2021年1月号 小説すばる
【新連載】
佐々木譲
「偽装同盟」
1
強い南風が吹いた日だった。
この年の最初の南風であったろう。気温はそれまでよりも高くなり、午後には風も弱まった。でもまだ陰暦の春分も前だ。確実に寒が戻ってくる。午後の穏やかさは、空の気まぐれに過ぎないと、誰もが知っている。
その日、和暦では大正六年の三月十一日、同盟国ロシアの暦では一九一七年二月二十六日、日曜である。
午後の七時を少し過ぎた時刻だ。特務巡査・新堂裕作の乗るロシア製乗用車プチロフは、クロパトキン通りを北進していた。警視庁本部刑事課捜査係の新堂は、この数日、連続強盗事件の捜査で、所轄の愛宕警察署刑事係の応援に当たっていた。
つい十五分ほど前、犯人らしき男の居場所について、愛宕署に通報の電話があった。内幸町のあいまい宿に潜んでいるという。新堂は愛宕署のふたりの特務巡査と共に、その宿へ急行しているところだった。車を運転しているのは、若い吉屋で、後部席にいるのは巡査部長の笠木という男だった。
車両は、日比谷公園の南端を通る連隊通りとの交差点に達した。この交差点の北東側に建つ洋館は、いまは駐屯ロシア軍の下士官クラブとなっているが、かつての華族会館だ。被疑者が潜んでいるというあいまい宿は、この建物の裏手の中通りにあるという。
交差点を右折したとき、前方が異様だった。通りの左手に幌付きのトラックが何台も並んでいて、武装したロシア兵たちが通りをふさいでいる。
真正面にいる兵士が、両手を大きく広げ、左右に振った。
運転している若い巡査、吉屋が車に制動をかけた。プチロフは、連隊通りの右側車線で停まった。手を振った兵士が車に近づいてきて、鋭い調子で言った。
「Вернись. Нет」(戻れ。駄目だ)
吉屋が、助手席に乗る新堂に顔を向けてきた。あなたが対応してくれと言っている。
新堂は外套の内の隠しから身分証を取り出して、そのロシア兵にかざした。
「Я офицер полиции」(警察官だ)
兵士は不審気な顔になった。新堂は助手席のドアを開けて、夜の街路に降り立った。
正面から、将校と見える男が近づいてくる。
街灯の灯の下に男が入ってきてわかった。ロシア帝国日本統監府保安課のコルネーエフ憲兵大尉だ。新堂とは、職務上の行き来がある。歳は新堂と同じくらいか。つまり三十二、三歳。
コルネーエフ大尉が新堂の顔を見て訊いた。
「きみが、どうしてここにいるんだ?」
新堂は答えた。
「刑事事件の被疑者が、そこの中通りに潜んでいるとわかったんです」
「ここに? ロシア人か?」
「いえ、日本人です。こちらでは、いったい何が?」
コルネーエフ大尉が答えた。
「いま危険分子の検挙にかかっている。邪魔をするな」
危険分子? 反ロシア帝国活動家ということか? 日本人なのだろうか。昨年十月の統監暗殺未遂事件の後、軍や財界にも根を張っていた組織的な反ロシア帝国活動は消えたはずだが。いや、もし日本人が関わっていれば、コルネーエフもそれをいま新堂に明かしただろう。すぐにわかることなのだ。
コルネーエフが中通りの入り口へと戻っていって、下士官に何か短く指示を出した。武装兵の何人かが、中通りの奥へと駆けていった。中通りには街灯は少ないから、何が起こっているのかよくわからない。少しのあいだ、この中通り入り口で様子を見たほうがいいだろう。
内幸町のこの一帯には、ロシア軍の兵と下士官向けの飲食店が集まっている。ロシア陸軍が駐屯する日比谷公園の南側に近いので、門限ぎりぎりまで酒を飲んでいられるからだ。この下士官クラブ裏手あたりの店であれば、門限の二分前に店を出て、連隊通り、ロシア名ではポーク・ブルバールを駆ければ、門限には間に合うと冗談で言われているとか。こうした酒場にはたいがいロシア兵を相手にする娼婦も来るし、簡易旅館も多い。ロシア兵で混む時間帯以外は、日本人客も来て遊んでいく。ロシア兵の遊び場では、よっぽどの騒ぎがないかぎり日本の官憲が取締りに入ることがないから、日本人の遊び人にとっても面白い穴場らしいのだ。密告にあったのはリリ・ホテルという名前だが、それもそんなふうに使われている宿のはずだ。
中通りの奥が少しざわついてきた。並ぶ店のどれかから、男たちが固まって出てきたようだ。ロシア兵たちのようだ。銃は携行していない。
中通りにいる武装兵たちが、左右に分かれた。奥の店から出てきたロシア兵たちは、そのあいだを抜けてくる。武装兵たちは、ひとりひとりの持ち物を検査している。隠しの中のものを見せろと指示しているようだ。兵士たちは、しぶしぶという調子で隠しから持ち物を取り出し、武装兵に見せている。巾着とか、タバコやマッチを出しているが、中には何か印刷物を持っている者もいる。武装兵たちは印刷物を片っ端から取り上げて、下士官に渡していた。列は続いている。まだまだその検問は終わりそうもなかった。
愛宕署のふたりの巡査たちも車から降りてきて、新堂の横に立った。
笠木が言った。
「ペトログラードの騒ぎに関係することなのかな」
その件は、今朝から警視庁本部でも話題になっていた。新聞のいくつかが、この一日二日前にロシアの首都で騒擾があった、と伝えている。この大戦の終結と食料を求める労働者の請願行進に対して、軍が発砲したとか。死者も出ているらしい。それらは、パリやベルリンで発行されている新聞の記事の引用だった。情報の量は限られており、前後の事情もよくわからない。
労働者の請願行進に軍が出動したということが事実だとして、それをどう解釈すればよいのかもわからなかった。その請願行進は、暴動化したところであっさり鎮圧されたということなのか。それとも警察では手に負えないほどの混乱になっているということか。
「関連はわかりませんが」
どうであれ、自分たちがいましなければならないのは、連続強盗の被疑者の身柄確保だ。
新堂はコルネーエフのそばに近寄っていって言った。
「重大犯が逃げてしまうかもしれません。通りに入れてもらうわけにはいきませんか?」
コルネーエフは新堂をひと睨みしてから言った。
「どこだ?」
「リリ・ホテル。この中通りの奥です」
「入ったら、こっちが片づくまで出てくるな」
「ええ」
武装兵や検問の列を避けて、中通りの端を奥へと進んだ。三十メートルばかり奥へ入ったところで、一枚の印刷物が新堂たちの脇の路面に落ちてきた。武装兵のひとりが、兵士から取り上げた一枚の印刷物を下士官に渡しそこねたのだ。
薄明かりだったが、もっとも大きなキリル文字を読むことができた。
「兵士評議会を!」
新堂は足を止めて、もっと小さな文字の部分を読もうとしたが、すぐに下士官が拾い上げた。
武装兵たちが客を追い出しにかかっているのは、赤いスカーフ、とキリル文字で看板の出た酒場だった。その入り口前を通り過ぎるとき、軍服姿ではない白人男が、ふたりの私服の白人男に両手を後ろ手に回されて出てきた。
これがコルネーエフの言っていた反ロシア帝国活動家なのだろうか。顎鬚を生やした三十代と見える男だ。連行されながらも、昂然とした表情だ。
武装兵が追い立ててきたので、新堂たちは中通りをさらに進んだ。赤いスカーフの二軒置いた並びにあるのが、リリ・ホテルだった。わりあい新しく見える木造の洋館だ。
入り口のドアを半分開けて、中年男がこわごわと中通りの様子を窺っている。
新堂は身分証を見せて、男に訊いた。
「このホテルの支配人は?」
男はびくりと背を起こした。
「警察ですか?」
この男が支配人のようだ。
「客をあらためたい」
男は新堂たち三人の巡査の顔を眺め渡してから、泣きだしそうな顔になって言った。
「もう少し後じゃまずいんでしょうか。うちは、兵隊さんたちの門限までが勝負なんです」
笠木が言った。
「探しているのはひとりだ。杉原というやくざ者。いるはずだ」
支配人の後ろには帳場が見える。その奥に、かね折れ階段があった。女がひとり、ちょうど階下の廊下に下りようとしていた。外套の袖に腕を通しながらだ。
「待ってください」支配人はそう言いながら、帳場の中に入った。
時間稼ぎだろう。ロシア兵相手のホテルだといま自分で言ったばかりだ。日本人客がいれば、部屋がどこかわかっているはず。さほどの規模のホテルではないのだ。
女が新堂たちに近づいてきて、無邪気な声で訊いた。
「どうしたんです?」
新堂たちの代わりに支配人が答えた。
「警察のひとなんだ」
女はそれを聞くと、階段の下まで戻って大声で二階に向けて言った。
「警察。お客さん、下りて来て!」
「このアマ!」と笠木が舌打ちして階段へと駆けた。
(続きは本誌でお楽しみください。)
