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物語を愛するすべてのひとたちへ-小説すばる

2020年5月号 小説すばる

【新連載】
小野寺史宜
「奇跡集」

第一話

青戸条哉の奇跡 竜を放つ

 

 暴れ竜がいる。どこにって、腹に。

 ヤバい。相当ヤバい。ぼく史上最悪レベル。過去最凶の竜だ。

 電車に乗ってる。七人掛けの座席の真ん中、その前に立ってる。朝の満員電車では落ちつける位置だ。駅に停まっても動かなくていい。降りる人のためにスペースをつくらなくていい。

 のだが。

 これはこれでヤバい。もう無理、降りよう! と思ってもすぐには降りられない。いざというときのためにドアに寄っておくべきなのだが。動くのもまたツラい。

 よりにもよって、快速電車。駅をいくつも飛ばす。次の停車駅までは十五分。長い。今の駅で降りておくのだった。完全な判断ミスだ。

 七月。まだ梅雨は明けてないが、今日は晴れてる。ほぼ夏。走ったから汗をかいた。電車に乗り、一気に冷やされた。腹も冷やされ、なかの竜も刺激された。

 電車に駆けこみ、この位置を確保して落ちついたのだが。すぐに、あれ、ちょっとヤバいか? と思った。腹のなかがキュウッとした。で、次の駅を出た途端、キュルルルッと一気に来た。

 腹の暴れ竜問題にはメンタルが大きく関わる。ヤバいと思ったらもうヤバい。ダメだと思ったらもうダメだ。自然に治ることはない。トイレ以外の場所で問題を解決することはできない。

 またよりにもよって、今日は試験。まだ試験期間ではないが、授業内試験があるのだ。大学一年の前期。初っ端の試験。受けなければアウト。早くもその科目の単位を落とすことが決まる。四月からここまで三ヵ月強の出席がすべて無駄になる。

 出席重視の授業だから、一時限目なのにがんばって出席を続けた。二つのレポートも出した。八割出席してレポートを出して試験を受ければ単位を落とすことはないらしい。同じクラスの三木令斗くんがそう言ってた。試験の点数が悪くても落とされはしないということだ。ただし、受けなければ落とされる。

 で、今この状況。

 ぼくはいつもそうだ。タイミングが悪い。大事なときに、決まってこんなことになる。

 普通に行けば、授業開始の七、八分前には教室に着ける。この状態で普通に行けるか。行けない。トイレに寄らないわけにはいかない。

 途中の駅で降りてトイレに行き、次の各停に乗る。それでは間に合わない。このまま大学がある駅もしくは大学に行けたとしても、駅のトイレや大学のトイレで用を足せるかどうか。充てられる時間は五分。都合よくトイレの個室が空いてるとも限らない。

 そのときは。トイレに行かない? 無理無理。絶対無理。この状態で試験を受けられるわけがない。頭では問題を解き、腹では竜を制御。そんな器用なこと、できるはずがない。

 今日のこれは予想外だった。

 意味がわからない。昨日はコンビニでのバイトを終えてアパートに帰り、試験勉強をした。晩ご飯を食べすぎたりはしてない。冷たいものを飲みすぎたりもしてない。

 まずぼくは夏でも冷たいものを飲まない。アパートの部屋でも温かいお茶を飲むことが多い。ペットボトルのお茶をマグカップに移し、電子レンジで温めて飲むのだ。

 昨日も勉強中はそうした。二杯飲んだが、二杯とも温めた。晩ご飯は、スーパーの割引幕の内弁当。ミックスフライ弁当と迷ったが、二十円安かったのでそちらにした。揚げものは小さなコロッケの半切れが入ってただけ。ミックスフライよりは腹に優しかったはずだ。食べながらお酒を飲んだりもしてない。

 ぼくは十九歳。お酒は飲めない。飲めるとしても飲まない。苦手なのだ。味も。酒なんてとっくに飲んでるよ、というノリも。だから、入学したての四月に開かれたクラスコンパにも行かなかった。

 そうなると、この竜の原因は何なのか。さらに遡り、あっ! と思い当たる。そうか、わかった。バイト中に店長がくれたコーラだ。青戸くん、飲んで、と休憩のときにくれた。三百五十ミリリットル缶。キンキンに冷えてた。

 ペットボトルではなく、缶。タブを開けたからには、全部飲むしかなかった。実際、飲んでしまった。休憩時間の十分で、CMのイケメンタレントばりにゴクゴクと。

 まちがいない。原因はあのコーラ。飲んだのは二十時間近く前。だったらそれじゃないでしょ、と思う人もいるかもしれない。それなのだ。自分の腹のことは自分が一番よく知ってる。

 無理にその場で飲まず、アパートに持ち帰ればよかった。ありがとうございます、あとでゆっくり飲みます。そう言えばすんでたのだ。言われた店長が、ダメ、今飲め、と言うはずもないのだし。

 原因はコーラ。納得がいった。が。状況は何も変わらない。それで竜がおとなしくはならない。

 この手の腹痛には波がある。外傷の痛みや頭痛みたいにずっと続くわけではない。たまには引いたりもする。次第に寄せのほうが強くなる。寄せばかりになる。周期は短くなり、痛みも強くなる。

 ヤバい。本当にヤバい。

 駅まで走ったことでかいた汗はとっくに引き、今はまた別の汗をかいてる。脂汗。ひたすら耐えてるうちに指先がしびれてくる。限界が近い証拠だ。

 満員電車なので、リュックは前に掛けてる。吊革から右手を離し、左手ともどもリュックの下に入れてパンツのベルトをつかむ。音を立てないようバックルを外し、ピンを入れてる穴を一番左にずらす。ついでにパンツのボタンも外す。

 腹の締めつけが弱まり、もわん、と痛みが拡散される。でも楽になるのは一瞬。痛みがなくなりはしない。波の引きを一回つくれるだけ。竜はすぐに戻ってくる。

 大事なのはメンタル。わかってる。とにかく気をそらすことだ。

 ぼくは吊革の上の鉄棒を両手でつかみ、全力で気をそらしにかかる。窓の外の景色を眺め、あれこれ考えにかかる。

 

(続きは本誌でお楽しみください。)

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