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物語を愛するすべてのひとたちへ-小説すばる

2020年9月号 小説すばる

【新シリーズ連載再開】
道尾秀介
「落ちない魔球と鳥」

 野球の才能に恵まれた、名前が一字違いの双子が出てくるマンガがあるらしい。

 兄弟で野球をやっていると言うと、大人はたいていそのタイトルを口にする。でも僕と兄は双子じゃないし、野球の才能に差があるのは明らかだし、名前も一字違いなどではなく英雄と普哉だし、そのマンガでは弟が物語の途中で死んでしまうそうだけど、いまのところ僕は生きている。

 生きているが─。

「死んでくれない?」

 あの朝、いきなりそんな言葉をかけられた。

 暗くて無感情な声で。

 それからの五日間、僕はいろんなことを考えた。どうして彼女はあんなことを言ったのか。いったい何を考えていたのか。何をやろうとしていたのか。そして、一番大事な点。ただ野球の練習を頑張っていただけなのに、どうして死んでくれなんていう残酷な言葉をぶつけられなければならなかったのか。

(一)

 金曜日の早朝、晴れ。

 投げたボールはマットにぶつかって勢いを殺され、地面に落ちたあと、とぼとぼ戻ってくる。足下まで転がってきたボールを拾い上げ、僕はまたマットに向かって投げる。─ばすん! ころん。とぼとぼ。

「シルバーウィークって名前、誰がつけたんだろうな」

 堤防のへりで釣り竿を握っているニシキモさんが、顎をねじってこちらを振り返った。真っ白な短髪と、徹底的に日焼けした顔のせいで、年齢よりもずっと老けて見える。というのはあくまで印象で、じっさい何歳なのかは知らない。少なくとも現代社会の授業で習った「前期高齢者」には入っているのだろう。

「なんか、老人週間みてえに聞こえるよな」

 適当にうなずきながら、戻ってきたボールを人差し指と中指のあいだに挟み込み、親指と薬指で下から支える。兄直伝の、フォークボールの握り方。落ちる魔球。

 ばすん! ころん。とぼとぼ。

「しかし兄貴もそうだけど、弟も熱心だわな、こんな朝早くから……おっ」

 あたりがあったのか、ニシキモさんは素早く竿を持ち上げた。しかし水面から出てきたのは仕掛けだけで、魚はついていない。ニシキモさんは糸の先を摑み、仕掛けになんかしてから、またゆっくりと水中に沈める。太陽はまだ水平線と重なり、ほとんど真正面からニシキモさんの顔を照らしていた。

「兄貴のほうは三年生だから、もう引退?」

「夏で、はい」

 もちろん兄だけでなく、三年生はみんな二ヶ月前、夏の大会を最後に引退した。いまは二年生と僕たち一年生だけのチームだ。

 春に新入部員として野球部に入った僕は、エース小湊英雄の弟ということで、監督からも先輩たちからもかなり期待されていたし、リリーフピッチャーの殿沢先輩なんて、部室でこっそり睨みつけてきたりもした。が、僕はみんなの期待を見事に裏切り、殿沢先輩の期待にだけは応え、いまのところピッチャー志望の補欠部員でしかない。いや、補欠というのは欠番を補うという意味だから、正確には補欠でもないのだろう。僕が試合に出るためには、いったい何人の欠番が必要なのか。部員は、二年生が十人、一年生は十五人もいる。レギュラー全員がいっせいに下痢になったとしても、僕はまだベンチを守っているに違いない。

「お兄ちゃんの兄貴、夏の大会でぜったい甲子園行くんだなんて言ってたよ」

 ニシキモさんは僕を「お兄ちゃん」、兄を「兄貴」と呼ぶのでまぎらわしい。

「甲子園だぜ、すげえよな。目標がすげえ。この街から甲子園出場なんて聞いたこともねえのに、真面目に言うんだもん。若さだね」

「甲子園の直前までは行きましたよ」

 僕が教えると、ニシキモさんの顎ががくんと落ちた。アフリカあたりで槍を持った人たちがつけている、木彫りの面に似ていた。

「……ほんとかよ」

「地方大会の決勝まで、はい」

 ばすん! ころん。とぼとぼ。

「勝ってたら甲子園じゃんか」

 英雄という名のとおり、兄はこのマイナーな街にあるマイナーな高校の野球チームを、甲子園の直前まで導いた英雄だ。二年生の夏まではリリーフピッチャーでさえなかったのに、その年の秋にフォークボールという強力な武器を手に入れてからは三振を大量生産するようになり、同学年の殿沢先輩を押しのけてとうとうエースに昇格した。チームの打撃力は相変わらず低いままだったが、なにしろほとんど点を奪われることがないので、一点でもとればチームの勝ちがほぼ決まる。フォアボールとデッドボールで押し出しの一点をもらい、誰もヒットを打たないままその一点を守りきって勝つようなことさえあった。今年の新入部員がひどく多かったのも、そんな兄の活躍があったからで、当然のようにピッチャー志望ばかりだ。いまのところ僕がマウンドに上がるのは、練習後のグラウンド整備のときくらいだった。

 普哉という名前も、英雄と比べて、いかにも成功しそうにない。いつだったかテレビで、「普」ではなく「晋」という字が名前に入っているタレントが、自分の名前の由来について話しているのを見た。特別な人間になってほしいという思いを込め、父親が「普」ではなく「晋」の字をつけたのだという。僕の父にそういう配慮はなかったのだろうか。

「そうか、いいとこで負けちまったのか。でもすげえよな。俺が海に出てるあいだに、そんなことになってたとはね。いやほんと、浦島太郎だわ」

 ニシキモさんは遠洋漁業でカツオを捕りつづけてきた人で、地元であるこの街に帰ってくるのは二ヶ月か三ヶ月に一度。そんな生活をもう四十年以上もつづけてきたらしい。街に家族がいるのかどうかは知らない。いつも一人で堤防のへりに座り、海に向かって釣り竿を握っている。─というのはみんな兄から聞いた話で、じつのところ僕は二十分くらい前に初めて会ったばかりだ。

 もともとこの漁港では、兄が投げ込み練習をしていた。

 フォークボールは肘への負担が大きいので、練習であまり投げすぎないよう、兄は下井監督から言われていた。でも、それに従うふりをしながら、じつは毎日ここで早朝練習をつづけていたのだ。それがなければ、チームが地方大会の決勝まで行くことなんて絶対にできなかっただろう。

 漁港の奥、大きな倉庫の裏側。兄が見つけた秘密の練習場所。海からは見えるけれど道路側からは見えず、下井監督が漁港のそばを通りかかっても問題ない。しっかり者の兄は、事前に漁業組合の人にちゃんと断りも入れていた。その人というのが、たまたま野球好きだったらしく、どんどん使ってくれ、組合の連中には俺から説明しとくからと、むしろ大喜びで許可してくれたらしい。

 兄がニシキモさんと初めて会ったのは、そうしてはじめた早朝自主練の三日目だったという。一日目と二日目、兄はボールを倉庫の壁に向かって投げていたのだが、硬球がコンクリートを傷つけてしまうのではないかと心配で、何球かごとに壁まで行って確認せずにはいられなかった。それを堤防で釣りをしながら見ていたのがニシキモさんで、ふと立ち上がっていなくなったかと思うと、一枚のマットを担いできた。体育館で使うような、固い、もとは白かったらしいマットで、運動以外の何に使うことがあるのか知らない。とにかくニシキモさんは謎のマットをどこからか運んでくると、これがありゃいいだろと言って壁に立てかけた。そのマットに向かって、兄は来る日も来る日もボールを投げつづけ、いまは僕が投げているというわけだ。

 ニシキモさんというのは変わった苗字だけど、どんな字を書くのかは知らないし、兄も知らないと言っていた。日本人にしては鼻が高いから、外国人の可能性もゼロじゃない。

「それって、フォークボール?」

「……何でわかるんですか?」

 僕のフォークボールは、はっきり言って、まったく落ちない。

「いや、兄貴がそればっか練習してたから。あれって、球が途中で急に落ちるじゃんか。舵もねえのに空中で曲がるってすげえよな。兄貴のまじで落ちてたもん」

「落ちてましたね」

 この場所で魔球を練習しつづけ、まるで青春漫画のように、弱小チームを甲子園直前まで連れていった兄。それを真似て、同じ時間に同じ場所でフォークボールもどきを投げつづけている弟。兄から教わった握り方で、兄の投球フォームを意識しているというのに、どれだけ投げ込んでも駄目で、いまのところ魔球どころか、ただスピードがないだけの真っ直ぐな球だ。

「兄貴、引退したあとどうするって?」

 ばすん! ころん。とぼとぼ。

「大学野球やるって言ってました」

 下井監督が野球推薦を獲得してくれたので、もちろん、やらないという選択肢はなかった。

「そっか。いや、俺も昨日で引退したから、参考にしようと思ってさ」

 ばすん! ころん。とぼとぼ。

「そうなんですか?」

「うん、金もそこそこ貯まったし、もう海は出なくていいかなって。でもそっか、大学野球か……こっちゃ、そういうのねえんだよなぁ……どうすっかなぁ……」

 悩ましげに短髪の白髪頭を搔いているが、もしかして本当に高校生の進路を参考にしようと思っていたのだろうか。

「お、来た来た」

 ニシキモさんが手びさしをして朝日のほうを見る。黒い影になって海の上を飛んでくるのは、カモメの群れだ。ここで投げ込みをやっていると、決まってああして集まってくる。

「お兄ちゃんも、あいつらにパンやってんの?」

「はい、いちおう」

 兄はここで投球練習をしていたとき、途中のコンビニで必ずパンを一つ買い、練習後にそれを食べながら、カモメにやっていた。カモメたちが集まってくるのはそのせいだ。僕もそれを真似て、同じコンビニでパンを買う。一昨日はミニスナックゴールド。昨日はマロン&マロン。今日は濃厚ソースの焼きそばパン。カモメたちはこうして集まってきては、堤防の端に並び、僕の投げ込みが終わるのを待つ。同じユニフォームを着ているので、もしかしたら同一人物だと思っているのかもしれない。身長の違いも顔の違いも才能の違いも、フォークボールがちゃんと落ちているかどうかも、カモメにはわからない。

 ばすん! ころん。とぼとぼ。

 ボールが戻ってくるあいだに自分の右手を確認する。マメ。マメ。粉っぽくなった指紋。赤らんだ関節部分。肘を曲げ伸ばししてみるが、何の違和感もない。まだぜんぜん足りない。ばすん! ころん。とぼとぼ。学校に行く時間まで、あとどのくらい投げられるだろう。時刻を確認しようと、地面に放り出してある通学鞄を探った。本当は学校への持ち込みが禁止されているスマートフォンを取り出すと、八時四分。倉庫の陰で制服に着替えるのは一分あれば充分だから、あと五分くらいは─。

「死んでくれない?」

 背後で声がした。

 振り返ったけれど、ニシキモさんしかいない。海に向かって釣り竿を構えながら、不思議そうに右のほうを見ている。ということは空耳なんかじゃなく、やはり声は聞こえたということなのだろうけど、そこには誰もいない。ニシキモさんが見ている方向にいるのはカモメカモメカモメカモメカモメカモ─何だあれ。

「いま、女の声しなかったか?」

「たぶん、それです」

「うん?」

「下、カモメ……じゃなくて……え、何ですかそれ?」

「どれよ?」

 それ、と僕はその奇妙な鳥を指さした。カモメにまじって堤防の端にとまっているのは、全身が灰色で、目の周りだけがタヌキの逆バージョンみたいに白い、見たことのない鳥だった。大きさはカモメとだいたい同じくらいだろうか。

「インコ……にしちゃでけえな」

「オウムですか?」

「こんなだっけ?」

「死んでくれない?」

 また喋った。

 暗くて無感情な声で。

 僕は持っていたスマートフォンを急いでカメラモードにし、その鳥をアップで撮った。撮ってからビデオのほうがよかったと思い直し、動画モードに切り替えたが、録画ボタンを押す前にニシキモさんが勢いよく腰を上げた。

「何だこいつ、縁起でもねえこと喋って」

 いちばん近くにいたカモメが驚いて飛び立ち、つぎ、つぎ、つぎ、と時間差で飛んでいく。パンが欲しいのか、カモメたちは遠くへは行かず、そのまま堤防のそばで旋回しはじめた。でも、あの奇妙な鳥だけは、灰色の羽をばさつかせながら遠ざかり、やがて朝日と重なって見えなくなった。

(続きは本誌でお楽しみください。)

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