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物語を愛するすべてのひとたちへ-小説すばる

2020年2月号 小説すばる

【新連載】
藤岡陽子
「夕空のうらがわ」

一章

 診察室の前に並ぶ待合席からは、外の景色を眺めることができた。長椅子が置いてある廊下のつきあたりが窓になっていて、そこから大きな樹木の枝が見える。冬枯れの枝に葉は一枚も残っていなかったが、あれはきっと桜の木だ。枝の先に付いている涙の雫のような冬芽が、木枯らしに吹かれて揺れていた。
「あれ……もしかして笹本くん? あなた、笹本遼賀くんじゃないですか」
 ぼんやり窓のほうに目を向けていると、突然自分の名前を呼ばれた。顔を上げると白衣姿にマスクをはめた看護師らしき女が遼賀を見下ろしている。とっさのことで遼賀が啞然としていると女はマスクをずらして、
「私のこと、憶えとらん?」
 と訊いてきた。語尾に故郷、岡山の訛りがある。
「えー、ひょっとして忘れちゃった? 私、矢田です。高校で一緒だった矢田泉」
 正直なところ顔はすっかり忘れていたけれど、「矢田泉」という名前には記憶があった。たしか一年から三年まで同じクラスで、部活はたしか……。
「ああ、美術部だった矢田さんだ」
「そうそう、美術部で下手な絵を描いてた矢田泉です。部活まで憶えていてくれてありがとう」
 目を細めて笑うその顔を見て、高校生だった頃の矢田泉が鮮明に思い出された。特別に仲が良かったわけではないが、心底楽しそうなこの笑顔は憶えている。
「ところで、遼賀くんはなにしてるの? ってそりゃ受診だよね。病院に遊びに来てるわけないよね」
「今日は消化器外来に予約取ってて」
 遼賀は『12月10日 午前10時20分』と印字された予約伝票を矢田に見せた。予約の時間からもう、一時間以上も過ぎている。職場には「ランチタイムのピークまでには戻るから」と伝えて出てきたのに、このぶんだと大幅に遅れてしまいそうだ。
「十時二十分?」
 矢田は予約伝票を確かめた後、「ずいぶん待たされてるねぇ」と顔をしかめた。
 パンツタイプの白衣を身に着けた矢田は、学生時代の印象とはまるで違い、すらりとした美人になっていた。考えてみれば高校を卒業して十五年も経っているのだ。別人のように見えても不思議はない。
「矢田はここで働いてるの? あ、いまも矢田……でいいのかな」
「うん、ナースしてる。名字も変わってない、矢田のまま。いヤダけど、矢田のまんま。いまの駄洒落、気づいた?」
 当時もこんなキャラだったかと高校時代の記憶をたどっていると、「遼賀くん、東京に出てきてたんだね。じゃあ恭平くんもこっちにいるの?」と訊いてくる。
「恭平は地元で高校の体育教師してるんだ。いまは盆と正月くらいしか会ってなくて」
「えー、そうなんだ。双子っていつでもどこでも一緒っていうイメージあるのに」
「そんなの子供の頃だけだよ。三十三にもなって一緒にいたらおかしいって」
 本当のことを言えば、恭平と自分は同じ学年だが双子ではない。二人の生年月日を見比べればすぐにわかることなのだが、誰もそんなことをしなかったおかげで同級生の間では二卵性の双子として通っている。
「恭平くん、体育の先生になったのかぁ。野球は? もうやめたの?」
「さすがに引退したよ。大学で右肘を故障したんだ。でもいまは野球部の監督してる」
「監督かあ。格好いいね」
 恭平の話題が出る時、女の子たちはいつもこんな顔をする。スイーツを食べた時と同じ、幸せそうな笑み。そういう遠い記憶までが芋づる式に蘇ってくるのと同時に、マイクの声が遼賀の名前を告げた。
「あ、ごめん、呼ばれた」
 椅子に置いていたリュックを持ち上げると、矢田が「担当、松原先生か」と呟き、ほんの一瞬複雑な表情を見せ、マスクを元に戻した。その口調が気にはなったが立ち話をしている余裕はなく、「じゃあ」と手を上げ診察室に向かった。矢田がさっきと同じ笑顔で、「お大事にね」と手を振ってくれる。

「笹本さん、お待たせしました。どうぞお座りください」
 診察室に入ると、パソコンの画面を見ていた松原が顔を上げた。その表情を窺いながら、丸椅子に腰を下ろす。部屋の空気が張りつめているように感じるのは、自分が緊張しているからだろうか。
「この部分、見えますか」
 松原が手元のマウスを滑らせ、パソコンの画像を拡大した。
「先日の胃カメラではこの辺りの粘膜の細胞を取って検査に出しました。それで、細胞診の結果ですが……」
 松原の口元にほんの一瞬ためらいが浮かぶ。
「悪性でした。悪性腫瘍です」
 度の合わない眼鏡をかけた時のように松原の顔がぼやけて見え、つい数秒前まではっきりと聞こえていたはずの声もこもって聞こえる。悪性腫瘍……。それは、がんということだろうか。頭の中いっぱいに、普段聞きなれない悪性腫瘍という言葉が拡がってくる。
「笹本さん、大丈夫ですか」
「あ……はい」
 いますぐダウンジャケットのポケットに入っている携帯を取り出して、それが本当にがんなのかどうか検索したい。
「精密検査を受けていただきたいと思っていて、できれば明日にでも入院を─」
 一言、二言、松原に問われるままに言葉を返し、いつの間にか診察が終わっていた。これほどの衝撃を受けているのに椅子から立ち上がったり、頭を下げたり、「ありがとうございました」と口にしている。
 診察室を出るとひどい眩暈に襲われた。その揺れは独楽の軸にでもなったかのように烈しく、近くにあった椅子の背もたれに手をかけ、そのまま倒れ込むようにして腰を下ろす。耳の奥で鼓動の音が大きく響く。無性に喉が渇いていた。
 ふらつきが少し落ち着いてくると、遼賀はダウンジャケットのポケットに入れていた携帯を引き抜いた。電話をかけたい、と思う。だが電話をかける相手が思い浮かばない。震える指先を、ガラスフィルムの上に置いて固まっていると、「すみません、この場所での携帯の使用は控えていただいているんですよ」と肩を軽く叩かれた。顔を上げれば、母と同じ年くらいの女が困惑顔で遼賀の顔を見つめている。制服を着ているので職員なのだろう。
「携帯は、院外で使ってもらうことになってるんです。ごめんなさいね」
 すまなそうにそう言われ、
「すみません」
 と慌てて電源を切る。
 まだなにか言おうとしている女に会釈し、受付カウンターのほうへ歩いていく。今日中に入院の予約を済ませるようにと松原から言われていたが、仕事のことを考えればすぐに入院なんてできるわけがなく、会計だけを済ませて病院の外に出た。
「乗るんですか」
 病院の玄関先に停まっていたタクシーの運転手が、窓を半分だけ下ろして声を掛けてくる。ほとんど無意識に歩いているうちに、タクシー乗り場に来ていたようだ。
「……乗ります」
 緩慢な動きでシートに滑り込むと、タクシー特有のプラスチックを溶かしたような臭いにえずきそうになる。
「お客さん、行き先は?」
「五反田にある『トラモント』って店、わかりますか」
 港区にある大学病院から店までなんて、普段ならもったいなくてタクシーになど乗れない距離だった。だが今日はとてもじゃないが、混雑した地下鉄に耐えられる気がしない。
「五反田? 虎の門? どっち」
「あ、いいです。JR五反田駅までお願いします」
 老舗の料亭でも、ミシュランガイドに載っているような高級店でもないレストランを、タクシー運転手が知っているわけもない。洒落た名前がついているが、遼賀の勤める店はいわゆるファミリーレストランだ。安さとメニューの豊富さが売りの、学生や家族層をターゲットにしたチェーン店だった。
 タクシーが走り出すと、遼賀は窓の外の景色に目を向けた。時間はちょうど正午を過ぎたところで、OLやサラリーマンがランチを取る場所を求めて財布片手に闊歩している。風が強いのだろう。女たちの長い髪が空気に巻かれていた。ありきたりのなんでもない光景を見ていると、苦く酸っぱいものが胃の中からせり上がってきそうになる。
 胃の調子が悪いなと感じ始めたのは、もう半年ほど前のことだろうか。だが悪いと言っても時々痛むというくらいで、市販の胃腸薬を飲めばおさまる程度の痛みだった。
 それがこのひと月ほど前からは薬を飲んでも痛みが消えなくなった。眠っている時も自分の呻き声で目が覚める。気がつけば鳩尾を両手で抑え込み、布団の中で小さく丸まっているということが連日続いた。胃袋を錐で突かれたような、経験したことのない強い痛みを感じるようになって、さすがにこれはまずいと思い近所の内科クリニックを受診したのだ。
 クリニックではおそらくストレスからくるものだろう、と鎮痛剤を処方された。だが念のために胃カメラを受けることを勧められ、紹介状を持ってこの大学病院に来たのが一週間前のことだ。受診した翌日には胃カメラの検査を受け、今日は検査の時に採取した細胞診の結果を聞きに来たのだが……。
 車が赤信号で止まり、目の前の横断歩道を大勢の人が渡っている姿を見ていると、松原の言葉が暗く蘇る。
 悪性でした。悪性腫瘍です。精密検査を受けていただきたいと思っていて、できれば明日にでも入院して─
 大学病院で医者をやっていたら、がん患者なんて珍しくもないだろう。それは充分にわかっている。それでも、あのいきなりの告知はあまりにも非情ではないだろうか。どう告げられても悪性は悪性だが、でももう少し違う言い方があったんじゃないのか。それに明日入院しろというのも無茶な話だ。こっちは定年退職して隠居している身じゃないのだ。仕事の引継ぎもしないまま入院なんてできるわけがない。
 怒りをぶつける相手が他にいないのでひとしきり松原を恨んだ後、それは違うぞ、と自分に言い聞かせる。がんの告知をする直前に見せた、松原の表情。あの医者も告知をしたかったわけではないのだ。あの人はなにも悪くない。自分が病気になったのは、誰かのせいではない。
「お客さん、そろそろ五反田駅ですけど? ここから先の道順、教えてもらえますか」
 いつしかシートに凭れて、目を閉じ黙り込んでいた。そんな遼賀に気を遣ってか、運転手は駅に着くまでいっさい話しかけてこなかった。顔を上げて窓の外を見れば、知った風景が目に飛び込んでくる。
「あ、ここでいいです。降ります」
 ダウンジャケットの袖を両目に強く押し当て、瞼の熱を吸い取る。ずっと泣くのを我慢しているせいか頰が火照り、目の奥が熱かった。
 遼賀が財布から五千円札を抜き出し運転手に渡すと、
「元気出しなさいよ」
 釣銭を差し出しながら、運転手が小声で言ってきた。はっとして、車に乗り込んで初めて運転手と目を合わせる。
「病院で客待ちしてるとね、おたくみたいなお客さんを時々乗せますよ」
 運転手の脂も水気もないかさかさとした指の先が、遼賀の手のひらをかすめる。
「事情はよくわかりませんけどね、元気出してください。ご乗車ありがとうございました。お気をつけて」
 たったそれだけの会話だったが、言葉以上の気持ちをもらった気になり、丸まった背を伸ばすくらいの力は戻った。

(続きは本誌でお楽しみください。)

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