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物語を愛するすべてのひとたちへ-小説すばる

2019年3月号 小説すばる

【新連載】
渡辺優
「悪い姉」

     一

 平穏な生活を手に入れるために殺すのだから、絶対にバレてはいけないと思った。それが夢の始まり。
 私は自分の部屋にいて、手にはナイフを持っていた。リンゴの皮を剝くのに使うような、薄くて小さなフルーツナイフ。窓からの月明かりが床に伸びて、部屋全体を海の底みたいに青く染めていた。
 姉は隣室にいる。艶やかな髪を枕の横に流して、白い瞼を柔らかく閉じて、なんの苦しみも悩みも痛みも感じずに、穏やかな眠りの中にいる。長いまつ毛に、血の色の唇。お姉ちゃんは白雪姫みたい、と、幼い頃に思った。今も思う。とても美しいところとか、なんどもなんども殺そうとしても、ぜんぜん死なないところとか。
 女王はどうして毒リンゴなんて冴えない手段を選んだのだろう。ナイフを使えば確実なのに。
 そんなことを考えながら、私は足音を立てないように部屋を出て、暗い廊下を進む。姉の部屋の扉、そのドアノブを摑む。ひんやり冷たい感触が緊張を高めた。息をひそめて、ゆっくりと押すと、開いた扉の隙間から、やっぱり月明かりが漏れた。
 いける気がする。今日こそやれる気がする。私はきっとやり遂げて、そしたら、明日からは姉のいない世界を生きていける。安全で、穏やかで、揺るぎない希望に満ちた世界だ。姉のいる今の世界より、きっとみんなが幸せになれる。もちろん私はとても幸せ。私の未来にどこまでも暗くたちこめている影が、なくなるわけだから。
 想像するだけで、涙が出そうだ。じわりと広がる温かな勇気を胸に、私は一歩、姉の部屋に踏み込んだ。窓際に置かれた、私の部屋にあるものと同じ、白いベッド。この一歩は小さな一歩だけれど……。
 そこに姉の姿はなかった。月明かりを受けた青白いシーツが、わずかに姉の形にくぼんでいた。胸の中の温かさが消えた。気配を感じて振り返る。
 すぐ後ろに姉がいた。廊下の暗い闇の中、口元だけに月光を受けて立っている。その唇が、笑った。
「麻友ちゃん」
 私は叫び声を上げて、その顔にナイフを振り下ろした。温かい血がパッと散った。それが夢の終わり。

 心臓がばくばくして、全身に汗をかいていた。窓の外はすっかり明るくて、月明かりなんてどこにもない。隣の部屋から、かすかに物音がした。姉だ。今日もまだ、お姉ちゃんは生きている。
 ベッドの上で、私は深く、長くため息をついた。良かった、と思った。夢だ。夢で良かった。安心で、身体の力が抜ける。心臓の鼓動が、少しずつ穏やかさを取り戻す。
 本当に、夢で良かった。
 ナイフなんて使ったら、一発で殺しだとバレる。
 私は平穏な人生を手に入れるために姉を殺すのだから、絶対にバレてはいけない。事故に見せかけるのがベストだと考えている。きちんと計画を練って、慎重に、一度でキメるのだ。
 本格的に受験勉強の始まる、高三になる春までには済ませたい。姉のいない世界で、自由に未来を選ぶため。私に残された猶予は、あと一年。

 同じクラスに気になる人がいる。だから最近、学校に行くのがすごく楽しい。
 早起きもぜんぜんつらくない。いつも寝癖がつく左の前髪を完璧に整えて、うつむきがちなまつ毛をきっちり上げるために起きるのだと思うと、去年までの自分が噓みたいに、目覚めてから五秒後にはもうベッドを出ている。すごく嫌な夢を見てしまったときなんかは別だけど、そんなのは週に二、三度、多くて四回くらいの話だし。
 その人とは今年、初めて同じクラスになった。私の世界に彼が登場して、もう一か月とちょっと経つ。一か月とちょっと同じ人を気にし続けるというのは、ものすごいことだ。私はたぶん、彼のことがとても好きなのだ。
 洗面台の大きな鏡の前に立つ。熱くなったヘアアイロンを、おでこぎりぎりの根元から前髪に当てて、憎きうねりを伸ばす。さらさらのショートボブは、調子のいいときなら清らかで活発、ピュアでフレッシュでクリーンでキュートで私こそが女子高生である、という最強の仕上がりになるのだけれど、調子の悪いときは本当にクソださいブスで最低、生まれてこなければよかったな、という気分になる振り幅の大きな髪型。朝、鏡をのぞきこんだ瞬間にその日のテンションが決まる。今日は、わりとふつう。前髪さえまっすぐになれば、それなりに明るい気分で一日を過ごすことができそう。少なくとも、自分のブスさがつらくて彼に話しかけられない、なんてことにはならずに済みそうだ。
 その人はぜんぜんイケメンじゃない。そこが良い。わりと気楽に絡みにいける。身長もそんなに高くなくて、女子の平均の私よりもたぶん数センチ高い程度。でもどうだろう、彼はちょっと猫背だから、ちゃんと姿勢を良くしたら意外と高身長で私をどきどきさせてくれるなんてこともあるのかも。それは、もちろん大歓迎。
 でもとにかく、彼の魅力は外見じゃない。彼の最高に素晴らしいところは、皆からヨシくんと呼ばれているところ。男子からも、女子からも。そこが最高に良い。ねえねえヨシくん、と誰もが呼びたくなる、親しみやすさ、人柄の良さ。佳希、という名前だ。ヨシキ。すごく綺麗な字面と響き。でも私は彼をヨシくんとも、ヨシキとも呼んだことがない。私は彼を、小野寺くん、と呼ぶ。これはね、作戦なんですよ。
 私とヨシくん(心の中ではそう呼ぶ)との出会いに、特別なものはなにもなかった。私たちはただ、毎年事務的に行われているクラス替えで同じクラスになり、それでただ、クラスメイトという間柄になった。席はわりと近め。うちのクラスは、男女や上下の垣根なく気楽に喋る友好的な子の割合が高めで、だから、そんな穏やかな雰囲気の中で、他のクラスメイトたちと仲良くなっていくのと同じように、私とヨシくんも特に記憶に残るようなきっかけもなく普通に会話をするようになった。話す内容は、授業のこととか、友達のこととか、音楽のこと(ヨシくんは音楽を聴く! 私も音楽を聴く!)。ふたりきりで話すことは少ない。大抵いつも他の友達が一緒。廊下の角と、教室の後ろで、すれ違いざまにほんの数言ふたりだけで言葉を交わしたことが三回だけある。つまり、数えてしまえる程度。
 私とヨシくんとの間に、語れるほどのエピソードはなにもない。私が電撃的に恋に落ちるきっかけとなった出来事なんてものはない。そこが最高に素晴らしいと思っている。私は別になんのエピソードもなくヨシくんを好きになったのだ。ただ、彼が隣の席の子が落としたなにかをすぐに拾ってあげるとか、授業中に誰かが冗談を言ったときに本当に楽しそうに笑うとか、他人が恥をかいたり失敗したときにかける「ドンマイ」の控えめで優しい発音とか、歴史の授業で凄惨な事件が取り上げられたときに話を聞く背中がすっと伸びるところとか、そういう、エピソードにもならないような日常の生活態度に惹かれ、ただなんでもない会話を重ねて、ただ好きになった。
 熱と圧力にようやく屈した前髪にオイルをつけて、最後にさっと全体を梳かした。鏡の中の自分がにやにやしている。ヨシくんのことを考えると、ついいつもにやにやしてしまう。我ながら気持ち悪、と思うけど、でもいいの。にやにやするのは健康に良いのだ。
 鼻歌でも歌ってしまいそうな気分だった。でも、洗面所の扉の向こうに人の気配を感じて、私は鼻の穴まで出かかったメロディーを堪えた。
 いけないいけない。
 私が幸福であることを、この家の中では誰にも悟られてはいけない。
 こんなにハッピーな気分になることが久しぶりすぎて、うっかり全開で浮かれてしまいそうになるけれど、この世界って少しの油断が命取り。ということを、私はこれまでの人生で嫌というほど学んできた。命取りって、つまり、死。人間って油断すると死ぬ。だからヨシくんを落として彼氏にしていちゃいちゃするという一連の流れはとても慎重に進めなければいけない。私は死にたくないし、ヨシくんにも死んでほしくないから。もう二度と、大切な人をなくしたくないから。
 私は、頑張って直した前髪の下に隠れる、今も消えない幼少期の傷跡にそっと触れた。扉の向こうの気配が二階に消えた。短く息を吐いて、鏡の中、健康的ににやにやしている顔の筋肉を動かす。笑顔を消して、ちょっと目を伏せて口角を下げて、やる気のない、明日への希望が見えない、眠い、怠い、不幸せな十代っぽい顔をつくる。家の中でのいつもの私、ハッピーステルスモードのお顔。
 洗面所を出て、リビングのテーブルで朝食を食べて、始業時間にだいぶ余裕をもって家を出た。玄関を出るまでに、父、母、今朝夢の中で殺しそこねた姉とたびたび顔を合わせたけれど、誰も私の幸福に気づきはしなかった。殺意にも。

(続きは本誌でお楽しみください。)

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