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物語を愛するすべてのひとたちへ-小説すばる

2020年6・7月号 小説すばる

【新連載】
楡周平
「黄金の刻 小説・服部金太郎」

プロローグ


 窓の外が明るくなった。
 秋黴雨とはよくいったもので、このところ東京の天候はすぐれず、煙るような小雨が降っては止みする日が続いていたせいもあって、傾きかけた西日の中で庭木の緑がことさら鮮やかだ。
「雨、止んだね……」
 服部玄三は誰に語りかけるともなく、ぽつりといった。
「やっぱりお義父さまは、運をお持ちでいらっしゃるわ。まるで今日の席をお祝いするかのようね」
 隣に座る妻の英子が目元を細め、嬉しそうにいった。
 築地の老舗料亭『常磐』の大広間には、服部家の一族が漆塗りの膳を前にして、今日の主役の到着を待っていた。
 親、子、孫、三代全員で総勢六十名になろうかという大宴会である。
 正月には当主の屋敷を訪ねるのが恒例ではあるのだが、全員が一堂に会するのはいつ以来になるのか、玄三も定かではない。
 そのせいもあるのだろう、早くも歓談に花が咲き、大広間は人々の会話や笑い声で満たされて、開宴前とは思えぬ盛り上がりぶりである。
「あなた、どなたなのか心当たりはないの?」
 庭に目をやっていた英子が、いまだ空席になったままの席に目を向ける。
 英子のみならず、兄弟姉妹が到着する度に、玄三は同じことを訊ねられた。
 今日は身内、それも直系の子と孫に限った席である。発起人は長男である玄三だが、十三人の兄弟姉妹全員の総意を得て両親を招待する形を取った。もっとも、宴席の手配の一切合切を行ったのは玄三の秘書である。
 大広間を囲むように配置された膳の上には、それぞれの名前が記された紙が置かれていたのだが、本来玄三が座るはずの上座の席に自分の名前はなく、墨痕鮮やかに〝主賓〟と記された紙が置いてある。
 秘書に問うても、「昨日、社長からご指示がございまして……」というだけで、彼も主賓が誰であるのか聞かされてはいないという。
 身内だけの席に主賓として招待するからには深い縁があるか、あるいは並々ならぬ恩を受けた人物には違いないのだが、いくら思案しても見当がつかない。
「それがねえ、さっぱり分からんのだよ」
 玄三は座椅子に上体を預け、腕組みをしながら唸った。「身内だけの席に招待するというのだから、よほど大切な人には違いないんだが、一人だけとなるとねえ……。第一、招かれた方だって、居心地が悪いだろうし……」
「そうなんだよ」
 二人の会話に割って入ったのは、次男の正次である。「僕もずっと考えていたんだけど、兄さんのいう通りだよ。お招きするからには、兄さんの上座ってのは分かるけど、たった一人っていうのはよほどの理由があるはずさ。それだけ深い縁がある人なら、父さん、僕たちに話して─」
「こちらでございます……」
 その時、大広間の入り口から聞こえた秘書の声が、正次の言葉を遮った。
 見ると、ほぼ父親と同年齢と思しき老婦人の姿がある。
 七十前後と思われるのに、ピンと伸びた背筋。頭髪は白髪の方が多いが、肌艶には張りがある。上品な柄の和服を一分の隙もなく身に纏った姿からは滲み出るような気品が漂っている。
 瞬間、一族全員の視線が老婦人に集まり、大広間は静寂に包まれた。
 老婦人は座敷に一歩足を踏み入れたところで座し、畳に両手をつくと、
「失礼いたします……」
 凜とした声でいい、深々と頭を下げた。
 その所作がまた美しい。
 女性? 父さんと同年齢の? この人はいったい何者なんだ……。
 てっきり主賓は男性と思い込んでいただけに、驚いたなんてものじゃない。どうやら正次も同じ思いを抱いたらしく、二人は思わず顔を見合わせた。
「どうぞ、こちらの席に……」
 秘書に促されるまま老婦人は立ち上がると、座布団を前にして再び両手をついた。
「あ……あの─」
 玄三が話しかけようとした瞬間、
「私、河村浪子と申します」
 老婦人は自ら名乗った。
「かわむらさん……」
 はて、初めて耳にする名前である。
「旧姓を辻と申しまして、金太郎さんとは─」
「辻さんとおっしゃいますと、父が最初に奉公に上がった、辻屋さんの?」
「はい、辻条吉の娘でございます」
 浪子は、静かに頷きながら口元に穏やかな笑みを湛える。
 そうか、そういうことか……。
 合点がいったその時、秘書が再び現れると、
「社長が到着なさいました」
 重々しい声で告げた。
 席に着いていた全員が、立ち上がって迎えようとするのを、
「いやいや、そのままでいいよ。今日は身内だけの席だ。今夜は気楽に、楽しくやろう」
 明るい声で制し、子供と孫が全員揃った様子に目を細めたのは、「服部時計店」創業者の服部金太郎である。
 深い光沢を放つ黒の背広に白のワイシャツ、白の蝶ネクタイ。
 来月には七十歳になるというのに背筋はピンと伸び、足取りもしっかりとしている。正月にはここにいる全員から年始の挨拶を受けているとはいえ、一堂に会するのがよほど嬉しいと見え、目元を緩ませている。が、炯々と光る目は鋭い。年齢相応なのは真っ白な頭髪くらいのものだ。しかし、それも豊かで、老いの象徴というよりも、一代にして日本一の時計商に上り詰めた威厳を際立たせる。
 金太郎は、続いて現れた妻のまんと並んで立つと、二人同時に席に着く。
 玄三は座布団を降りると、
「お父さま、古稀をお迎えになられましたこと、一同を代表してお祝い申し上げます」
 畳に両手をつき祝いの言葉を述べ、金太郎に向かって深く頭を下げた。
「ありがとう。こうして、家族全員に集まってもらって、古稀を祝えることを心から嬉しく思うよ」
 金太郎は、心底嬉しそうに頷くと、浪子を向いて姿勢を改め、「本日は、お忙しい中、私のたっての願いをお聞き届けいただき、ご臨席賜りましたこと、御礼申し上げます」
 畳に両手をつき、丁重に頭を下げた。
「そんな、もったいのうございます。私のような者を、お身内だけの席にお招きいただき、身に余る光栄にございます……」
 口調こそ穏やかだが、浪子の声からは、明らかに戸惑っている様子が窺えた。
 それは、居合わせた全員も同じである。身内ばかりの席だ、気楽にやろうといったばかりなのに、金太郎の丁重な挨拶を目の当たりにして、皆一様に怪訝な眼差しで浪子を見る。
「宴に入る前に、皆に紹介しておこう」
 金太郎は、そう前置きをすると一同に向き直った。「私、服部金太郎には二つの誕生日がある。一つはこの世に誕生してからの年齢で、来月七十歳の古稀を迎えるわけだが、もう一つは実業の道を歩み始めてからの年齢だ。今日の私があるのはこの世に生を与えてくれた両親のお陰で、父母には限りない感謝と恩義を感じている。そして、私が実業家として今に至る第一歩を踏み出した店の主・辻条吉氏は、実業家・服部金太郎の生みの親である。辻条吉氏にも、父母同様に無限の感謝と恩を感じている。事業に成功した上に長寿にも恵まれ、こうして古稀を迎えた姿を共に祝えたらどんなにいいかと思うのだが、残念ながら三名とも故人となってしまった今となっては、願いは叶わない。そこで、本日は辻条吉氏のご長女であらせられる、河村浪子さまをお招きし、古稀を共に祝ってもらうことをお願いしたのだ」
 そこで、金太郎は浪子に視線を向けると、
「浪子さん、お父さまから学んだことは、商売のいろはだけではありません。経営者としてのあり方、いや人のあり方。何を学び、何を考えなければならないのか。齢十三で奉公に上がったその日からの二年間が、いまに至る私の礎となったのです。粗宴ではありますが、ここに居並ぶ全員を家族だと思し召して、今日は存分にお楽しみ下さい」
 また深く頭を下げた。
「そんな、家族だなんて、もったいのうございます……」
 ますます困惑するばかりの浪子に、
「河村さま、お言葉を賜れれば、父も喜ぶかと……」
 玄三は促した。
 金太郎が、目元を緩めながら頷くと、
「では、僭越ながら高い席から失礼申し上げます」
 浪子は腰を浮かしかけた。
「身内の席です。どうぞそのままで……」
 玄三が制すると、
「そうですか……では……」
 改めて姿勢を正すと、金太郎の辻屋での働きぶりや、父親の条吉による評価をとても年齢を感じさせない凜とした声で話し始めた。

(続きは本誌でお楽しみください。)

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