close

物語を愛するすべてのひとたちへ-小説すばる

2018年11月号 小説すばる

試し読み一覧はこちら

松井玲奈さん デビュー小説を発表

【読切】
松井玲奈
「拭っても、拭っても」

 可愛い格好をしてデートに行く女の子。茶色の長い髪をゆるく巻いて、首の色と違う、やけに白いファンデを塗って。マツエクでナチュラルに盛った目元に婚活リップなんて呼ばれてる、薄いピンク色を唇にひいている。
 唇と同系色のパフスリーブのトップスに、シフォン素材の白い膝丈のスカートをふんわりと翻して地下鉄の階段を駆け上がる。斜めがけにされた赤いポシェットが女と少女を繫ぎ合わせているみたいだ。
 私の前を駆け上がって行く、可愛らしい小柄の二十代前半の女子よ。すべて完璧かもしれないが、君の足下。足下だよ。
 太めのヒールがついたピンクベージュの靴におさまった小さな足の踵。うっすらと筋が浮き上がったアキレス腱にべたりと貼られた茶色の絆創膏。靴擦れして貼られたであろう絆創膏。
 あなたの軽い足取りから察するに、これからデートなんだろう。土曜日の昼下がり、ふんわりと漂ってくる甘い香水の香りが、私の推理に確信を与えた。
 そして、地下鉄の階段を登りきったところに答えは待っていた。量産型キノコヘアーで目元をうっすらと隠した優男が気持ち良いくらい青いシャツに身を包んで、笑顔で彼女を迎えていた。
 私は階段の出入り口付近で足を止め、肩に掛けた黒い革製のトートバッグからスマホを取り出す。目的地の確認をするふりをして、薄暗がりの中でスマホと地上の双方に視線を走らせながら二人の動向を窺った。
 今日も可愛い、かっこいいねとお互いを褒め合い、早く行こうと手を引き合いながらはしゃぐカップルの声が遠くなっていく。
 なんだこの流れ弾に当たったような気分は。
 私は地上に出て、三十メートルほど先にある喫煙所で、ガス切れ間近の百円ライターを何度も擦ってから煙草に火を付ける。
 一息。不健康の塊と言われる煙を吸い込むことで、自分の中に生まれた精神的不健康な物質が体内に溶けていく。
 もう一度吸ったところで、髪の毛を束ねていないことを思い出して、口に煙草を咥えたまま腕につけていた黒いゴムで、肩口で切り揃えられた黒髪をぎゅっとくくりあげた。気休めでも髪に煙草の臭いがうつらないことを願う。
 吐いた煙が風に流されるのを眺めながら考える。あんな風に人前でお互いの好意をダダ漏れにすることは自分にはあっただろうか。
 あの絆創膏。もし、そういうことになったらどうするんだろう。
 あのカップルに訪れるであろう場面を想像した。甘い言葉を囁かれて、体を包む布が剝ぎ取られていく。お互いの体温を直に感じるようになり、体を手が這っていく。そして、彼女の足下に視線がいった時。場違いな顔で、空気も読まずに「やあ!」と言ってのけそうな、あの絆創膏。
 男はその滑稽さに萎れるのではないか。そして一日歩き回った末に、シャワーを浴びてふやけた絆創膏に対して、不衛生だと言うのではないか。
 そこまでの場面を頭の中で五回ほど繰り返しながら、煙草を吸ってどうにかやり過ごした。
 夕方からのミーティングで嫌煙家の部長に煙草の臭いを嫌がられないだろうかと、髪をほどいて臭いを確認すると、キャラメルの煙草の甘い香りをうっすら感じた。念のために後でティーツリーの香りのミストを吹きかけておこうと思った。

 その日の夜、あの絆創膏の話を美智子にした。
 商店街の中にある小ぢんまりとした中華飯店で、麻婆豆腐丼と汁なし担々麵の大皿を二つ並べて、紹興酒を流し込む。山椒で痺れてピリピリというよりジリジリした舌に、紹興酒は甘く絡みついてきて、舌がふわっと柔らかくなった気持ちになる。
 前菜から棒棒鶏、豚の角煮、海鮮ブロッコリー炒めと散々中華料理をかき込んだのに、締めにまさかの炭水化物が二種類もやってくる利益度外視のフードファイト的中華飯店。コスパも味も満点。美智子と私のお気に入りの店だ。
 お腹が満たされることで血糖値が上がり、お酒の力も借りてその他もろもろも上がったり下がったりする。人間の三大欲求とはよく言ったものだと思った。とろけそうな感覚と、弾けそうな胃袋を抱えて、私は美智子に切り出してみた。
「ねえ。今日、デートに向かうふわふわ系女子がいてさ」
「おーう」
 紹興酒にやられ俯いていた美智子の首がばっと上がった。黒く艶やかなショートカットは高校で出会った頃の彼女の面影が残っていて、三十代に突入したはずなのに随分と幼く見える。ウェディングプランナーという仕事柄、人に好印象を与えるメイクで顔を飾っているが、さすがに食べて飲んでの繰り返しで、鼻や頰の高い部分がテカっている。
 お酒に吞まれてとろっとした目の中には少々好奇心の光が宿っていた。
「彼氏とデートっぽくてね。すごく可愛かったし、気合いの入った格好してたんだけどさ、ヒール履いた踵に」
 あの筋の浮き出たアキレス腱にべっとりと貼られた茶色い絆創膏が浮かんでくる。
「踵に?」
「絆創膏が貼ってあったの」
「えー、靴擦れしてまでヒール履いてオシャレするの健気だなあ。私にはもうその気力はないなあ」
 パンツスーツに身を包んだ彼女の足下は黒の踵の低いパンプスだ。ウェディングの仕事をしていると毎日立ちっぱなしでヒールなんて履いてられないと彼女は言う。
「許されるなら毎日スニーカーでいたい」
「それは同感」
 と言いながら気まずくなって、自分の足を隠すように椅子の下に引きよせた。一日中ヒールを履いてきつくなった足がギチギチと痛む気がした。
「いや、まあ。そうよね。たださ、もし彼氏と夜にいい感じになった時よ。その絆創膏どうなのよって思ったわけ」
「は? 何言ってんの?」
 小さな店内に美智子の声が響き渡る。
「いや、何って」
「何考えてんのよー」
 今度は赤いテーブルを叩きながらゲラゲラ笑っている。
「美智子はありなの?」
「ありっていうか、だってしょうがないでしょ。痛いし。花嫁さんでもいるよ。普段履かないような高いヒール履くと靴擦れしちゃう人。そういう時はやっぱり靴擦れ用の絆創膏貼ってあげる。人生の晴れ舞台の思い出が靴擦れの痛みだったら嫌じゃない」
 そうだけどと思いながらも、私の伝えたい視覚的な色気のなさについては伝わっていないようだった。
「逆にエッチしてるときに靴擦れの傷口見えてる方がグロいよ」
 粘膜と粘膜が触れ合っているというのに、肝心な部分ではない体の内部が見えてしまっているのはダメなのか。と考えてから不快な想像をしたことに後悔をする。問題はグロいかどうかではない。
「男の人ってそういうので萎えたりしないのかな」
 ひき肉を絡めた太い麵を美智子はすする。担々麵の油が彼女の唇をテカテカにしていく。私はカサついた唇を湿らせて、白いブラウスの袖が汚れないように気をつけながら、麻婆豆腐丼に差し込まれたレンゲで自分の取り皿におかわりをよそった。
 美智子は咀嚼しながら斜め上を見る。彼女が考えを巡らす時の癖だった。ごくんと喉を麵が通ってから、私は、と切り出す。
「私は男じゃないから、正直わからん。でも、ゆりが見たその子は若かったんでしょ?」
「うん。二十代前半くらい」
「だとしたらやっぱり健気だと思うよー」
「そうかな」
「だってさ、若い時って見た目優先で靴買っちゃうじゃない。足に合わないけど我慢してさ。で、だんだん学習して、見た目と実用性を兼ね備えたものを選ぶようになる、と思う。てか、私がそうだった。だから健気だよ、その姿勢が。女は女として見られたいじゃん。彼氏に女の子扱いされたいじゃん、愛されたいじゃん」
「と、した時です。その健気さが生んだ、真逆の不格好な絆創膏は正義なわけですか?」
 私は二十三時台のニュースキャスターのように聞き返す。
「うーん……正義ではないな」
 顔をワザとらしく歪めた美智子に、ほらと返すと、彼女はうるせぇ! と笑って麻婆豆腐丼に自分のレンゲを突っ込もうとした。私はその手を反射的に摑む。はっとした美智子は、ごめんと言ってから、取り分け専用のレンゲを使って麻婆豆腐丼をよそった。
「結局ゆりは何が言いたいわけよ」
「絆創膏は不快だって共感してもらいたかった。あと、色っぽくない」
 私は小さいグラスに残った紹興酒を口をすぼめてグッとあおった。グラスを持った指先がチクリと痛んだ気がした。
「ゆりもそろそろいい人見つけなきゃ」
 美智子は私の機嫌をとるように明るい声で話しはじめる。
「私の夢の一つに、ゆりの結婚式のプランニングっていうのがあるんだからさ」
「結婚ねえ。できるんでしょうか、私に」
「前の人と別れてから全然いい感じの話がないんだもん。たまにはそういう話を聞かせて欲しいな」
「美智子もね」
 人のことは言えない立場だと笑い合う。こんな風に笑えるようになったのも最近の話だ。
 気持ちを踏みにじられた最悪な別れ方だった。

(続きは本誌でお楽しみください。)

試し読み一覧はこちら

松井玲奈さん デビュー小説を発表

閉じる