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物語を愛するすべてのひとたちへ-小説すばる

2018年10月号 小説すばる

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【SF短編】草野原々「【自己紹介】はじめまして、バーチャルCTuber 真銀アヤです。」

【新連載】
小川 哲「地図と拳」

画・agoera

 参謀本部から特別任務を命じられた高木はハルビンへ向かう――。

 波乱に満ちた満洲の半世紀を描く一大歴史スペクタクル、ここに開幕。

 

     第一章

 松花江スンガリー の船上ではあらゆるものが腐った。水が腐り、饅頭が腐り、人間が腐った。腐ったものを船の上から松花江に捨てるのは、元の時代からの習慣だという話である。昨日は発狂した男が首を絞めて殺され、そのまま河に捨てられた。死体を捨て終えた支那人の苦力クーリー は「霊魂リンフン が腐っちまったんだな」と言った。「身体シェンテイ が腐る前に捨ててやらないとね」
 高木は甲板の端に立って小便をすませると、鞄の底で腐っていた饅頭を河に向かって一個ずつ捨てていった。隣に立った王という支那人が、瘦せた男の死体を両腕で抱えている。昨夜船上で喧嘩をしてナイフで刺され、失血で死んでしまった男だ。一晩中放置された死体から腐臭が漂っており、高木は思わず顔をしかめた。
「こいつは燃えない土だ」
 落とした死体が水しぶきをあげ、そのまま深い河底に沈んでいくのを見届けながら、王がつぶやくように言った。
 高木は「どういうことだ?」と王の顔を見る。
「俺たちの村では、役に立たない塵芥のことを『燃えない土』と呼ぶんだ。あの男はもう死んだ。だから『燃えない土』なんだ」
「なるほど」
 高木は「燃えない土」を二つ持っていた。一つは饅頭で、もう一つは通訳だった。腐った饅頭をすべて捨て終え、二つ目の「燃えない土」であるところの細川という、どうにも役に立たない通訳を見る。
 今年で二十一歳と聞く。軍とは無縁の大学生だったが、支那語とロシア語ができる男が他に見つからなかった。顔色は相変わらず悪そうだ。肺病患者のように腕は細く、日焼けした真っ赤な顔の上に厚い丸眼鏡をかけている。乗合船ではほとんどの時間を甲板から嘔吐するか、下痢をするか、横になるかして過ごしていた。体力は驚くほど乏しく、若いのにまったく胆力がない。昨日も、支那人同士の喧嘩が始まると一目散に船尾付近まで逃げ、静かになるまで目を閉じて座りこんでいた。喧嘩が終わり甲板に放置された死体を見ると、甲板の端まで走って嘔吐した。
 死体を見るのは初めてだったんです─細川はそう口にして、それからずっと捨てられた地蔵のようにじっとしていた。この男がもしここで死んでしまったら、日本から遠く離れたこの大河に沈められるだろう。
「『燃えない土』があるということは、『燃える土』もあるのですか?」
 強い日差しで細川の厚い眼鏡が光った。死体が河の中に落とされてから突然むくりと起き上がり、支那人労働者のどうでもいい話に食いついていた。雰囲気が妙に明るく、死を目前にした人間が最後の炎を焚き上げ、急に明瞭になっているようにも見えた。
「無理をするな。今度はお前が河に捨てられる番だぞ」と高木は睨みつける。細川は「大丈夫です」とにやにやしている。
「いいか坊や」と、王は長い辮髪を巻き取りながら語りかけた。「土には三種類ある。一番偉いのが『作物が育つ土』で、二番目が『燃える土』で、最後が『燃えない土』だ。『燃える土』は作物を腐らせるが、凍えたときに暖をとれる。だが、『燃えない土』はどんな用途にも使えない。死体も同じことだ」
「初めて聞きました。とても面白い話です。王さんはどこの出身なんですか?」
 高木には一度も見せたことのない、好奇心にあふれた表情で細川が質問している。
「俺の父は漢人でな。仕事を探して中原チョンユアン から東北トンペイ に移住したんだ。奉天の東にある李家鎮リージャジェン という村で母と出会い、結婚して家と畑を譲りうけたというわけさ。ところで日本人リーベンレン 、お前の両親は何をしてるんだ?」
「僕には母はいません。父は貿易商をしています─」
 細川と王はまだ話を続けていたが、高木は丸型鞄を両手で抱え、船首まで歩いていった。ロシア軍にも満洲にも関係ない、興味を引かぬ話だった。
 途中で下船したり、死んで船から捨てられたりした者がいたおかげで、幸いにも甲板からは人が減っている。甲板での生活にも慣れた。
 ここでの決まりは単純だ。寝転がっている者をなるべく踏まないこと。病人は放置すること。死体は腐る前に捨てること。暇つぶしの手段は酒を飲んで我を忘れるくらいだ。どれだけ暑くても甲板に日陰はないし、船室には隙間なく貨物が積まれているので、乗客は立ち入ることができない。ほとんど会話というものは存在しないが、たまに話すのは船が前の港を出て何日経ったか、そして次の港まで何日かかるか、それだけである。
 そして高木は昨夜支那人から、今日の正午までには目的地のハルビンに着くと聞いていた。
 参謀本部から特別任務を命じられたのは昨年の暮れだった。ハバロフスクからハルビンへ向かい、可能であれば奉天以南まで渡り、都市の立地、商業、資源、軍備、思想を─もっと言えば、ロシア軍の狙いと開戦の可能性を調査せよという任務である。まだ戦場の経験のない高木にこの特別任務が与えられたのは、高木が簡単な支那語を話すことができたからだろう。
 不凍港を求めて南下を続けていたロシアは、シベリア鉄道を旅順港まで延ばし、日清戦争で朝鮮と台湾を手に入れた日本の脅威になりつつあった。高木の任務は、そのロシアの懐に潜入するというものである。日露で戦争が起きれば、かならず満洲が戦場になる。これまで何人もの軍人が満洲への調査任務を与えられてきたが、そのほとんどがハバロフスクで引き返していたし、先へ進んだ一部の者はみな消息が途絶えていた。ハルビンへの潜入は非常に危険が伴うということは、百も承知していた。
 高木はウラジオストクに入り、二ヶ月ほどロシア語の勉強してから、晩餐会に参加して知事と仲良くなり、茶商人に化けるための書状を出してもらった。商店で買った茶葉と書状を携え、新設されたシベリア鉄道でハバロフスクへ渡った。そこで現地調査をしながら、今回の任務を共にする通訳の細川を待った。ハバロフスクには女郎屋、労働者、写真屋、飲食店員、坊主などの日本人も多く、一ヶ月の滞在でロシア軍に関する様々な情報が入ってきたが、調査任務中は一時の油断もできなかった。ロシア総督府や満洲方面軍の基地が置かれていたこともあり、街路では鉄砲を持った兵士が常に目を光らせていた。
 高木はロシア兵の装備や街の人口、商業規模や採取可能な資源など、必要な情報を収集し、留学先のペテルブルグからやってきた細川と合流した。
 二人は次の潜入地点であるハルビンへ向かうため、支那人や朝鮮人の人夫たちとともに船に乗りこんだ。アムール川を西に進み、ミハイロセメノフスキーで船を乗り換え、今度は松花江の上流へと遡った。支那人、朝鮮人の苦力たちがひしめき合う中、小さな乗合船の甲板の上で寝泊まりをしなければならなかった。死に物狂いで船尾付近に定位置を確保し、甲板から排便をし、就寝時には汗臭い苦力たちと肌を寄せ合うという劣悪な環境で、二週間あまりを過ごした。
「高木さんは、関東の出身でしたよね?」

(続きは本誌でお楽しみください。)

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