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物語を愛するすべてのひとたちへ-小説すばる

2019年9月号 小説すばる

【新連載】
石田衣良
「禁猟区」

      1

 目の前にはかさかさに乾いた白い獣の肌のようなクロスの壁紙が見えた。そこにレースのカーテンの影がさして、複雑な模様がほの暗く浮いている。
「……あっ、あっ」
 自分の口から漏れている声とは思えなかった。意識して出している訳ではない。夫のペニスが内臓を突きあげてくるので、肺を押されて自然に声が漏れるだけなのだろう。その証拠に文美子はほとんど感じていなかった。身体の奥の遠いどこかに快楽は隠れている。ただ夫ではそこに届かなかった。賢吾がいくら腰をつかっても、さして違和感と痛みがない程度の濡れかたしかしていない。
「いいか、文美子」
 うわずった男の声が背中のすぐ後ろできこえる。返事はしなかった。授乳を終えて、ひどく柔らかになった乳房にも、すこし高さの落ちた尻にも、肝心の性器にも三分とふれてはくれなかった。背中にあたるのは着たまま後背位でつながる夫のパジャマだ。サックスブルーとホワイトの綿のサッカー生地で、父の日に文美子が贈ったものだった。
 最近はいつもこうだ。パジャマの下だけ脱いで、月に二回六分間のセックスは、よろこびもときめきもなく終了する。
 前戯に三分、性交に三分。
 いや、これは正確じゃない。
 賢吾はいっしょに性を戯れることなどないし、妻とほんとうに交わることもないのだ。一方通行で自分勝手な前進後退が果てるまで繰り返される。それが雨宮家のセックスだった。今夜の虚しい前後運動も終わろうとしている。
「ああ、もういきそうだ」
 文美子はベッドサイドの壁のクロスを眺めていた。レースの影は蜘蛛の巣でできた迷宮のようで、そのなかに迷いこめば二度と脱出できなくなりそうだ。なんだか結婚生活に似ている。押し殺したうめき声とともに、夫のペニスが文美子のなかで何度か痙攣した。
 射精の後の男の醒めかたは驚異的だった。元のつまらなそうな声に戻っている。
「ティッシュとってくれる」
 いつものように三枚抜いて、振り向きもせずに肩越しに渡す。自分は一枚多く抜いて、足の間にはさみこんだ。文美子はゆっくりと身体を起こした。賢吾はもぞもぞとトランクスをはいている。目の隅で青白い足が暗いベッドにひらめいた。
 ワンピースタイプの寝間着をもって、バスルームに移動した。足が内股になるのは、ティッシュを落とさないためだ。バスルームの明かりをつけると、洪水のような光だった。ボディソープは使わずに、ぬるいシャワーだけで汗を流した。
「あっ……」
 身体の奥からなにかが流れてくる。思わず手がそこにいった。指のあいだをこぼれて、太腿に賢吾の精液が力なく垂れていく。文美子は肌を滑るぬめりを、ぬるい湯で落としていった。こんな砂を嚙むようなセックスのために、毎晩ピルをのむなんて馬鹿みたいだ。
「あれっ……」
 なぜか急に右の目から涙が一滴だけ落ちた。
 涙をぬぐったあとでも、別に悲しくなどなかった。ただの生理現象なのかもしれない。泣くことにも、濡れることにも、射精にも意味などないのだ。ただ生きものはそうして、身体から水分をこぼすことがあるのだろう。
 こんな夜にも、自分の心の充たされなさにも、意味はない。文美子はぬめりを一切感じなくなるまで、内腿をこすり続けた。

 手早くシャワーを済ませ、暗いマンションの廊下を寝室に戻った。賢吾は文美子の側に背を向けて寝ている。ベッドはいつも夫が左で、文美子が右だった。間の抜けた寝息が明かりの落ちた寝室を震わせている。セックスがつまらないと、男の寝息さえ煩わしかった。
 寝室からリビングを通り抜け、子ども部屋に向かった。英美莉は四歳で、近くの保育園に通っている。かわいい顔立ちをしているが、なぜかいつも表情が厳しい子だった。保育園でも一目おかれているという話だ。
 英美莉は今、放射状におかれたぬいぐるみの中央で眠っていた。数は七つ。どれも動物やアニメのキャラクターだが、すべてピンクで統一されていた。この七つのぬいぐるみがないと癇癪を起こし、夜は何時になっても寝ないのだ。面倒だけれど、旅行のときにはすべてもっていっている。
「寝てると、かわいいんだけどね」
 文美子に似て天然パーマの前髪が、汗で額に張りついていた。切れそうなほど細い髪を直してやる。熱でもあるのではないかという熱い額だった。子どもは眠るときでもこんなに命を燃やし生きているのだ。
 わたしの命は、いつになったらほんとうに燃えるのだろうか。こんなふうに汗だくで必死に眠ることがいつの日かやってくるのだろうか。
 四歳の娘の頰を突いて寝室に戻り、文美子は夫の隣に滑りこんだ。もうなにも考えるのはやめよう。そう心に決めて、決心した通りなにも考えずに眠りに落ちた。

(続きは本誌でお楽しみください。)

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