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物語を愛するすべてのひとたちへ-小説すばる

2020年4月号 小説すばる

【新連載】
遠田潤子
「紅蓮の雪」

序章
 朱里を焼いた日はよく晴れていた。
 真冬の透徹した青空は骨壺を包んだ白布によく映えた。俺は呆気なく逝ってしまった姉の骨を抱え、空をにらんでいた。姉を焼いた煙は空のどこまで上っていったのだろう。空のどこか高いところで朱里は楽になれたのだろうか。
 位牌を抱いた母もやはり空を見ていた。朱里が歳を取ったらこうなるだろうという綺麗な横顔だった。一見、喪服がよく似合う。なのに、母がぼんやりと佇むさまは、哀しみを堪えているというよりはただ退屈しているように見えた。
 タクシー乗り場はすこし先だ。俺は一歩一歩足許を確かめながら歩き出した。幼い頃からいつも隣に朱里がいた。突然いなくなると、なんだかバランスがおかしい。身体が勝手に傾いて、真っ直ぐ歩いているつもりなのにどこかへ逸れていくような気がした。
 俺は家にある小さな仏壇を思った。今、入っているのは父だけだ。今度はそこへ朱里を入れることになる。父と二人きりなど朱里ははじめてではないか。朱里は一体なんと言うだろう。
 俺の後ろを歩いているのは内藤だ。憔悴しきった顔でついてくる。東京からたった独りで参列した。朱里の元婚約者だ。
「伊吹君、本当はなにか知ってるんだろう?」
 内藤が俺に呼びかけた。黙って振り向くと、内藤の眼は真っ赤だった。朱里が内藤との婚約を一方的に破棄したのは一ヶ月前だ。朱里はその理由を決して語らなかった。
「なあ、頼む。教えてくれ。なぜこんなことになった? なぜ朱里は死んだんだ? 婚約を破棄したことと関係があるのか?」
 何度繰り返された質問だろう。もう聞き飽きた。だから、また同じ返事をした。
「わからない」
「朱里は君になら話したんじゃないのか?」
「俺はなにも知らない。朱里はなにも言わなかった」
「噓だ」
「いい加減にしてくれ」
 食い下がる内藤をにらみつけた。内藤も俺をにらみ返す。澄んだ明るい冬空の下、しばらくの間、俺たちは無言で向かい合っていた。
 そのとき、母がゆっくりと内藤に顔を向けた。ごく静かに言う。
「内藤さん、もう済んだことでしょう? 死んだ人は還らへんのやから」
「済んだこと? 自分の娘が死んだのによくそんなことが言えますね」啞然とした顔で内藤が言う。
「だって、あの子は私と同じ血が流れてたから」
 どうでもいい、といったふうに母は首を左右に振った。そして、また空を見た。内藤は手応えのない母に見切りをつけ、俺に向き直った。
「朱里はずっと言ってた。─伊吹を独りにするわけにはいかない。この世にたった二人だけの双子だから、って」内藤の眼に涙が浮かんだ。「伊吹君、本当のことを言ってくれ。君が結婚に反対したんだろ? だから、朱里は死んだんだ」
「違う。俺は朱里があんたと結婚して幸せになるもんだと思ってた。反対なんかするわけがない」
「じゃあ、なぜ」内藤が悲痛な声を上げ、大粒の涙を流した。
 俺は朱里の骨を抱えたまま立ち尽くしていた。嘆き悲しむ内藤も、まるで他人事のような母も、どちらもただただうっとうしかった。
「教えてくれ。朱里に一体なにがあったんだ? なんでこんなことになったんだ」
 この男はまだいい。こうやって泣くことができる。だが、俺は泣くことすらできない。朱里の死が理解できない。朱里がこの世からいなくなってしまったなんて、到底信じられない。双子だった俺たちが、まさか離ればなれになるなんて。
 内藤をにらみつける気力もなくなった。ぼんやりと佇んでいると、ふと母が呟いた。
「あ、雪や」
 俺も朱里の骨を抱いたまま、高い空を見た。雪が落ちてくる。風に揺れて、右へ、左へ、ひらひら、くるくると落ちてくる。

 あれは保育園の発表会の日だった。出し物は「笠地蔵」で、俺と朱里は村の子供の役だった。空を見上げて言う。
 ─あれ、雪が降ってきた。
 ─本当だ。雪が降ってきた。
 ひらひらと紙で作った雪が降ってくる中、俺と朱里は手を繫いで退場した。
 発表会を見に来たのは母だけだった。父の姿がなかったことに関して、母はなにも言わなかった。俺と朱里も訊ねたりしなかった。いつものことだからだ。
 帰り道、俺と朱里は二人並んで、母の後ろを歩いていた。すると、本物の雪が落ちてきた。ひらひらと晴れた冬の空を舞っている。俺は空を見上げた。澄んだ青のどこかから雪が降ってくる。雪雲など見えないのに、一体どこから雪は落ちてくるのだろう。
 ─紙雪が降ってくる。
 かすれた声で母が呟いた。母はそれきり動かない。空を見上げたまま立ち尽くしている。どうしたのか、と顔を見て驚いた。母は声も立てずに泣いている。雪空を仰いだまま、滂沱と涙を流していた。
 俺は急に不安になった。思わず母の手を握ろうとしたが、乱暴に振り払われた。俺はアスファルトの上に尻餅をついた。冷たさと痛さで尻から背中にかけて、じいんと痺れた。
 朱里が黙って手を差し出した。涙を堪えて、俺は朱里の手を握った。熱い手だった。朱里が強く握りかえしてきた。俺は立ち上がった。
 その瞬間、理解した。この世界に自分たちは二人きりだ。俺と朱里、双子二人きりで生きていくしかないのだ。と。

 朱里を焼いた煙が上る空から、雪が降る。
「妄執の雲晴れやらぬ朧夜の、恋に迷いし我が心……」
 母は空を見上げたまま、小さな声で長唄「鷺娘」の出だしを唄った。
 俺も十二月の空を見ていた。発表会の日と同じだ。晴れている。雲などない。ただ、静かにひらひらと雪が落ちてくる。母の眼には、あの空のどこかに紙雪を降らせる妄執の雲が見えるのだろう。
「あの子は飛んだんやね」
 位牌を手にした母は透明な冬空を見上げたまま、羨ましそうに呟いた。

(続きは本誌でお楽しみください。)

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