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物語を愛するすべてのひとたちへ-小説すばる

2020年10月号 小説すばる

【新シリーズ連載開始】
加納朋子
「星は、すばる」

 ある日突然、世界の輪郭は頼りなく、ぼやぼやにぼやけてしまった。まるで溶けかけたゼリーみたいに。透明なクラゲ越しに見た、海の中の景色のように。

 

 事故が起きたのは、小学四年生の九月のことだった。クラスメイトたちはみな、自由そのものだった夏休みを引きずって、うきうきそわそわと落ち着かなかった。とりわけ男子はそうだった。

 掃除の時間、教室に持ち込んだ木の枝を剣に見立てて、闘いごっこを始めた男子たちがいた。クラスでもとりわけ活発で、力が有り余っているような子たちだった。二人が上げる奇声やら、アニメだか特撮だかの技名やら、周辺ではやし立てる声やら、女の子のむしろ楽しげな悲鳴やらを、私はぼんやりと聞き流していた。

 きまじめで大人しくて読書好きな子。それが、教室での私だった。変に目立たず、でしゃばらず、人気があるわけでも嫌われているわけでもない。とくに苦手なものもなく、だからどんくさい失敗もしない。そして実は、運動も勉強もできる……絶対にひけらかしたりしないけれど。

 とても楽でちょうどいい、そんな自分のポジションを、私は結構気に入っていた。決して面倒事には巻き込まれない、おだやかで安全な居場所。私がいたのは、そういう場所のはずだった。

 それがもろくもくずれ去ったのは、あっという間のことだった。

 悲鳴を上げたのは、自分だと思った。けれどそれは、私以外の女の子で、私の頭の中にはその悲鳴よりも大きく急を告げるサイレンが鳴り響いていた。

 目の前に、鋭い枝の先端が迫っている。ふざけ合っていた男子の一人が、勢い余ってバランスを崩し、こちらに倒れ込んできたのだ。彼が武器に見立てて持ち込んだ枝を手にしたまま。

 とっさに「避けなきゃ」と思い、それは半分は成功した。とっさのこととしては、頑張ったと思う。あとから考えれば、もっとひどい結末はあり得た。その瞬間にも直後にも、とうていそうは思えなかったけれど。

 止めきれなかった枝の先端は私の右目に突き刺さり、かわそうとした姿勢のままに私は真後ろに倒れ、何かで─おそらくは机の角に頭を強くぶつけ……覚えているのはそこまでだ。

 

 我に返ったとき、世界の様子は一変していた。右目は分厚い何かで厳重に覆われている。ずきずき痛む頭に触れてみると、布のようなものがぐるぐる巻きになっているのがわかる。そして恐る恐る開いた左目に映る景色は、ひどくぼんやりしていた。私を覗き込む顔も、そうっと近づいてくる指先も。

「良かった、すぐ気づいて。すぐに看護師さんを呼ぶからね」

 おろおろ声でそう言ったのは、母だった。そのぼんやりとぼやけた母は枕元でごそごそし、すぐに白い人影がやってくる。それが看護師さんだということくらいは、わかる。そうして気づく。ここは病院の、ベッドの上だと。同時に思い出す。騒然とした教室でたくさんの人に取り囲まれたこと、運ばれて、救急車に乗せられたこと、病院でお医者様から色々聞かれたこと、さあこれから処置が始まるというところですくみ上がり、その後は真っ白で……。

 混乱と恐怖のただなかで、さらに思い出す。眼前に迫ってくる、木の枝の先端を。

 喉を裂くように、悲鳴が飛び出す。母は私を抱きかかえながら、近くに来ていたらしい誰かに泣きそうな声で言った。

「目を覚ましたんですけど、またパニックになっちゃって……先生を呼んでください」

 そして「可哀想に、可哀想に」と呪文のように唱えながら、私の背中をさする。

 また、と母は言った。その言葉通り、事故直後からその時点まで、私は何度もパニックにおちいっていた。

 その原因なんてわかり切っている、目に尖った物が突き刺さった恐怖からなのだろう……そう誰もが思っていただろう。

 けれど実際のところは、少し違っていた。そのときの私にはもう一つ、より恐ろしい現実があった。

 怪我をした右目は塞がれて、当然何も見ることはできない。それは諦めるように理解していた。だが、無事なはずの左目が捉える世界は、あまりにもぼやけていた。私を覗き込んでくる母の顔がわからないほどに。

 そんな馬鹿な、これは何かの間違いと、まるでゲームをリセットするような思いで意識を手放したのだろう。正しくリスタートさせさえすれば、きっとすべては良くなるに違いないのだと。

 何度目かの恐慌と一時的な意識消失の末、ようやく私は思い知る。世界はもう、今までとはまったく違うのだと。私を取り囲むすべてのものは、ぼやけて頼りない姿に変わり果ててしまったのだ、と。

 右目の失明だけは、どうにか免れた。これは不幸中の幸いと言っていいのだろう。幸い、などとはとても思えなかったとしても。

 ただ、できる限りの治療を施してもらった後でも、かつて1・5だった視力は0・08までしか戻らなかった。矯正しても0・2がやっとである。問題は、左目の方が0・1と、右目とさほど変わりない視力だった、ということだ。

 このことに関して、眼科の医師は首を傾げながら言っていた。

「倒れたときに頭を打っていますから、外傷性視神経症を疑っていたのですが、どうやらそうではなさそうですね……当面、このまま様子を見ることにしましょう」と。

「─結局、わからないってことじゃないの」と憤慨した母に連れられ、別のもっと大きい病院に行ったが、結果はあまり変わらなかった。外科的治療が終わった後は、視能訓練に通うことになった。待合室にいるのはほとんどが小さい子とそのお母さんだったし、矯正用の眼鏡を常にかけるよう言われて最悪だった。それでなくともかなりの期間、眼帯に眼鏡という姿で過ごすことになったのだ。事情が知れ渡っているクラスでこそ、誰も笑う人はいなかった。けれど、一歩教室を出ると、遠慮なく笑ったり指をさしたりしてくる人たちは少なくなかったのだ。

 笑われていたのは、眼鏡や眼帯だけではない。

 児童集会で体育館に行くときや、音楽室や理科室に行くとき、学校の行き帰り、果てはトイレに行くときまで、いついかなるときにも私にくっついてくる男子がいるのだ。

 クラスではコータと名前呼びされている。いつも元気がありあまっていて、ふざけんぼで、時々調子に乗り過ぎる。クラスの皆から好かれていた男の子。

 あの日、ふざけて木の枝を振り回し、私の右目を傷つけてしまった子だ。

 あとから聞いた話だが、事故のあった日、私が運び込まれた病院にはたくさんの人が押しかけて大騒ぎだったらしい。私の身内はもちろん(両親の他に、近距離別居の祖父母まで)、学校関係者が複数人、そして〈加害者〉当人とその保護者たち。

〈加害者〉は一応二人だったけれど、当然本人にも保護者にも温度差があった。

 直接怪我をさせていないほうの男子の母親は、『一緒になって教室で暴れていたうちの子にも責任の一部はあるから、治療費の半分は持たせてもらいます』というスタンスだったと言う。私の親から『うちの娘が失明するかどうかってときに、金の話なんてしないでくれ』と強い口調で言われ、そそくさと帰って行ったそうだ。

 もう一人の男子の親は、もっとずっと激しかった。自営をやっている店を閉めて父親まで駆け付け、親子三人で床に頭をこすりつけて土下座したのだと言う。その頭を蹴り飛ばしそうな勢いの祖父を、他の三人で懸命に止めたそうだ。ようやく祖父が少し落ち着いたと思ったら、今度は母と祖母が『うちの子の将来はどうなっちゃうんですか。危なくて、もう一人で外も歩けないじゃないですか。学校だって、これからどうすればいいのか』と号泣しながら詰り出し、だいぶカオスなことになったらしい。

 すると相手の父親はわずかに顔を上げ、我が子の後頭部を大きな手のひらでがっと押さえて言ったそうだ。

『こいつに、この馬鹿息子に責任を取らせます。決してお嬢さんを危険な目には遭わせません』と。

 そしてその言葉には、かけらも噓偽りはなかった。

 事件後に初めて登校する朝、それはそれは憂鬱だった。鏡に顔が付きそうなほど近づけて、眼帯と眼鏡を装着した自分の姿に絶望していると、いきなりチャイムが鳴った。母が応対すると、玄関先にいたのはコータとその母親だった。それがわかったのは、コータのお母さんの少しハスキーな声と、コータのぼそぼそした挨拶の声からだ。

「お約束通り、今日から参りました」

 と言っているところを見ると、両家の間ですでに話は決まっていたものらしい。

「……でも、今日くらいは私が連れて行こうかと……」

 迷うような母の言葉に、コータのお母さんは「いいえ」と強い口調でかぶせた。

「私たち保護者は授業中学校の中までは入れませんもの。教室の移動のときにも、お手洗いに行くときにも、いちいち誰かに頼まなきゃならないですよね。それはお嬢さんには負担だと思うんです」

 お手洗いって……私は心の中で悲鳴を上げる。トイレまでコータに連れて行ってもらうなんて、そっちのほうがずっと負担だ。

「お腹痛い……学校行かない」

 私は体を丸めるようにうずくまり、低い声で訴えた。

 それがそのときの私にできた精一杯の抵抗だった。可哀想で痛ましい〈被害者〉の抗いは、一応は聞き届けられた。が、結局はわずかばかりの引き延ばしに過ぎなかった。

 数日後、観念した私はコータと共に通学を始めた。危ないから手を繫いでいけと言われたが、もちろんそんなことができるはずもない。さまよわせた私の手は、結局コータの黒いランドセルにそっと触れることで落ち着いた。

 男子にぴったり貼りついて歩く、眼帯に眼鏡姿の女の子は、道行く人たちの目にはさぞかし変に映ったことだろう。同じ時間に通学路をぞろぞろ歩いている小学生はみな、「すごいものを見ちゃった」という顔をすることだろう。実際、そういうニュアンスで発せられたであろう、誰かの「うわあ」という声が、何度も私の耳に突き刺さっていた。

 絶望と恥ずかしさで、私の左目はきっとどんより濁っている。

 そして私が嫌々貼りついている男の子の両目もまた、きっとおんなじ色をしているのだろう。

 檻の中の囚人が、大きな鉄の球がついた足枷をはめている様子を見たのは、アニメか何かでだったろうか。

 今の私は、人の形をした罰そのものだ。

 一歩分先を行く罪人に科せられた、重くかさばる鉄の球なのだ。

(続きは本誌でお楽しみください。)

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