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物語を愛するすべてのひとたちへ-小説すばる

2020年12月号 小説すばる

【新連載】
王谷晶
「令和元年生まれ ルリカ50歳」

 

 星がある。

 仰向けに横たわるルリカの視線の先、遥か上空に、星が光っていた。ルリカがそれを星だと理解できたのは、教育のたまものだった。子供の頃、学校の先生が教えてくれた。

『わたしたちの街からは通常、星は見えません。星は暗くて人のいない土地で観測することができます。わたしたちの街から星が見えないのは、この首都がアジアで最も発展している都市だからに他なりません。誇らしいですね。みなさんも、夜に空を見ることがあったらこのことを思い出しましょう』

 ルリカは半分閉じた眠たげな眼で、ぎらぎらと光る夜空を見上げていた。

(星が見えるということは、ここは首都じゃないんだ。人のいない場所なんだ)

 ルリカの体は先刻から膨張と収縮を繰り返していた。ルリカの神経はそう感じていた。少し前に全身を覆い尽くしていた気が遠くなるような痛みは薄れ、今はただ熱っぽくじんじんと痺れながら、末端が膨らんだり縮んだりを繰り返している。実際にはルリカの手も足も頭も、どこも膨らんでもいないし縮んでもいなかった。右足は脛の真ん中あたりから折れ曲がり、左足の甲に地面から生えた鉄骨が突き刺さり、右腕は肘のあたりからちぎれてどこかに消えていた。痺れの感覚が間遠になってきた。

 ルリカは死にかけていた。

 だが、ルリカはそれを認識していなかった。ルリカの生活において、死は身近なものではなかった。ただ、定年まで元気に健康に過ごすことだけが望みだった。今は令和五十年の五月一日。ルリカは今日で五十歳。今日の午後六時まで、一般都民として首都埼玉で生活していた。

 

『今日も一日! おはよ、浦和~! おはようございます。浦和区にお住まいのみなさんにお届けする朝の情報番組「おはよ浦和」のお時間です! ナビゲーターは私、今日も元気いっぱい! マチカネタカ子と、マスコットのワラウくんでお届けしまーす! ワラウくん、おはようございまーす!』

『おはようタカ子おねえさん。今日も元気だね~。んん? 今日はなんだか、タカ子おねえさんがいつもと違うような気がするぞ~?』

『あっ、気づいちゃった? 実は、今日は新しいワンピースを着てきたの。似合うかなあ?』

『タカ子おねえさんは何を着てもカワイイからなあ。でも、とっても素敵なワンピースだね。どこで買ったんだい?』

『実は、今日から東松山コルパにオープンする「NICHIRIN」というブランドのワンピースなの。元号「令和」が始まった五月一日の「令和の日」、五十年目の今日を記念して限定百着だけ販売される特別なワンピースを、「おはよ浦和」のためにプレゼントしてもらっちゃいました!』

『タカ子おねえさん、おいら、洋服のことはよく分からないんだけど、その「NICHIRIN」ってどんなブランドなの?』

『よくぞ聞いてくれましたっ! 「NICHIRIN」は、なんとあの三橋宝玉先生がデザイナーをつとめる新しいブランドなんです!』

『えーっ、三橋宝玉先生っていったら、皇室の方々のお洋服を手掛けている日本一のデザイナーさんじゃないか!』

『そうなんです。「NICHIRIN」は世界でも高い評価を得ている三橋先生の素晴らしいデザインを一般の方々にもお届けしたい、というコンセプトで生まれたブランドなんです。なので、キッズからメンズまで、幅広い層の方にも三橋ワールドを纏ってもらえるんです!』

『凄いな~。おいらも一着、欲しくなってきちゃった』

『コルパでは「NICHIRIN」開店記念イベントも開催! ミニファッションショーや今日しか買えない令和の日記念Tシャツなどが販売されます』

『これはコルパに行くっきゃないね~。今日は他にはどんなニュースがあるのかな?』

『ハイ、今日は日本各地で令和の日をお祝いするイベントが盛りだくさん! のちほど全国の放送局からレポートをお届けしまーす! 次はお天気のユメミちゃん、お願いしますっ』

 

 タイマーで自動的に電源が入るテレビから溢れる元気な音声を聞きながら、ルリカは目覚めた。二段ベッドの下に寝ているので、頭を天井にぶつけないように気をつけながら出る。カーテンの隙間から射す光は強く、今日はよく晴れているようだった。天気予報も全国的な快晴を伝えている。

 目をこすってぼやけた視界をはっきりさせると、ルリカはとたんにテレビ画面に釘付けになってしまった。毎日見ている女子アナのタカ子が着ているワンピースが、あまりに可愛かったからだ。慌ててテレビに手をかざし、数秒前に画面を戻す。

『─す。「NICHIRIN」は世界でも高い評価を得ている三橋先生の素晴らしいデザインを一般の方々にもお届けしたい、というコンセプトで生まれたブランドなんです。なので─』

 画面を一時停止する。若々しくすらりとしたタカ子の体に、そのワンピースは素晴らしくよく似合っていた。ベージュとピンクの柔らかい色使いも、ふわっと広がるスカート部分も、夢のように可愛らしい。タカ子が動くたびに、そのポニーテールに結った長い髪と一緒にワンピースの裾が美しく揺れた。ほーっとため息が漏れる。あんな服を着たら、きっとお姫様みたいな気持ちになれるに違いない。皇室御用達デザイナーの、限定ワンピース。わくわくする響きだった。

 自分のようなおばさんが、こんな可愛いワンピースを着てはいけないのはよく分かっている。でも、あまりにも可愛い。着られなくてもいい。部屋に飾っておきたい。一日の始まりにこのワンピースを見れば元気が出そうだし、帰ってきたときこのワンピースがあれば、仕事の疲れも吹き飛びそうだ。でもきっと、凄く高価なんだろう。東松山コルパなんて、清掃の仕事でしか足を踏み入れたことがない。真っ白に輝く床、宝石みたいなガラス窓、空気はいい匂いがして、高くて美しいものだけが売られている。日本有数の高級住宅街として有名な東松山の駅前に聳える、首都を代表する大ショッピングモール。ルリカは繰り返しテレビを操作し、タカ子の動きに合わせてしゃらしゃらと揺れるワンピースを食い入るように見つめる。

 大きなあくびの音がした。ベッドの上段でユアが起き上がったのが目に入る。

「……おはよ、ルリカ」

「おはよう、ユア」

 逆立ってあちこちに跳ね回っているひどい寝癖頭を搔きながら、ユアがはしごをゆっくりゆっくり降りてくる。相変わらず腰の調子が悪そうだ。きのうも夜ふかししていたらしく、目の下にどんよりとくまを作っている。

 同僚のユアとこの寮で暮らすようになってから、もう十年になる。年齢も近く、無口で物静かなユアは同居人として理想的で、二人の生活はうまくいっている。現在はクリーンセンターで仕事をしているルリカが主に掃除をし、フードサプライで働いているユアが弁当や食材を持ち帰ってくる。コインランドリーに洗濯物を持っていくのは交代。でも、たいていはルリカがやる。ユアはあまり体力がないし、食べるものを手に入れるほうがこのワンルームを掃除するよりずっと大変な仕事だと思うからだ。

 顔を洗い歯を磨き、着替えを済ませる。いつもどおりの、クリーンセンターの制服。淡いグリーンの膝丈のスカート、ベージュのストッキング、ピンクのTシャツ、スカートと同じ色のブルゾン。この制服は三橋宝玉の一番弟子と言われているデザイナー、玉野茂美のデザインだ。説明会のときにそれを聞いて、とても嬉しくなったのを覚えている。玉野茂美の名前はそのとき初めて聞いたが、三橋宝玉の弟子なら凄い人に違いない。制服も、いいものに違いない。そう思った。

 十年前に『ヒューマンパートナー・ヒトナ』に登録し入寮してから、ルリカの生活の質は格段に向上した。以前はもっと小規模の人材派遣会社に登録していて、寮もなく、安い賃金の中から古くて狭いシェアルームの利用料を支払うのがやっとで、常にお腹がすいていた。思い切って国内最大手の派遣会社であるヒトナの登録会に参加し、奇跡のように採用され、この部屋に住む権利を手にした。寮費は給料から天引きされるが格安で、敷地内にあるショッピングセンター「ヒトナモール」でもお得に買い物ができる。給料は現金振込と電子ポイント振込のどちらかが選べるが、ヒトナモールで買い物をするならポイントのほうが断然お得なので、しばらく現金は手にしていない。生活に必要なものは寮の敷地の中でほとんど手に入るし、部屋は大きなテレビとベッドとトイレとシャワーが最初から付いているし、何不自由なく暮らせる。

 私は恵まれている。

 ルリカは心からそう思っている。実際、この世の中でルリカのような、そしてユアのような者が生きていけるのはヒトナのおかげに他ならない。定年まで元気に過ごす、という目標ができたのも、ヒトナにいればそれが実現可能な夢だと感じられたからだ。仕事のある毎日。誰かの役に立てる毎日。自分の面倒を自分で見られる毎日。この人間らしい暮らしを手に入れられたことは、ルリカの人生の中で一番大きな出来事だった。

「じゃあ、先に出るね」

 のろのろと朝の支度をしているユアに声を掛け、パンプスを履いて部屋を出る。寮の細長い廊下は消失点が見えるほどに長く、それを意識してしまうと、いつも一瞬、ふらっと目眩がする。

 エレベーターの前にはライトブルーのつなぎを着た若い女性が数人固まっていた。浦和区の南端にあるフードベースビルの制服だ。ルリカはその集団から少し離れて立ち、ちろりと横目で見て微かな優越感を味わった。せっかくヒトナに入れたのにあそこに派遣されるなんて、あなたたちもついてないね、と胸の中でつぶやく。

 フードベースビルは十年前のルリカの派遣先だった。地上三十階地下五階の大きなビルで、地上部分では鶏を育てている。一フロアごとに、端から端まで、床から天井まで鶏のケージが並び、何万羽もの鶏を一度に飼育している。餌やりと卵の回収はオートメーションだが、ときおり機械が鶏の糞や羽根のせいで不具合を起こす。それを確認し機械を掃除するのが主な仕事だ。空調は鶏に最適化され、少し蒸し暑い。その中で帽子とマスクと手袋をつけ、ケージの隙間や隅に挟まってしまった鶏糞や羽根を掃除していく。朝から掃除を始め、九時間かけてぎりぎりで一フロアぶんの掃除が終わる。終業するころには全身が鶏糞と羽根埃にまみれ、土っぽい独特の糞の臭いが帽子の中の髪の毛にまで染み込んでいる。辛い仕事だった。けれど、当時は他にルリカを採用してくれる職場は、首都の中ではほとんど見つからなかった。

 エレベーターが来た。心なしか曇った表情をしているツナギの女たちの後に、スカートを翻して乗り込む。毎日磨いている合皮の黒いパンプスが照明を反射してきらきら光った。私はこんな靴を履いて働ける。もう長靴や安全靴は履かない。プロのクリーンスタッフとして、最後まで仕事をする。胸の中で呟き、きゅっと口角を上げ、顎も少し上げる。口角が下がっていると運気が逃げると、大好きなバラエティ番組『解決! 女の生きる道』で言っていた。運気は大切だ。携帯ケースやバッグはラッキーカラーのグリーンでまとめているし、干支のいのししグッズも集めている。星座は牡牛座だから、正直、どちらかもっと可愛いやつだったらよかったのになと思っている。ユアは未年で乙女座だ。両方とも可愛いグッズがいっぱいある。ちょっと羨ましい。なのにユアは何も集めていないし、ラッキーカラーとか星占いも気にしていない。ちょっと変わっている子なのだ。

 寮から職場まではバスで向かう。この道程が、ルリカは好きだ。

 いつも通り少し混み合っているバスの中で窓が見える位置に立つと、車窓を流れる景色に目を向ける。浦和区は別名ヒトナ区と呼ばれているくらい、ヒトナ関連の施設や建物が立ち並んでいる。ルリカたちの寮やモールもそうだし、結婚式場や葬祭場、運動公園までヒトナが作った。ルリカは末端の登録社員だが、それらの建物を見ていると自分がほんの少しでもこの景色を生み出す役に立っているように思えて、誇らしくなる。

 十分と少しで、バスは目的地に着く。この三年ほど、『浦和りらくセンター』に派遣されている。羽生や東松山には富裕層向けの高級センターがあるが、浦和区立のこのセンターはヒトナでの業務を終えた元登録社員や一部の正社員たちが主に利用している。建物は大きく、敷地はもっと大きい。昔の古い首都でも似たような施設はあったらしいが、庶民用のそれは狭くて古くて、緑もこんなに豊かではなかったと聞いたことがある。仕事から離れた後にゆっくり過ごすなら、やっぱりこれくらいのんびりした施設がいい。

(いつか、私も、ここに入るんだ。退職するまで頑張ったら、ここで過ごすんだ)

 十年前ならただの夢だっただろう。でも、今はここが本当に手の届く場所に思える。将来自分が入所すると思えば、清掃の仕事をするのにもより力が入る。

「おはようございます!」

 施設の裏側にある関係者出入り口から入り、ゲートで私物を預け、手を消毒してから甲に入所スタンプを押す。

 ルリカの担当は個室棟の清掃だ。センターの中心にある個室棟は、特に社に貢献した人、長く勤めた人、家族連れの人などが暮らしている特別な区画で、専用の中庭があり、園芸をしたり日光浴ができたりする。ルリカは正社員ではないのでどう頑張っても将来この個室棟には入れないが、清掃を任されるだけでも凄いことだ。優秀なスタッフでないとここの清掃には配属されないと噂で聞いてから、その期待を失わないように、毎日毎朝、初めて配属されたときのような気分で仕事に向き合う。

 仕事の流れはだいたい決まっている。一つ一つの個室に挨拶してから入り、ゴミの回収、洗濯物の回収、水回りの掃除を行う。床の掃き掃除や拭き掃除は二十四時間ロボット掃除機が行っているが、汚れたゴミ箱を見分けて洗ったりトイレの便器の裏側の汚れを丁寧に落としたりという細やかな清掃は人間にしかできない。どんなに機械が発達しても、やはり最後は人間の働きが一番役に立つ。特にこういった定年まで過ごす人たちが暮らすセンターは清潔が求められる施設だ。入居者はみなヒトナに大きな貢献をした大切な人たちなので、失礼のないように、礼儀正しく、謙虚に、真面目に、迅速に働く。

「コミネ様、おはようございます。クリーンスタッフのルリカです」

 ルリカが挨拶をすると、ややあって自動ドアが開いた。ふわっとお香のいい匂いがする空気に包まれる。

「おはよう、ルリカさん。今日もよろしくね」

 花瓶に花を生けていたコミネ夫人がにこやかに挨拶してくれた。コミネ家は夫婦でセンターに暮らしている。二人とも当然元ヒトナの社員で、一人息子もヒトナの神戸支社で働いている。夫人の方がコミネ氏よりだいぶ若く見えるが、定年は二人一緒にすることに決めたと以前話していた。仲のいい夫婦。立派に育った子供。ルリカの胸が、少しだけきゅっと痛む。

「そうそう、来週、私たち定年するのよ」

「まあ、そうなんですか。お疲れ様です。おめでとうございます」

 ありがとう、とコミネ夫人は照れくさそうに微笑んだ。

「この棟でも定年するお家がだんだん増えてきたわ。お隣さんもそろそろじゃないかしら。あなたはいつ定年か決めてるの?」

「はい、一応……。でも、なるべく長く働ければなって思ってます」

 ルリカはそう言ってから、生意気なことを言ってしまったかなと内心焦った。社員としてヒトナで立派に勤め上げ、結婚して子供も作ったコミネ夫妻ですらもう定年を視野に入れているのに、自分のような人間がまだまだ働きたいなんて、ひどくわがままに聞こえたのではないだろうか。

「ルリカさんはほんとに仕事熱心ね。あなたのような人が働いてるなら、会社もずっと安泰ね」

「そんな、私は派遣ですから……」

「何言ってるの。ヒトナを支えてきたのは派遣社員の人たちなのよ。もっと誇りを持っていいと思うわ」

 夫人にそう言われ、今度はルリカが照れ笑いした。

「でも、コミネ様が定年されたら寂しくなりますね」

「そんなこと言うもんじゃないわ。国民の義務じゃないの。私も主人も定年の日を楽しみにしてるの。この前も主人のお友達の定年祝いに行ってきたんだけど、とってもいいお式だったわ。お子さんやお孫さんまで来ていて……理想の定年よね。ルリカさん、あなたご家族は?」

 にこやかに繰り出された夫人の言葉に、ルリカの背中にどっと冷や汗が湧いた。

「あの……いないんです。身寄りは誰も。情けないんですが……こんな歳で」

「あら、そうだったの。ごめんなさいね立ち入ったこと聞いちゃって。でもヒトナで働いていれば大丈夫よ。定年まで会社がちゃんと面倒見てくれるわ」

「は、はい。本当にヒトナに登録できてラッキーだったって思ってます。最後まで頑張って働きたいです」

「うふっ。元気がいいわね。その調子よ。これからも期待してるわ」

 ルリカは恐縮してコミネ夫人に頭を下げた。

 その後も滞りなく個室棟の清掃を終え、この日も定時にきちんと仕事を終えることができた。正社員のときには残業に続く残業で大変だったと入居者から聞いたことがあるが、派遣は常に定時で仕事を終えられる。お給料は高くなくても、ずっといい働き方だとルリカは思った。

 センターの建物を出てバス停に行こうとすると、鮮やかな黄色に塗られた大きな車が正面のロータリーに停まっているのに気がついた。定年した入居者を乗せる特別車だ。ルリカは立ち止まり、車に向かってそっと手を合わせ目を閉じた。お疲れさまです。どうぞ安らかに。

(続きは本誌でお楽しみください。)

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