴席を催す大広間だった。畏まって座す重臣の姿を見て、きっとそこに父がいるに違いないと、茶々はすぐさま大広間に駆け入った。

 しかし、薄暗い大広間に、長政の姿は見えない。重臣も茶々に声を掛けてこなかった。ふと、薄闇の中に、今まで嗅いだことのない臭気が漂っていることに気づいた。その時、弥十郎が上ずった声を出した。

「ちゃ、茶々様……」

 弥十郎の視線を追いかけて、足元に座す重臣を見下ろした。それが何であるかわかった瞬間、茶々は悲鳴を上げて弥十郎に飛びついた。弥十郎も茶々を抱き止めながら、顔をひきつらせる。

 それは腹を搔っ切った骸だった。

 青黒い顔に、零れ落ちんばかりに見開かれた目が浮かび上がっている。臭いと思ったのは、切り裂かれた腹から溢れ出た、腸だった。茶々はこらえきれず弥十郎の腕の中で嘔吐した。

「茶々様!」

 弥十郎は茶々の吐物を浴びても厭うどころか、抱く腕の力がさらに強くなった。

 茶々は弥十郎の腕の中で、顔を上げた。真っ直ぐ茶々を見つめる弥十郎は、泣くまいとする唇が震えている。

「ここを、出ましょう」

 弥十郎に促され、一歩踏み出したその足元がぬるりと滑った。視線を落とした二人はもう、悲鳴を上げることすらできなかった。二人の足元は黒く濡れていて、暗闇に慣れた目で恐る恐る周りを見やると、落城を覚悟した家臣たちが、あちらでもこちらでも腹や喉に刃を突き立て、息絶えていた。

 茶々は弥十郎と身を寄せ合いながら立ち尽くした。

「茶々!」

 その時、名を呼ぶ強い声がした。はっとして声の方を見た時には、弥十郎もろとも大きな腕に包み込まれていた。茶々はその腕の中で、ようやっと声を出せた。

「ちちうえ……」

 顔を上げると、長政が目を見開いて茶々を見つめていた。

「なぜ、茶々がまだここに……」

「父上を、探しに」

 嗚咽交じりの答えに、長政は「なんてことを……」と言ったきり、それ以上は言葉にならず、ただただ茶々を抱き寄せた。

「長政様」

 長政の傍らで若い家臣の一人が、険しい表情で声を掛ける。長政は小さく頷き返すと、しゃがんで茶々と目線を合わせた。唇の端にこびりついたままの嘔吐の跡を、長政は鎧直垂の袖でそっと拭ってくれた。

「茶々、これが、そなたが見る最後の小谷の姿だ」

「…………」

「もう、この城は落ちる。だから、今すぐここから逃げなさい」

「ならば、父上も」

「それは、できない」

「どうして?」

「私は、この城の主だから。この城を守るために戦い死んだ者たちのためにも、田畑を焼かれた民たちのためにも、逃げるわけにはいかないのだ」

 茶々は長政の腕にしがみついた。

「いやです。私は父上と離れるなんていやです!」

 この優しい父を、こんなところに置いて逃げたくはなかった。

 泣きじゃくる茶々に、長政は困ったような表情をすると、「ならば、こちらにおいで」と茶々の体を抱き上げた。

 長政は茶々を抱いたまま大広間から外へ出て、曲輪の奥へ進んで行く。その後ろを、弥十郎も泣き顔でついてくる。そのまま茶々は、城の端にある馬場に連れて行かれた。

 茶々は父に抱かれながら、その静謐な景色を見た。

 それは、木立の隙間から望む、近江の海だった。戦の喧騒は遠く、先程までの凄惨な光景がまるでなかったかのような風が、湖城に吹き寄せる。

 長政は茶々を抱いたまま、いつもの穏やかな声で言った。

「茶々、そなたに教えておきたいことがある」

「……?」

「あれを、ご覧」

 茶々が父の指す方を見やると、遠く、湖にぽっかりと浮かぶ小島が見えた。

「あれは、竹生島。我々浅井家をお守りくださる浅井姫様の島だ」

「あざいひめさま?」

 茶々がたどたどしく訊き返して首を傾げると、長政はその仕草を愛おしそうに見つめながら頷いた。

「浅井姫様は伊吹山の神と争って討たれた時、御首をあの島に変えて、この小谷を見守る女神様になったのだよ」

 長政は頰を寄せて茶々の匂いを吸い込むと、その吐息とともに声を震わせた。

「けれど、私の大切な浅井姫様には、生きて小谷のことを想い続けてほしい。……だから、そなたはここにいてはいけないのだ」

「…………」

「茶々、わかったね?」

 父の言葉に、茶々はいやだと言えなかった。この優しい父を、これ以上困らせることは、茶々にはできなかった。

 こくり、と小さく頷くと、長政はやわらかな笑みを浮かべた。この笑顔をもう見ることができないのだと思うと、茶々はこらえきれなくなって長政の首に腕をまわした。顔を埋めたまま泣いている茶々の背を、長政は大きな掌で何度も撫でた。

「茶々、どうかこの景色はいつまでも忘れないでいてほしい。それが、父の願いだ」

 茶々は父の腕の中で顔を上げた。遥か遠く、さざなみの彼方に浮かぶ竹生島が滲んで見える。幾度目を瞬いても滲んでしまうのは、この景色を目に焼きつけようとするほどに涙が溢れて止まらないからだ。

 長政は茶々を抱き下ろすと、傍らにいた弥十郎を呼んだ。

「弥十郎」

 長政は弥十郎に向かって茶々を押しやった。そうして、祈るような声で言った。

「これからは、おぬしが茶々を守るのだ」

 弥十郎は長政の言葉にしっかりと頷く。長政は付き従う家臣の一人に、茶々と弥十郎を麓の寺に逃れた市たちのもとへ送り届けるよう命じた。

 茶々の手を、弥十郎の手が握った。

「茶々様、いきましょう」

 弥十郎の手のぬくもりに導かれるように、茶々は歩き始めた。

(続きは本誌でお楽しみください。)

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