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物語を愛するすべてのひとたちへ-小説すばる

2019年2月号 小説すばる

【新連載】
行成薫
「明日、世界がこのままだったら」

     狭間の世界(1)

 おはよう。

 その一言の意味を考えたことのある人が、どのくらいいるだろう。少なくとも私は、生まれてからの二十三年間、「おはよう」と言う意味なんて一度も考えたことがなかった。

 まだ私が子供だった頃、家族旅行に出かけた日の朝。いつもと違う天井を見上げた私は、知らない世界に放り出されたのかと思って震えた。寂しさと不安に突き動かされるように、私は「おはよう」と、力いっぱい叫んでしまったことを覚えている。
 今朝の「おはよう」は、その時の「おはよう」に少し似ていた。自分の部屋で目を覚まし、いつも通り自宅リビングに繫がるドアを開けたはずなのに、私は、なにかが違う、と感じていた。自宅にいるはずなのに、まるでモデルルームの中にいるような気分。家具の存在が白々しくて、部屋の空気がよそよそしい。

「おはよう」

「おはよう」が不意に返ってきて、私はびくりと肩を震わせた。自分で言葉を放っておきながら、返事がくるとは思っていなかった。同居している父も母も、私が起きる時にはもう家を出ていることが多い。私の声は、いつもなら部屋の空気に溶けて消えてしまう。
 静かに高鳴る胸の鼓動を抑えながら、声のした方向に目を向ける。私の家は「どうしてもタワーマンションの高層階に住みたい」という見栄っ張りな母の圧力に負けて父が購入した、都心の高層マンションの一室だ。日当たりのいい角部屋で、都内のランドマークとして有名な赤い電波塔が見える。声の主は朝の風景を眺めていたのか、リビングの奥に立って顔だけを私に向けていた。
 まだ、私の頭は半分寝ぼけていて、完全には動き出していない。それでも、一つだけはっきりとわかることがあった。

 ――そこにいたのは、まったく知らない男だった。

 驚いて返事もできない私の前で、男がゆっくりと体をこちらに向けた。歳は、私とそう変わらないか、少し上くらいだろうか。ゆるりとした長袖のカットソーにスキニーパンツという、ラフではあるが小ぎれいな格好。体はやや細身で、手足がすらりと長い。目は一重だけれど、少し垂れているせいかあまり怖そうには見えない。外国人風の巻きの強い黒髪パーマが、ちょっと癖のある顔によく似合っている。
「いい天気」
「そ、そう、です、ね」
「見晴らしも最高だし」
「その、結構、高層階なので」
 私は、どきどきする胸を押さえながら、男の言葉に返事をする。男がしゃべるたびに、優しい顔立ちとはミスマッチなくらいくっきりとした喉仏が上下に動くのが見えた。
「あの」
 私が意を決して話しかけると、男は「なに?」とでも言うように、軽く首を傾げた。
「ちょっと、聞きたいことが、あるん、ですけど」
「聞きたいこと」
 そりゃあるよね、と、男は苦笑する。
「なんでも、どうぞ」
「じゃあ、その」

 どちら様でしょうか?

 私のうわずった声が、静かな部屋に響いた。男は悪びれる様子もなく、はじめまして、とでも言うように軽く頭を下げた。
「俺、ワタルです」
「わ、ワタル、さん」
 私は「ワタル」と名乗った男の顔を、まじまじと見る。
「ええと、知らない、人、ですよね?」
「たぶん」
「泥棒とか、強盗の方でしょうか」
「違うよ」
 少しトボけた男の雰囲気に吞まれて、私は相手が見知らぬ男であるにもかかわらず、大声で助けを呼んだり必死に逃げようと走り出してみたりすることを忘れていた。ワタルという男は顔にも声にも緊張感というものがまるでなくて、「金を出せ」とか「服を脱げ」と言ってきそうには思えなかった。お陰で、私の警戒心はうまく作動してくれなかったらしい。
「あの、どうしてここに?」
 それ、それなんだけど、と、ワタルは真顔でうなずく。
「そもそも」
「そもそも?」
「ここは、どこなんだろう」
 ワタルはすらりとした腕を軽く広げて、「ここ」を精いっぱい表現した。私は意図がわからなくて少し戸惑ったが、言葉を額面通りに受け取って、そのまま真実を伝えることにした。
「私の家、なんです、けど」
「ああー、そっか。そうなんだ」
 ワタルという男は私の家のリビングをぐるりと見回すと、広くていい部屋だ、などと、平和なことを言う。どうも、ここがどこだかわからないというのも噓ではなさそうで、部屋のあちこちを見ながら、何度も首を傾げていた。私の頭には「知らない男の人が場所もわからず私の家に侵入してしまった訳」がいろいろ浮かんだけれど、納得のいくストーリーはなかなか思いつかない。
「あの、どうやって、ここに入ってきたんでしょう」
 父がこのマンションを選んだのは、セキュリティがしっかりしている、というのも理由の一つだ。晩婚の父は歳取ってから生まれた一人娘である私を溺愛するあまり、自宅のセキュリティには随分こだわったらしい。住人以外の人がふらりと入ってこれるほど、警備は甘くない。
 ワタルが、答える代わりに私の後ろを指さした。人差し指の先を目で辿ると、私はくるりと振り返り、リビングの入口ドアを見ることになった。
「いや、それはまあ、そうなんでしょうけど」
「いや、そうじゃなくてさ」
 ワタルの目が、ドアを開けろと言っている。私は、訝しく思いつつも、念のためワタルを視界に入れながら、ドアレバーを手で押し下げた。ドアの向こうには廊下があって、トイレとお風呂、両親が使う主寝室、ゲストルームが廊下の左右に配置されている。

 ――はずだった。

(続きは本誌でお楽しみください。)

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