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物語を愛するすべてのひとたちへ-小説すばる

2019年8月号 小説すばる

【新連載】
今村翔吾
「塞王の楯」

 男の嘆き、女の悲鳴が町中を覆っている。まるで町そのものが慟哭しているようであった。
 皆が我先にと入り乱れて逃げ惑う。親とはぐれて泣きわめく幼子に見向きもしないなどまだましというもの。老婆を突き飛ばしてその背を踏み越える者、娘を蹴り飛ばして道を開こうとする者。このような時に人は人であることを辞めるらしい。
「諦めては駄目!」
 母は骨が砕けんほど強く握って手を引く。こうでもしていないと、とっくに恐慌する人々の群れに吞み込まれて離れ離れになっていたに違いない。一乗谷にはこれほどの人が暮らしていたのかと驚く。もう秋だというのに人が擦れた熱で、躰は激しく火照り、息も出来ぬほどに苦しい。
「どこに─」
 言いかけた時、追い越した男の肘が頰に当たり、声が途切れた。
「お城に」
 母はそれに気付かずに、館の背後に聳える山城を見上げた。
 町の名から取って一乗谷城と呼ばれるこの城が、陥落したことはこれまでない。こう聞けばさしも名城と思いがちだが実際はどうだか判らない。この城が戦で使われたことは、ただの一度もないだけなのだ。
 越前での朝倉家の威勢は強く、一揆程度なら一乗谷に迫るまでに鎮圧されてきた。この地は朝倉家によって、百年の安寧が保たれてきたのである。
 そんな一乗谷が騒然となったのは今日の夕刻のこと。朝倉家の当主、義景は二万の大軍を率いて盟友である浅井家の救援に向かっていた。それが這う這うの態で戻って来たのだ。兵はどの者も酷く窶れ、目の下に墨を塗ったような隈を浮かべ、眼窩は窪んで奥に怯えの色が窺えた。躰に矢が刺さったままの者、兜を失って髪を振り乱した者。まるで白昼に幽鬼が現れたかと見間違うほどである。
 そして放たれた一言によって、一乗谷は戦慄した。
 ─間もなく織田軍が踏み込んで来る。
 浅井家への救援が失敗し、朝倉軍は逆に追撃を受けた。越前の最南端である疋田城で踏み止まろうとしたが、そちらも猛攻を受けて陥落したとの報が入る。義景は行き先を変えて本拠一乗谷への撤退を決めた。
 その間も織田軍の追撃はさらに苛烈を極め、重臣忠臣の多くが刀根坂で討ち取られ、ここまで戻った兵の数は五百にも満たないというのだ。
 百年の平和というものは、人を弛ませるには十分だった。現実とは思えないのか、初め一乗谷の民はどこか夢の話を聞くような顔をしていた。しかし遠くに鬨の声や銃声が耳に届く段になって、民もようやく夢から覚めたように慌ただしく動き始めた。家財を纏める者、着の身着のまま逃げ出す者、まだその段になっても、
 ─お城があるから心配ない。
 と、余裕を見せていた者も少なからずいたのも確かである。
 織田軍が踏み込んで来たのはそれから僅か一刻後のこと。兵のみならず民も容赦なく襲われた。動くものあれば犬さえも撫で斬りにせん勢いに、町は蜂の巣を突いたような騒ぎになった。民は羅刹の如く振る舞う織田軍に追われて北へ北へと逃げ出した。
 初めは父母と二つ年下の妹の花代の家族四人で逃げていたが、芋を洗うような混雑の中、途中で父と花代とはぐれた。押し合いへし合いする肉の壁の狭間から、顔を涙に濡らしながら救いを求めて手を伸ばす花代を見たのが、最後の姿となっている。
「花代は……」
「心配ないから」
 振り返ろうとしたが、母は一層強く手を引き人の隙間に、身を捻じ込むように進む。
 一乗谷とはその名の通り渓谷の盆地に造られた町。町の外へ出ようと思えば南北二つのどちらかの道を使わねばならない。南の道からは織田軍が肉薄し、さらにそれよりも早く焰が追いかけて来る。皆が北への道へと殺到して、牛の歩みほどに滞っている。
「お城を目指せ! 朝倉様が踏み止まって下さる!」
 別れ際、人込みの中、姿も見えない父の叫び声が聞こえた。全体から見れば己たちの位置は中ほどだろうか。このままでは逃げるより早く、炎に巻かれてしまうかもしれない。せめて先を進む母と己だけでも行かせようと考えたのだろう。
 母はそれに従って城を目指しているのだ。こちらは北への道に比べれば、まだ人の数は少ない。
「館までもうすぐです」
 朝倉家代々の当主が住まい、一乗谷の民が「館」と呼ぶ建物が近づいている。当然、中に入ったことはないが、入ることを許された町の長老の話によると、主殿や会所のほかに庭園や花壇まである大層華美な造りであるらしい。己のような子どもだけでなく、大人たちもまるで御伽噺の竜宮城のようなところを想像して、いつか入る栄誉にあずかりたいと胸を膨らませていた。
 その館は四尺(約百二十センチ)ほどの高さの土塁で取り囲まれており、その隅に櫓や門が備えられている。さらにその外側には幅五間(約九メートル)の堀が巡らされているものの、戦国大名の防備としては心許ない。これは家臣の謀叛に備える程度のもので、万が一敵国の侵攻を許した場合は、館の背後にある山城に籠って戦うのだと幼い頃から聞かされていた。
 館の西側の正門に近づいたが、門は貝が蓋をしたように閉ざされている。加えてこれほど混雑しているのに、門の前に僅かな空間が出来ている。
 館を守る武士が数人刀を抜いて、殺到する人々を近づかせぬように威嚇しているのだ。
「御屋形様はどこに!?」
「織田軍を追い払って下さい!」
「退がれ、退がれ!」
 民から悲痛な声が上がるが、汗に顔を光らせた武士たちが、刀や槍を向けて追い払おうとする。すぐ後ろに織田軍が迫っているのだ。一刻も早く館に逃げ込み、さらにその後ろの一乗谷城に籠りたい。そうすれば当主義景が守ってくれる。名家朝倉を救わんと各地の大名が救援を送ってくれる。一乗谷の民は耳に腁胝が出来るほど聞かされており、この逼迫した状況でもそれを信じて疑わない。
「早く! 織田軍が─」
「お城に入れて下さい!」
 再び縋るような声があちこちから起こる。押し問答をしている間は無いと、民の一人が無断で館に踏み込もうとした。若い武士がその襟を摑んで引き倒し、胸元に刀を翳した。
「退けと申しておろう! さもないと……」
 倒された民は恐怖に顔を引き攣らせている。その時である。年嵩の武士が刀を素早く腰に納め、諸手を突き出して止めに入った。
「止めよ!」
「しかし……」
「この場は儂に任せよ。皆の者、気を確かに聞いてくれ!」
 年嵩の武士は人々に向けて高らかに呼びかける。何が始まるのかと皆が固唾を吞んで見守る。一時静かになったせいで、銃声、怒号、悲鳴の入り混じった音が耳朶に届いた。
「御屋形様はすでに落ちられた」
 年嵩の武士が発した一言に皆が呆気に取られる。衆の中の一人が声を震わせながら尋ねる。
「今……何と?」
「織田軍の追撃が思う以上に早く、ここ一乗谷ではもはや守り切れぬと考え、先刻さらに奥へと退去された。皆の者も銘々落ち延びよ。すまない……」
 捲し立てるように一気に言うと、他の武士に向けて合図を出す。武士たちは一斉に頷き、その場を離れ始める。
「俺たちはどうなる!?」
「守ってくれるんじゃなかったのか?」
「今まで年貢を納めていたのに、何てことだ!」
 怨嗟の声が渦巻くが、武士たちは見向きもせずに引き上げていく。ただ先ほどの年嵩の武士だけが心苦しそうな顔でその場を離れようとしている。
「ふ、ふざけるな!」
 民の一人が怒りを爆発させて武士に殴りかかった。武士は堪らぬと刀を抜いて斬り下げる。けたたましい悲鳴が上がる。
「仕方なかったのだ……こんなことをしている場合ではない。早く─」
 言い訳をする武士が絶句した。他の民が体当たりして武士の腰の脇差を抜き、そのまま腹に捻じ込んだのである。武士は顎を震わせてその場に頽れた。
 これで人々の中に残っていた最後の箍が外れた。背後の織田軍など忘れたかのように、目の色を変えた民は叫びつつ武士に向かって行く。武士も槍や刀で応戦するが、圧倒的な数に押しつぶされ、散々に踏みつけられる。
 この地獄絵図のような光景に躰が震えた。昨日まではきっと戦を嫌う温厚な民であったはず。それなのに武士を袋叩きにし、あの人の好さそうな年嵩の武士も倒され、血反吐するまで殴打されていた。
 次に民たちは塀を乗り越え館に踏み込む。誰かが閂を抜いたのか、門が内側から開かれ、我先にとどっと館に踏み込んだ。館に逃げたところで、織田軍の猛攻を避けられるはずもないことは子どもの己でも解る。せめて金品を奪って逃げようというのか。
 いや何も考えていないのかもしれない。まるで集団が一個の荒れ狂う獣になったかのように館へ迫る。後ろからも人の圧が強まり、指一本動かすにも苦労するほどである。銃声はさらに近づき、後ろでは悲鳴が連続する。織田軍が追いついて来たのだ。
「山へ……館を回って、山へ逃げなさい」
 胸を圧迫されて顔を歪める母は、手を摑んでいるのもやっとという有様であった。館からは山城までの道が整えられているが、そこを通れるのはいつになるか解らない。山肌を駆け上がって行けというのだ。
「でもおっ母は!」
「子どもなら足元を潜って抜けられる。早く……後で行くから!」
 このような母の形相は見たことが無い。剣幕に気圧されて頷くと、膝を折って身を揉むようにして屈んだ。人々の脚が無数に並んで揺れている。その光景はまるで闇を抱えた森の如くに見える。己を突き動かすのは死への恐怖か、生への執着か。懸命に息を吸い込んで生々しい木々を搔き分けていく。
 ようやく森を抜けた時、大きく胸を膨らませた。これほど息が出来ることがあり難く感じたことはない。躰は頭から水を被ったほどの汗で濡れている。
「おっ母……」
 今しがたまで己がいた、一つの塊となって揺れる集団を見た。しかし母の姿を見つけることは出来ない。黒光りする甲冑に身を固めた一団が向かって来る。馬上で指揮を執る将が何かを喚くと、ずらりと鉄砲隊が展開した。
「あっ─」
 指揮棒が振り下ろされる刹那、踏みつぶされた蛙のように地に伏せた。轟音と絶叫が頭上を乱れ飛んでいく。頭を押さえてがたがたと震えたのも束の間、毬の如く跳ねて走り出した。このままここにいれば必ず死ぬ。躰が己の命を守ろうと足搔いている。
 迷いは無かった。間断なく聞こえる銃声、断末魔の声を聞かぬように努め、ただ頂を目指した。
 今度は真の森。道なき道を駆け上がっていく。途中、腐った葉で足が滑り、斜面に顔を強かに打った。頰に切り傷が出来たがそれも気に留めず、すぐに脚を前へと動かした。
 斜面には土を掘削して作られた畝、こんもりと積み上げられた土塁が幾つもある。迫る敵を食い止める城の備えである。だが戦があれば、当然いるはずの兵の姿は無い。もしいたならば助けを請うことが出来る反面、誤って殺されたかもしれない。
 普段はこれほど冷静に考えることはないだろうが、重大な危機が己の心を無理やり大人に近づけようとしていると感じた。
 頂を目指すのだから、ただ駆け上がって行けばよいと思っていた。だが事はそう単純ではないらしい。兵を配するために斜面は平たく削られ、そこからうねるように路が伸びている。そこを走ると登っているつもりだったのに、知らぬまに下っている。敵を欺くための迷路のようになっているのだ。道なき道を進もうかと思ったが、それを阻むかのように木々が乱立し、時には崖に差し掛かった。これを搔き分けて、よじ登っていくのは難しい。
 途方に暮れかけたが、ふと斜面に顕わになった岩肌に目が留まった。
 ─こっちだ。
 目を凝らした。別に声が聞こえた訳ではない。ただ何となくではあるが、岩がそのように言っているように思えたのである。日常が瞬く間に崩壊したことで、己の心もどこかおかしくなったのか。そのようなことを考えたのも束の間、やけになって、岩の語ったほうへと走り出した。
 城下に火が放たれたのであろう。ここまで薄っすらと明るい。途中、何度も目を動かした。剝き出しになった岩、転がっている石、全てが語り掛けてくるような気がする。迷った時に目を瞑って声が聞こえぬかと試してみたが、やはり違う。刮目すれば再び話しかけてくる。己は何かを見て声を聞きとっている。色か、形か、紋様か、それは己にも解らない。考えても全く解らないし、考える余裕も無い。声のするまま、無我夢中で脚を動かした。

(続きは本誌でお楽しみください。)

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