2020年11月号 小説すばる
【新連載】
誉田哲也
「フェイクフィクション」
第一章
1
あの人は雨を、好きだと言っていたのだったか。それとも嫌いと、言っていたのだったか。そんなことも、もう簡単には思い出せなくなっている。
どちらにせよ、雨はすでに上がっている。フロアの端から端まで並んだ南向きの窓には、左真横から陽の光が当たり始めている。
あと数時間で、この泊まり当番も終わりになる。
同じ刑生組対課(刑事生活安全組織犯罪対策課)の、だが係は盗犯捜査の泉谷巡査部長が、大きく伸びをしながらこっちを向いた。
「鵜飼さん。ほんと、寝なくて大丈夫なんですか」
確かに、彼は自分よりいくつか若い。だが六日に一度の泊まりが骨身に応えるほど、こっちも耄碌はしていない。五十歳になるまで、まだ半年はある。
鵜飼道弘は組んでいた腕を解き、背もたれから体を起こした。
「……一服、してくるよ」
「はい、どうぞ」
タバコくらい好きに吸いにいけ、と泉谷は思ったかもしれない。だがこの、五日市警察署の庁舎内にタバコが吸える場所はない。吸うなら庁舎裏手の駐車場まで出なければならない。しかし一時間ほど前までは雨が降っていた。風も強かった。あんなところで一服したら、一本吸い終わる頃にはずぶ濡れだ。そもそもタバコに火が点けられたかどうか。火が点いたところで、最後まで濡らさずに吸いきれたかどうか。挙句、あのとき泉谷は椅子に腰かけたまま大鼾を搔いていた。勝手にいなくなるわけにはいかなかった。
まあいい。吸わずにいられたのなら、それに越したことはない。
階段で二階まで下りてきた。署内はどこも静まり返っている。
同じ東京の治安を預かる警視庁の警察署といえども、新宿や渋谷といった都心にある警察署と、ここのような都下の警察署では全く事情が違う。
交番勤務以外の内勤者は、六日に一度「本署当番」に就く。この泊まりがそれだが、六日に一度というサイクル自体は同じでも、都心と都下では、その中身が完全なる別物と言っていい。
たとえば、だいぶ前に勤務したことのある麻布署。あそこは六本木を管内に抱えていたので大変だった。少し暗くなったらもう喧嘩、恐喝、痴漢、置き引き、強引な客引き。夜になれば酔っ払いが増え、器物損壊、また喧嘩、ボッタクリ、路上で寝る、寝ている者の懐から財布を抜く、カバンから抜く、歩くのが面倒になって自転車を盗む。明るくなったらなったで、出社したら事務所が荒らされている、金庫が破られている、起きたらリビングの宝石箱がなくなっている。本当に、ひと晩のうちに何度も何度も臨場させられた。
だがここは違う。五日市署の泊まりで、ひと晩のうちに二度出動したことは、少なくとも鵜飼が異動してきてからは一度もない。何しろ、暴行・傷害事件が年に十件も起こらないのだ。侵入窃盗も、多い年で十数件。管内で一番多いのは自転車・バイク等の乗り物盗、二番目は万引きとか、そんな土地柄だ。
単純に、人が少ないからトラブルも少ない。それだけのことではあるが、だからといって、絶対に重大事件は起こらない、というわけではもちろんない。
ちょうど、鵜飼が一階まで下りたときだった。
総合受付の奥、今日のリモコン担当者が無線台に齧りつき、何やら警視庁本部と忙しなくやり取りをしているのが目に留まった。他にも三人ほど、彼の周りに集まってきている。
まもなく、彼自身の声が館内スピーカーから流れてきた。
《至急至急、西多摩郡、檜原村下元郷付近の路上で、死体発見との入電あり。各移動、各PM(警察官)は急行されたい》
ここ、五日市署の所在地はあきる野市五日市。行政区でいうと西多摩郡は隣になるが、警察署の管区でいえば西多摩郡は五日市署のそれに含まれる。
鵜飼は受付カウンターを通り、無線台の方に進んだ。
途中で、リモコン担当がこっちを振り返る。
西野警部補。交通警備課運転免許係の担当係長だ。
「ああ、鵜飼さん、ちょうどよかった」
鵜飼は、刑生組対課強行犯捜査係の警部補。死体発見とあらば、まさにそれを扱う部署の担当係長だ。
「……死体って」
「ええ。近所の住人が、車で通りかかって見つけたらしいです。しかもそれが、どうも」
西野が、自分の喉元に右手を持っていく。
手刀の形にしたそれを、右から左に素早く動かす。指先で喉笛を搔き斬った恰好だ。
「……首なし、らしくて」
雨上がりの、早朝の山道に、首なし死体。近所の住人がなぜこんな早い時間にその場所を通ったのかは分からないが、冗談ではなく、死ぬほど驚いたのは間違いないところだろう。
「駐在は」
「上元郷の、安村巡査部長が向かってます」
「現場に頭部は」
「発見者によると、見当たらないということでした。まあ、ガードレールかなんかを越えて、斜面を下ったところに落ちてるのかもしれませんが」
「今日の当番、鑑識いないんだよな……それはまあ、今すぐ呼んでもらうとして、じゃ私は、今から泉谷と現場に向かいます」
「よろしくお願いします」
まもなく、泉谷も一階まで下りてきた。
「鵜飼さん」
「ああ。マル害(被害者)、首がないんだとさ」
「えー……」
「行こう」
(続きは本誌でお楽しみください。)
