close

物語を愛するすべてのひとたちへ-小説すばる

2020年8月号 小説すばる

【新連載】
本多孝好
「沈黙を聞かせて」


二つ目の傷跡


 デスクの上の彼女の手が小さく震えていた。斜め四十五度。二人の人間が話をするときにはあまり選ばない角度から私は彼女の様子を眺めていた。デスクに向き合わせた椅子は二脚。普通なら対面に配置するだろう。が、この部屋では違う。二脚の椅子は長方形のデスクの隣り合わせた辺に向けて置かれている。私の左に彼女。彼女の右に私。お互い前を向けば私には壁が、彼女には小さな窓が真正面にくる。小さな窓からは、大通りを挟んだ向かいのビルが見えるはずだ。実際、今、彼女の目はその風景をとらえているだろう。が、彼女の意識がその風景に焦点を合わせているのかどうかまでは、私にはわからなかった。

 私は彼女の表情に注意を移した。この部屋に入ってきたとき、彼女は意外なほどに落ち着いていた。

「高階唯子さん。唯子さんって可愛い名前ですね」

 私の名刺に目を落とし、ほほ笑んでさえ見せた。が、私が改めて自己紹介をして、自分の守秘義務について話し、同意書にサインをもらい、この三週間の生活ぶりを聞いている間に、彼女の表情は徐々に薄れていった。それがおかしなことだとは思わない。事件からたった三週間。普通でいられるほうがどうかしている。平静を装っていた彼女が、徐々に素顔を見せている。私はそう受け取った。カウンセラーの前ですら感情をさらけ出さないのは、もともと芯が強い性格なのか、それとも一児の母という立場が取り乱すことを許さないのか、まだ母になったことのない私には判然としない。

 五歳になったばかりだという息子の現状について、彼女はぽつぽつと話していた。息子の克洋くんは体が弱く、病気がちだという。その言葉に頷きながら、私は彼女を注意深く眺めた。隙のないメイクと身だしなみが、逆に彼女の動揺を暗示している気がした。それは、人からおかしく見られないように、あるいは、自分は大丈夫だと自身に言い聞かせるために、念入りに整えられたものに見えた。本来はきっと表情の豊かな人なのだろう。二重のぱっちりとした目と小さな口が印象的で、美人というより可愛らしいと称されるタイプの顔立ちだ。その人が今、狭い部屋で表情をなくし、無骨なデスクの上で細い手を小刻みに震わせている。

 大丈夫ですよ、と場違いな励ましを口走りそうになり、自分を戒めた。大丈夫なわけがない。大丈夫じゃないからこそ、彼女はここにきた。

「今、特に困っていることはありますか?」

 彼女の話が一段落したところで、私は尋ねた。生活全般について質問したつもりだったが、やはり母親の思考は子供が中心になるようだ。保育園が事情をくんで、親身になってくれているというようなことを彼女は話し始めた。

「体が弱い子なんで。すぐにおなかを壊したり、あとは頭がぼーっとするってよく言うんです。保育園の先生たちはそのことをわかってくれているので助かります」

 この三週間、彼女はとてつもなく目まぐるしい時間を過ごしたはずだ。警察の聴取、葬儀の準備、マスコミへの対応。突如として膨大に押し寄せてきた様々な事象への対応は、煩わしく、ときに腹立たしいことも多かっただろうが、事件から一時、気を逸らす役は果たしたはずだ。それらが一段落した今がむしろ、気持ちの落ち込み始める時期だろう。歩いているつもりだった道が幻影だったことに気づく。今まで歩いてきた当たり前の道は、もう自分の足下にはないのだと気づかされる。そういう時期だ。

 まだ小刻みに震えているその手を握ってあげたい衝動に駆られた。が、それは私の仕事ではない。そうしてくれる人がいるのかどうか、私は確認した。

「では、息子さんは、克洋くんは、今まで通り、保育園に預けられるんですね? それとは別に、今、どなたか頼れる人はいますか?」

 事務的な口調にはならないよう気をつけた。いたわりを込めた握手でもなく、愛情を込めた抱擁でもない。私と彼女との間に介在しうるのは言葉だけだ。ならば、できるだけ間違いのない言葉を障りのない口調で届けたかった。

 彼女が正面から右四十五度に視線を移した。窓から私へ。ぼんやりとこちらを見る眼差しは、質問をうまく理解できていないようだった。

「深い意味ではないです。ちょっとした用事をお願いできる人。ふとしたときに愚痴を言える人。その程度の意味です」

 私がそう補足すると、彼女は少し首を傾げて考え込んだ。

「派遣の仕事先には親しい人はいないです。お隣の……住んでいるマンションのお隣の竹内さんはよくしてくれます。だいぶ年上のご夫婦ですけど、克洋のこともかわいがってくれて。ちょっとした用事なら、ええ、いざとなれば頼めると思います。ただ、愚痴とか、そういうことになると……」

「そうですか」と私は頷いた。「では、たとえば」

 彼女を何と呼ぶかは難しい問題だったが、『浜口さん』や『奥さん』が正解だとは思えなかった。もともと彼女は『浜口さん』ではないわけだし、今やもう『奥さん』でもない。『あなた』という呼び方も教科書的にはあり得るが、年齢の近い同性が呼びかける言葉としてはふさわしくないだろうし、そもそも私はこの呼び方をあまり好まない。実際、クライエントを『あなた』と呼んだことはこれまでほとんどない。今回、私は彼女を下の名前で呼ぼうと面談前に決めていた。

「たとえば、有美さんの、お母さんはどうです?」

「お母さん」とその意味を確かめるように小さな声で繰り返し、彼女は首を振った。「いるけど、遠いですから」

 事前に書いてもらった問診票には両親は健在となっていたが、住所までは記されていなかった。この状況で、今現在、彼女のそばにいないということは、相当、遠いところにいるということか。

「遠いというと?」

「岩手です」

「ああ」と私はほほ笑みかけた。「確かに遠いですね」

 確かに遠い。が、もちろん、娘のもとにこられない距離ではない。それでもこないのは、距離とは違う事情があるということか。母親を呼び寄せるよう助言していいかどうか、即断はできなかった。

「ご実家がそちらなんですか? 有美さんも岩手の出身?」

 ほほ笑みかけた私に彼女もほほ笑み返したが、それは反射的な表情模倣だ。人は目の前にいる人間の表情を無意識に真似ようとする。私に対する親近感や安心感の欠片と受け取るべきではない。

「いえ。私は全然。行ったこともないです」

「そうですか」

 私が頷いたとき、靴音が聞こえてきた。部屋の前の廊下を誰かが歩いている。近づいてきた靴音は部屋の前を通り過ぎて、遠ざかっていった。最上階にあるこの部屋の周囲は警察署の一角とは思えないほど静かだった。とはいえ、全くの無音というわけにもいかない。そんな必要もなかったが、私は足音が聞こえなくなるのを待った。その間に彼女の意識が私との会話から逸れたのを感じた。震えていることにようやく気づいたようだ。彼女はデスクの上にある自分の手を見ていた。やがて、ゆっくりと両手をこすり合わせる。それが自分の意思で動くものであることを確認するかのように、彼女は丹念にその動きを続けた。靴音が完全に聞こえなくなってもまだ、彼女はそうしたままだった。

「いきなりのことでした」

 両手をこすり合わせたまま、彼女が唐突に口を開いた。事件のことに話が飛んだのかと思ったのだが、違った。

「六十五まで働いて、会社をやめたと思ったら、すぐに二人で岩手に引っ越しちゃって」

 親の話らしかった。

「そうですか」と私は相づちを打った。「すぐにお二人で」

「定年後はこっちでゆっくりしながら、たまには孫にも会いたがるんだろうなって、勝手に思い込んでいたんですけど。会社を退職した途端に、いきなり岩手って」

 唇の端がわずかに歪んだが、はっきりとした表情になる前に、吸い込まれるようにどこかへと消えていった。

「岩手。どうして岩手だったんです?」

「二人とも、歴史好きなんです。休みのときには、そういう、お城とか、お寺とか、歴史を感じられるいろんな場所に旅行してて。それで、岩手が一番気に入ったらしいです。岩手の一関です」

 知っているかと問うように彼女が私を見た。

「平泉の近くですね。奥州藤原氏」と私は言った。「中尊寺金色堂とか」

「先生も、歴史、詳しいんですか?」

 クライエントから『先生』と呼ばれることはクライエントを『あなた』と呼ぶのと同じくらい私の好みではなかったが、今はそれを指摘して、会話の流れを妨げたくはなかった。

「ああ、いえ。特に歴史好きというわけではないんです」

 私の歴史知識の大半は受験の際に教科書から得たものだ。いわば知識のための知識で、広がりはない。そう言おうとしたとき、彼女が背後の椅子においていたバッグが目に留まった。平泉と結びつけて、私は咄嗟に言葉を換えた。

「そこを舞台にした漫画があって。それで知った程度です」

 うっすら浮かんだ笑みは、今度は本物の感情の表れに見えた。

「ああ、漫画。漫画は私も好きです」

 そうなのだろう。彼女のバッグには有名な漫画キャラがモチーフになったチャームがついていた。作りからすると子供用ではなく、お金を出せる大人に向けたものだろう。まだ二十代のかわいらしい雰囲気をまとった彼女には似つかわしいものにも思えたし、もう二十代も終わろうとしている一児の母には似つかわしくないものにも思えた。漫画という淡いつながりから緊張がほぐれることを期待した私の言葉は期待通りの効果を発揮した。私が思った以上に彼女は漫画に詳しかった。平泉を舞台にしたその漫画のタイトルを当然のように言い当てた。

「よくご存じですね。漫画、本当に好きなんですね」

「ええ。中学生のころに少女漫画にはまって、そこから何でも読むようになって」

 それからしばらく、彼女が好きだった漫画についてのやりとりが続いた。年齢は私が三つ上なだけ。接してきたものは大きくは変わらない。彼女が挙げた漫画のいくつかは私も読んでいた。が、中にはタイトルすら初めて聞くものもあった。彼女はそのあらすじをわかりやすく教えてくれた。要点をつかむのがうまいのだろう。読んだことのない漫画のストーリーが私の頭にもすっと入ってきた。彼女の手の震えはいつしか収まっていた。

 話が逸れてしまうが仕方がない。もとより、この面談に本筋の話などない。まずはなるべくリラックスして、彼女に多くをしゃべってもらうこと。それが大事だった。

「ずいぶん読んでるんですね。それだけ読んでいると、漫画、すごい量になってませんか?」

「ええ。家に大量にあるんで、広也にもよく文句を言われました。この一年で一度も読み返さなかったものは全部売り飛ばせって言われて、それで言い合いになったことも……」

 その言葉から夫婦のほほ笑ましい日常が思い浮かんだ。が、言いながら、彼女は喪失を改めて思い知らされたようだ。中途半端に言葉を切ると、表情をなくしてうつむいた。

「何で……」

 うめくように絞り出したきり、彼女は唇を強く結んだ。彼女の日常は、三週間前に、突如、失われた。いや、奪われた。

 心は過去の思い出に飛んだのか、強い悲しみにとらわれているのか。彼女は言葉を切ったまま、動きを止めた。嗚咽はなかった。呼吸すら止めているように見えた。部屋が沈黙に満ちた。沈黙は悪いことではない。普通の生活の、普通の時間は、沈黙を許さない。空白が生まれれば、人はすぐに言葉や行動で埋めようとする。だから聞き逃してしまう。その沈黙のあとにこぼれ落ちる一言を。私の仕事は、その一言を聞くことだ。

 私は黙って彼女が戻ってくるのを待った。やがて彼女が顔を上げた。

「痛いですよね。きっと、痛かったですよね」

 苦しげに歪んだ表情で、あえぐように彼女は言った。

 彼女の夫、浜口広也さんは、三週間前、自宅近くの公園で刺し殺された。彼女より四つ上。まだ三十三歳。胸の傷は深く、肺にまで達していたという。

「何を考えたでしょうね。広也、死ぬときに何を……痛い、痛いって思いながら死んだんですかね」

「ほぼ即死だったと聞いています」と私は言った。「長くは苦しんでないはずです」

 即死だったこと。それが慰めになる死に方もある。ひどい話だ。

 彼女が右手を胸に当てた。感情が高ぶり、胸が苦しくなったのかと思ったが、違ったようだ。

「傷を見たんです」

 胸に当てた手をぎゅっと握りしめて、彼女は言った。

「傷を?」

「広也の胸の」

「ああ、胸の傷ですね」

 もちろん、生々しい傷跡そのものを見たわけではないだろう。彼女が見たのは、司法解剖を終え、整えられた遺体だったはずだ。それでも縫い合わされた傷口は嫌でも目に入っただろう。

「料理ができなくなりました」と彼女が言った。

「料理、ですか?」と私は聞き返した。

「野菜ならいいんです。トントンとかコンコンって切れるものなら。でも、ぐにゅって刃が入るようなものは、ダメです。切れなくなりました。切り落としならまだいいんですけど、ブロック肉はダメです。鶏のもも肉なんかも全然ダメで、こう、刃の入る感じが」

「そうですか」

「克洋は……息子は唐揚げが好きなんです。でも、ダメですね。しばらく作ってあげられそうにないなって」

「そうですか」

「こういうのって、いつか治りますかね。考えないようになりますかね」

 犯罪による死別でPTSDを発症する遺族は少なくない。彼女の訴える症状がここで収まるものなのか、いつか消えるものなのか、もっと強い症状の前兆なのか、今は何とも言えなかった。

「有美さんの感じ方は決しておかしなことではありません。無理に考えないように、感じないようにと気を回す必要はないです」

 今の私にできるのは、クライエントが感じているその不快感がなるべく早くなくなるよう、手助けをすることだけだ。

 その後、生活全般に対する不安などを聞き取り、初回九十分のカウンセリングを終えた。二週間後にまたここで会うことを約束して、私は彼女を警察署の外まで送り出した。

(続きは本誌でお楽しみください。)

top