close

物語を愛するすべてのひとたちへ-小説すばる

2019年7月号 小説すばる

【新連載】
奥田英朗
「リバー」

     序章 再来

 

 群馬県桐生市在住の藤原達夫(六十七歳)は、午後三時になると渡良瀬川の堤防を、犬を連れて早足でウォーキングするのが日課だった。地元の建設会社を定年退職後、関連企業に再就職し、五年間働いてきたが、そこも二年前に退職し、晴れてリタイアの身となった。今は妻と二人、三カ月に一度、国内旅行をし、年に一回、海外旅行をするといった恵まれた年金生活を送っている。
 すでに独立して子育てに追われる二人の息子からは、「いいよな、おやじの世代は年金満額で」と、いつも言われていた。達夫自身、自分たちは恵まれた世代だと実感していた。高度経済成長期に少年時代を過ごし、社会人になってからも右肩上がりの成長を続けていた。何度かの経済危機もあったが、企業の終身雇用は保たれ、普通に働けば一軒家が持て、二人の子供を大学までやれた。支給される年金は、夫婦合わせて毎月三十万円余りで、恐らくこの先、一生金には困らないだろう。
 となると大事なのは健康で、達夫はリタイアするとともに生活習慣を改め、健康促進と体力維持に努めた。こうして毎日、犬の散歩がてらウォーキングをするのもその一環である。最初は妻も一緒だったが、達夫の早足についてこられず、「あなた一人でどうぞ」と冷ややかに言い、本人はシニアの水泳教室に通い始めた。これについては、どうして自分も誘ってくれなかったのかと達夫は少々立腹していた。最近の妻は、どうも単独行動をしたがる傾向にある。今日は民生委員の仲間たちとカラオケをすると言って、一人で出かけて行った。達夫はのけ者にされているようで、面白くなかった。
 もっとも長い老後を考えれば、夫婦べったりというのも、よくはないのだろう。夫婦でも互いの世界を持った方がよいと、何かの本にも書いてあった。達夫は概ね心穏やかだった。感情はできるだけ抑えるようにし、老人にありがちな癇癪だけは起こすまいと気を付けている。
 柴犬に引っ張られる形で、達夫は背筋を伸ばして歩いた。できるだけ歩幅を大きくし、呼吸も深くとる。そうすると体の隅々まで活性化する感じがした。継続は力なりで、最近は太ももの筋肉も増えている。いつも行くマッサージの施術師から、「ご主人、筋トレしてるんですか」と言われたときは、たいそう気分がよかった。逆に体重は五キロ以上減っている。
 橋をくぐると、目の前に河川敷が広がった。野球の練習用グラウンドが何面もあり、近くの高校の硬式野球部員たちが汗を流している。乾いた打球音と、元気のいい高校生のかけ声が、澄んだ空気に響いている。
 堤防を降りて行く道すがら、用具運びをする部員たちから「こんにちは」という挨拶の声が上がった。すれちがう人には全員挨拶をするのが、この野球部の決まりなのだ。もちろん達夫も「こんにちは」と挨拶を返す。
「こんにちは」
「こんにちは」
 女子マネージャーも含めた一人一人が挨拶をするので、少々忙しくもある。
 達夫はこのやりとりが好きだった。ときには妻としか口を利かない日があるので、若者たちと挨拶を交わすのは一服の清涼剤でもある。
 グラウンドを越えて進むと、その先にはパター・ゴルフ場の芝生が広がっていた。シニア会の面々がゲームに興じている。顔見知りも何人かいたので、会釈を交わす。以前からパター・ゴルフに誘われていたが、それは七十を過ぎてからと決めていた。普通のゴルフができるのに、パター・ゴルフはいかにも年寄り臭い。
「藤原さん、奥さん元気?」
 同じ町内の老人が声をかけてきた。
「うん、元気、元気。今日は民生委員の人たちとカラオケに行ってる」
「そう。今度の商工会のバザーで、うちの町内会は関東炊きの屋台を出すけど、藤原さんのところ、数に入れてもいいかね」
「もちろん、いいですよ。夫婦で参加します」
 達夫は微笑んで返事をした。現役時代は地域活動など一切してこなかったが、リタイアしてからは積極的に関わるようになった。歳を重ねるごとに思うのは、人は助け合って生きているということである。子供たちが出て行ったので尚更だ。いざというとき、頼れるのは町内の人たちだ。
 パター・ゴルフ場を過ぎると、もう河川敷に人気はなかった。周囲に誰もいないことを確認し、達夫は犬のリードを外した。ルール違反だが、たまにこうしている。
「好きなだけ走って来い」
 そう言って送り出す。犬は躍り跳ね、一目散に駆けて行った。
 西日を浴びて、達夫は目を細めた。北関東の五月はすでに夏の日差しで、気温は二十五度を超えている。群馬は近年、すっかり猛暑の県として有名になってしまったが、この時期はまだ渡良瀬川の川面を撫でて吹く風が涼しく、肌に心地よかった。東毛と呼ばれるこの地域は、足尾山地を背にして望むと、どこまでも平坦な台地が広がり、関東平野の広さを実感できる。達夫は還暦を過ぎてから、ますます桐生が好きになった。誇れる歴史があり、自然豊かで、人は温厚だ。若い頃は人並みに都会に憧れたが、人生も終盤を迎えるとやはり故郷がいい。
 そんなことを考えながら、歩いていると、犬がブッシュの中に入って行くのが見えた。この辺りの河川は多くが葦に覆われていて、平常時に川面を見ることはできない。
「タロー、そっちへ行くな。戻りなさい」
 犬の名を呼んで止めるが、言うことを聞かず、ずんずんと進んでいく。ブッシュの揺れる箇所で、犬のいる位置がわかった。
 そのとき、視界の端に黒い影が映った。視線を向けると、数羽のカラスが地上三メートルほどの高さで飛んだり降りたりを繰り返していた。なにやらカラス同士、餌の奪い合いをしているようにも見える。
 犬がカラスに向かって激しく吠えた。
「おい、タロー。戻りなさい」
 大声で呼ぶも、犬は聞き入れず、さらに奥へと進んで行く。
 達夫は仕方なく、自分も道を外れ、ブッシュに入った。前日に雨が降ったせいで、足元がぬかるんでいる。靴が泥にぬめりこみ、達夫は思わず顔をしかめた。
 人の身長より高さのある葦をかき分けて進む。ブヨが一斉に動き出し、達夫は慌てて手で払った。さらに奥に進むと、悪臭が鼻を突いた。生ごみのような臭いである。まず思ったのは、食料品の不法投棄ではないかということだった。市の広報で、河川敷に食料の処分品を捨てる悪徳業者がときどきいることを達夫は知っていた。いや、ことによると犬か猫の死骸かもしれない。これについても、市の広報で読んだことがある。そう思うと、もう近づきたくはない。
「タロー、戻りなさい。タロー、タロー」
 犬の名前を呼び続けた。それでも犬は奥に入り込み、吠え続ける。
 達夫は困り果てたが、放っておくわけにはいかず、さらに進んだ。するといつの間にか中州にまで入り込んでしまった。渡良瀬川は、川幅こそ広いが普段は水量が少なく、大半はブッシュである。
 犬が絶え間なく吠え、カラスが啼く。その音が耳の周囲で渦巻き、達夫は方向感覚を失った。
 そのとき、草木の隙間に白い何かが見えた。一瞥しただけで、それが若い女のふくらはぎだとわかった。臀部も見えた。ことによると全裸だ。
「わーっ!」思わず叫んだ。「わっ、わっ、わっ」声にならない声を発する。
 達夫は卒倒しそうになり、身を翻してその場を離れた。直視する勇気はない。
「タロー、戻れ! 早く戻りなさい!」
 喉がからからに渇いた。這うようにして来た道を戻る。背筋は凍り付いているのに、顔からは玉の汗が噴き出た。
 なんとか河川敷に戻り、パター・ゴルフをしているシニア会の人たちに向かって声を張り上げた。
「おーい! 誰かー!」
 何ごとかと何人かが振り返る。
「人の死体がある。誰か来てくれー!」
 ぱらぱらと人が駆け寄ってきた。
 達夫は腰が抜け、その場にへたり込んだ。犬はまだ吠え続けている。

(続きは本誌でお楽しみください。)

閉じる