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物語を愛するすべてのひとたちへ-小説すばる

2021年2月号 小説すばる

【新連載】
松井今朝子
「愚者の階梯」

(一)

 麴町の大瀧邸を初めて訪れた日は、冠木門をくぐると、まず、みごとな白梅が目に飛び込んだ。はるか昔にこの土地で根づいた風趣ある老い木の姿に見とれて、桜木治郎は昭和十年の慌ただしい時をしばし忘れた。

 その後に起きる一連の異常な事件に振りまわされるとは、勿論つゆほども知らずに。

 下見板に挟まれた門から玄関までよほどの距離があるのは、ここがかつて武家屋敷だった名残だろう。治郎は以前の住まいを知るだけに、改めて大瀧社長の尽力が偲ばれた。何せ治郎が若い時分はまだわが家の近所で、借家住まいをしていた人なのだから。もっとも当時すでに東京の劇場を大小併せていくつか手に入れ、幾多の俳優や芸人を傘下に置いた関西出身の興行師として知られた人物だったのだが。

 ただし大瀧は自身が興行師と呼ばれるのを嫌った。関西ではそれが縁日の境内に見世物小屋を出す類の謂いで、芝居の経営者は「お仕打」と呼ぶのだそうである。近年流行のモダン語なら、さしずめ稀代のプロデューサーとでもいうのだろうか。

 築地二丁目にあった大瀧の借家は当時住まいを兼ねた亀鶴興行の事務所だったから、徳川の世から続いた歌舞伎狂言作者桜木一門の総帥である治郎の親父は、しばしばそこを訪れて喧嘩腰で談判をしたものだ。

「贅六に木挽座を乗っ取られちゃ、江戸っ子の名折れだぜ」

 というのが親父の口癖で、当初は大瀧を毛嫌いし、亀鶴の事務所を「贅六の巣窟」と罵っていた。

 上方者を贅六と呼んで卑しめるのは、江戸っ子が常にやつらの抜け目のなさにしてやられて来たせいだと親父はいって、東京の劇場が次々と亀鶴の軍門に降るのを大いに嘆いた。ついに木挽座の経営まで亀鶴が手がけだした時点で潔く芝居から身を退いたが、その頃はもう大瀧に対する評価もだいぶ変わっていて、

「あれだけ芝居好きの男の手に落ちたなら、木挽座も本望だろうよ」

 と話したのを想い出す。

 当時まだ三十代だった大瀧は、万延元年生まれの親父から見たら若僧もいいとこだったが、若僧にはそれなりの知識や智恵があると認めざるを得なかった。売り出し中の若手役者の稽古に付き合っていた大瀧が、自ら舞台に立ってスポットライトの位置を細かく指定する姿に「わしらにゃ見当もつかねえことさ」と、あっさりシャッポを脱いだのである。

 治郎のちょうどひとまわり年上だからもはや還暦間近い大瀧は、今や歌舞伎役者の大半と東京の主要劇場をほぼ手中に収めている。芝居ばかりか映画にも早くから目をつけて亀鶴キネマを興し、亀鶴興行と併せて来年にも新たに亀鶴株式会社として発足するとのことだ。

 治郎は幼い頃に浅草の花屋敷にあったキネトスコープという小さな箱形の幻灯機を覗き込んで、拳銃をバンバンと撃ちながら走り回る西洋人の姿にびっくりした記憶がある。同じ浅草のシネマトグラフ館では、等身大の西洋人が馬にまたがって煉瓦塀をかるがる跳び越える様を見て感心したが、それらが後に活動写真と呼ばれるようになって、日本中で大流行するとは想いも寄らなかった。

 木挽座を始め数々の大劇場を活動写真の公開場に提供していた亀鶴興行は、大正の大震災以前から亀鶴キネマを興して製作にも乗りだした。活動写真は無声の時代から大人気だったものの、近年は発声映画が登場し、芝居と人気の鎬を削るまでになった。入場料が芝居よりうんと安いのに、当たったら芝居の稼ぎを上まわるのだという。

 つまりは芝居にしろ映画にしろ先見の明があった大瀧は、今や実業界でも一目を置かれる存在ながら、劇場の売店の手伝いから出発したという立志伝中の人物はいまだに現場を手放す気が毛頭なく、公演の企画立案ばかりか演目の選定や個々の配役を練るのが至福の時なのだとか。

 ふだん早稲田の文科で教鞭を執る治郎がちょくちょく大瀧の相談に与るのは親父からの縁だろうし、話をすれば彼がいかに毎月の公演に真剣に取り組んで、こと芝居に関しては些細な点にも至誠を尽くす人物であるのかを知らされた。

 大瀧はひとまわり年下の治郎を「桜木センセ」と呼んでいる。同じく先生と呼ばれる小説家や劇作家は掃いて捨てるほどいるし、知識人を手玉に取ってこき使うには便利至極な呼びかけだとしても、関西訛りの「センセ」という響きには独特の愛嬌があって悪い気にさせなかった。今日もこの洋風の応接間に通されて、

「桜木センセ、お待ちしてました。どうぞわしを助けとおくれやす」

 と深く頭を下げられたら何にせよ断るのは難しく、治郎はひとまず黙って曇りのない眼鏡越しに相手の姿をしげしげと見ている。

 上背はそうあるほうでもないが肩幅が広く、フラノの背広を通しても意外にがっちりした体格が見て取れた。袖口から覗くのは働き者らしい大きな手で、よく使い込んであるのがわかる。生え際が後退して額が広く、薄い眉と眦が下がった眼はいかにも柔和な好々爺然とした風貌を形成し、かつて凄まじい辣腕を振るって東京の興行界を席巻した人物にはとても見えない。

「とうとう決まりました。どえらいことでっせ」

 というややうわずった声は大瀧を年齢より若く見せ、

「まず話をお聞かせ願えませんか」

 逆に治郎を無礼なほど落ち着いたいい方にさせた。

「木挽座に満州国の皇帝陛下をお迎えすることになりましたんや。満州国は三年前に出来たばっかりやけど、その前にも清朝最後のれっきとした皇帝陛下であらせられたお方ですよって、やっぱりたいしたもんでっせ」

 清朝最後の宣統帝、愛新覚羅溥儀は辛亥革命で紫禁城を逐われて日本公使館に亡命し、日本の租界地を転々としたのち関東軍に担がれて三年前に建国された満州国の執政に就任。去年ようやく皇位に復した人物である。

 たしかに彼を迎えるのは木挽座にとって大変なことに違いない。栄誉がどうこうよりも、まず警備や気遣いが大変だろうと治郎は思う。

「四月の花見時に来朝されるんやそうで、東京市が奉迎式を木挽座ですることに決めたんですわ。奉迎式は形だけで、要は満州国の皇帝陛下に大日本帝国の歌舞伎芝居をご覧に入れるというわけでして」

 大瀧は実に誇らしげな顔をしていた。木挽座にはこれまでにも英国のグロスター公など海外の来賓があったものの、今度は盟邦の皇帝を迎えるというのだから感激もひとしおなのであろう。

「それで今日は、演目のご相談というわけですね」

 相手は黙って満足そうな笑みを浮かべた。たぶんもう大方の肚づもりがあって、一応こちらの意見も聞いてみたい程度だろうから、治郎は比較的無難な口火を切った。

「やはり『勧進帳』は外せんでしょうなあ」

「アハハ、センセもそうお思いでっか。これでもう、一本は決まりや」

 歌舞伎十八番の『勧進帳』は能の『安宅』を換骨奪胎した人気曲である。権力者の兄に疎まれて身の置きどころがなくなった源義経の逃避行を支える弁慶の苦心と、それを阻止する立場にある関守・富樫の温情が伝わって、最後の最後まで気が抜けないスリリングな展開が魅力だ。それを綴った長唄の名曲もさることながら、弁慶の力感溢れる数々の見得、飛び六方の退場に至るまで、実にわかりやすい見せ場がふんだんに盛り込まれた名作中の名作といえる。

 治郎がこの演目を皇帝の観覧にふさわしいとする理由は、ただそれだけではなかった。

「何しろ明治の御代に天覧を賜った演目ですからねえ」

 明治二十年のこれも四月に、井上馨外務大臣の私邸において催された天覧劇で最初に上演された演目であり、弁慶を演じた九代目市川團十郎が緊張のあまり前日から飯も喉を通らなかったという話を、治郎は親父からよく聞かされていた。

「この度も今上陛下様のご天覧を賜ったら、わしゃもうこの世に思い残すことはないんですけどなあ。残念ながら木挽座にはお出ましにならんそうですわ」

 と、大瀧の幅広な肩が幾分かすぼんで見えた。

 治郎はまだ生まれていない遠い過去の話だけに、天覧劇が歌舞伎にとってさほどの重大事だったような意識は薄いが、あれは単に箔が付いたというより歌舞伎の値打ちを根本から変えたのだと親父は話していた。「何せ河原者と世間にバカにされてた連中が、天子様の御前に出られたんだから、そりゃてえしたことだったのさ」と。

 従って再度の天覧を望む大瀧の気持ちもわからないではないが、人が大勢集まる劇場での天覧劇となれば警備も大変だし、まかり間違えば多大な犠牲を払う恐れもある。まずもって満州国皇帝を無事に送迎するだけでも相当に入念な準備が必要だろうと思うが、それは治郎が請け負う話ではないからして、

「その日は『勧進帳』の他にも何かお考えですか?」

 と自分から相手に水を向けた。

(続きは本誌でお楽しみください。)

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