2020年3月号 小説すばる
【新連載】
瀬尾まいこ
「その扉をたたく音」
1
いた、天才が。いや、ここまできたらもはや神だ。どうしてこれほどの能力のあるやつが、こんなところにいるのだろう。真の神は思いもかけない場所にこそ、現れるものなのだろうか。
目の前の男がサックスで奏でる音楽。最初の音を聴いただけで、俺は体中が反応するのを感じた。そして、演奏が進むと、胸の奥のそのまた奥。自分でも触れたことない場所に、音が浸透していく。
俺だけではない。目の前に座る、じいちゃんやばあちゃんも涙ぐんでいる。当然だ。この本物の音を聴けば、自然に心は揺らされ涙はあふれる。正真正銘の一切の混じりけのない音楽。もっと耳に刻み込もうと俺は目を閉じた。そのとたんだ。サックスだけでなく、今にも倒れそうなしわがれた声が耳に届き始めた。いったいなんだと目を開けると、目の前ではじいちゃんやばあちゃんが、音程もテンポも無視し思い思いに、「ふるさと」を口ずさんでいる。おいおい、お前ら感動してたんじゃないのか。黙って聴きほれていればいいものを。俺がサックスの音だけに耳を澄まそうとするのをよそに、じいちゃんたちの歌はどんどん盛り上がっていく。
山は青き、ふるさと
水は清き、ふるさと
全集中力をもってしても、じいちゃんたちの声は耳から追い出せず、年寄りのかすれた声を聴いているうちに演奏は終わってしまった。
「宮路さん、今日はありがとうございました」
演奏を終えた神様は、サックスをテーブルの上に載せると、俺の前に来て深々と頭を下げた。
「いや、まあ」
「宮路さんのギターと歌を聴いて、利用者さんもみんな喜ばれてました」
「ああ、それならよかった」
うそだ。神様がサックスを吹き始めるまで、じいちゃんもばあちゃんもしかめっ面をしているか、居眠りをしているかだった。
ギターの弾き語りをするよう、俺に与えられた時間は、四十分。演歌や唱歌。年寄りの知っている曲を歌ってやろうかとも思ったけど、音楽って迎合するものじゃない。俺の奏でたい曲に誰かが乗ってくる。それが音楽だ。だから、あえて好きな曲を歌った。ミスチルにバンプ・オブ・チキンにグリーン・デイにオアシス。ついでに俺のオリジナルソング。
ミスチルを歌っているときはパラパラ拍手も聞こえた。それが、洋楽になると半数が眠り始め、俺のオリジナル曲を披露するころには、手拍子は一切聞こえなくなった。今を生きる魂の叫びを歌った渾身の歌なのにだ。まあしかたがない。年寄りには洋楽もロックもポップスもわからないのだから。
俺が静けさの中、前に立つのにいたたまれなくなったころ、神様がやってきた。
「まだ時間はありますが、どうしましょう? 切り上げましょうか?」
そのとたん、眠っているか途方に暮れていたじいちゃんやばあちゃんが「コウちゃん、吹いてちょうだいな」「わけわからん曲聴かされて耳おかしくなったわ。ええ歌聴かせて」と口々に言いだした。そして、奏でられたのが、あの「ふるさと」だ。
「また機会があればぜひいらしてください。ありがとうございました」
サックスの腕前もすごければ、社交辞令も完璧だ。神様はにこやかな笑顔で俺にそう言うと、会場を片付けはじめた。
「いやいやいや、君。君、すごいだろう?」
「えっと、何がでしょう?」
胸元には渡部と名札がついている。俺と同じくらいか少し年下だろうか。背はすらりと高く、サックスを吹いていた時は力強く見えた体も目の前にすると意外に華奢だ。
「サックスだよ。すごいうまいじゃん」
「ありがとうございます」
「プロ級だろ? いや、神だ神」
「気に入っていただけて良かったです」
言われ慣れているのだろうか。神様はさらりと流すと、「デイのバスがもうすぐ来るから一階フロアに移動お願い」と他のスタッフに指示を出した。
「聴いてたじいちゃんやばあちゃん、泣いてたぞ」
「利用者さんはすぐに泣かれる方が多いんですよね。この前、腹芸を見せに来てくれた大学生たちがいたんですけど、彼らが帰る時にも涙を流されてました」
なんだよ。腹芸でも感動するくせに、俺の歌には無関心とは、じいちゃんたちってどれだけセンスがないんだ。
「っていうか、君のサックスさ……」
「あ、すみません。いろいろお話ししたいんですけど、今から利用者さんの送りがありまして」
「ああ。そっか。そうだな」
渡部君は軽やかな笑顔を見せたまま、手も足もてきぱき動かしている。威圧感はないけど、邪魔をしちゃいけないという空気がそこにはある。
「それじゃあ」
「本当にありがとうございました」
「ああ」
渡部君に一礼し、歩き始めた俺は振り返った。
あの音を、あの音楽を、もう一度聴きたい。どうしたって、それをあきらめるわけにはいかなかった。
「いや、ちょっと待って。君、その渡部君、また吹くのか?」
「ええ。今日は湿気が多くて床も滑りそうなので。雨が続くと、困りますね」
さっきパイプ椅子を片付けていた手は、もうモップを握っている。こいつ、動きも神業だな。
「いや、床じゃなくて、サックス」
「サックス?」
「また今日みたいに吹くのかなって」
「どうでしょう。金曜はレクリエーションがあるので、ボランティアで来てくれる人が見つからなかったり、今日の宮路さんみたいに時間がもたなかったりした場合は吹くこともあります」
金曜日。誰も芸を披露する人間が来なかったら、またあのサックスを聴く機会がある。それがわかれば十分だ。
「わかった」
俺はそううなずくと、老人ホーム「そよかぜ荘」を後にした。
(続きは本誌でお楽しみください。)
