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物語を愛するすべてのひとたちへ-小説すばる

2018年6月号 小説すばる

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【著者インタビュー】津川友介『世界一シンプルで科学的に証明された究極の食事』

【新連載】天野純希「三木城合戦記 第一回 加代の戦場」

【短編】彩瀬まる「ひかり」

 建物はずいぶん古かったけれど、庭の日当たりがとてもよかった。
「前の人は家庭菜園をやっていたのね」
 縁側にほど近い一区画だけ雑草の密度が低く、なにかつる性の野菜を育てていたのだろう、支柱が数本残されている。
「使いやすい家だよ。築年数は経ってるけど、水回りはなんども手を入れてるから。割と借り手が途切れないんだ」
「そうですか」
「本当はうちは六十五歳以上の人には貸さないようにしてるんだよ。まあ、アタシらもね、なかなかこまめに様子を見に来られるわけでもないし、転んで動けなくなってたら心配だろう? ただそれが女房の腰痛を治してくれた恩人だって言うなら話は別だ。もう、家でも杣鳥先生、杣鳥先生ってそればっかりでさあ。大したもんだよ、いい年したババアが女学生みたいに目を輝かせてあなたのファンだ」
 年頃は私と同じ七十代の前半か、少し下くらいだろう。短く刈り込んだごま塩頭をざりざりと厚いてのひらで撫でながら、大家の男は愛想よく言った。口調は朗らかだが、動きの速い目は笑っておらず、全体的に抜け目のない印象がある。恩を売り、勘所を押さえ、物事をスムーズに進めようとするケチくさい商売人の気質が見て取れた。
「まあ、ありがとう。この家でも、一部屋を使って健康教室を開こうと思っているの。奥様にもよろしくお伝え下さいね」
「へえ、ちなみにどのくらいの頻度で? まさか毎日じゃないでしょう?」
「そうね……予約制で週に三日ほど、一日にみられるのは三人までかしら」
「そりゃあいい、定期的に人が訪ねてくるなら、こっちも安心だ」
 あくまで私を「好意で入居を許した弱者」扱いしたいらしい。不快だが、こういう男の扱いは心得ている。
「こんなご時世ですからね。親身になってくれる大家さんで嬉しいわ」
「いやいやいや、お互いこんなトシじゃあ持ちつ持たれつだから。あ、いけねえ、女の人に年齢の話なんて怒られちまうね。まま、なんかあったらちょいっと電話して下さいよ。アタシか女房がすっ飛んできますんで、はい」
 大家の男は大げさに首を振り、目を細めて相好を崩した。前の住民が家具を残した居間に戻り、ちゃぶ台で賃貸契約書にサインして家の鍵を受け取る。私を話の通じる相手だと見なしたのだろう。男は終始腰の低いまま、上機嫌で帰って行った。
「さてと」
 小うるさい虫を追い払った気分で立ち上がり、縁側のガラス戸を開いて庭を覗く。
 軽く見回した限りでは、花木が多いようだ。正面には若葉を茂らせた桜。その向こうにはからたちの垣根。庭の奥まった位置では月桂樹が明るい黄色の花をつけている。視界の端でもさもさと葉を茂らせたひとかたまりは、芙蓉だろう。玄関の近く、盛りが過ぎて花をだらしなく崩した沈丁花が庭中にほのかな香りを放っている。
「あの子を迎える支度をしなくっちゃ」
 腕をまくり、引っ越し業者に運ばせたハーブのプランターに手をかけた。

 腰を痛めないよう慎重に、数日かけて持参したハーブを植えていった。日向が好きなもの、日陰が好きなもの、その真ん中ぐらいが好きなもの、種類によって植える位置を調整する。オレガノ、カモミール、バジル、ラベンダー。茂りすぎてしまうペパーミントはプランターのまま、縁側から手を伸ばしやすい場所に置いた。
 最後に庭の手洗い場から伸びたホースの出口を指で潰し、全体に水を振りかける。馴染み深い涼気がさあっと細長い庭を吹き抜けた。
「気に入ってもらえるといいんだけど」
 周りに誰もいないものだから、つい独り言が多くなる。手を洗い、蕎麦を茹でて昼食にした。付け合わせはなめこと大根おろし。タンパク質もとらねばと、ハムを数枚付け足す。大葉とネギも欲しいところだ。そのうち庭に植えようか。そんなことを考えつつ、蕎麦をすする。
 箸が器に触れる音が耳につくぐらい静かだったのに、急に庭の向こうが騒がしくなった。はぁい並んでえ、と呼びかける保護者っぽく馴れた感じの女の声。垣根の根元に開いた大小の穴越しに、サンダルを履いた十人ほどの男女の足が見える。車椅子に乗っている人もいるようだ。重たげな足の運び方から、彼らが高齢者であることを想像させる。
「さん、はい」
 監督している女のリードで、たどたどしい合唱が始まった。なんだか聞き覚えのある曲だ。
 むかしのひかり、いまいずこ。
 ああ、「荒城の月」だ。曲が終わると軽い雑談ののち、また初めから歌い直される。私のようにこの曲が体に染み付いていて、歌っているうちに記憶が紐解かれる世代が多いのだろう。一度目よりも二度目、二度目よりも三度目と、次第に歌声は大きくなった。
 しゃがれた歌声に耳をそばだてながら、下手すると孫よりも若いだろう女に音頭を取られて歌う彼らを想像する。ホームに入っているということはどこか具合が悪いか、既に一人では生活が回らないぐらい年をとっているのだろう。つまんないだろうな、中庭で歌うぐらいしか楽しみがなくて。三食用意してもらえるのは楽かも知れないけれど。
 ただ、私は少しだけ彼らをうらやましく思う。垣根の向こうで歌う彼らは、少なくともなにもためらわずに保険証を使い、年金を受け取り、社会に守られ、よくがんばったねえなんて家族に声をかけられながら死んでいけるのだ。
 まあ、妻の贔屓の人物だからと大した確認もなく家を貸してもらえただけ、私の運だってそう捨てたものではない。食事を終え、皿を片付けようと立ち上がる。最近はめっきり関節が硬くなり、体重をかけるたびに膝が軋む。ちゃぶ台に手をついて慎重に腰を浮かせ、使い終わった皿を流しへ運んだ。続いて、施術室にする予定の奥の和室へ向かう。
 和室には前の家でも使っていた折り畳み式のベッドが一つ、畳んで立てかけてある。そのそばに置かれた藤色の風呂敷包みをつかみ上げ、居間に戻って結び目を開く。中には筆記用具が入っている。
 墨汁と硯、筆を用意し、大きめの書道用紙を下敷きに載せた。

『杣鳥健康教室』
『按摩 体質改善 減量指導 産後ケア 体が辛い方お立ち寄り下さい 美味しいハーブティーあります』

 教室名は大きめに、説明は小さめに、でも読みやすく。バランスを考慮しつつ一息で書き切り、ほ、と肩の力を抜く。
 書き上げた教室案内を植物模様の布を張ったA3サイズのベニヤ板にピンで打ち付け、西洋椅子の背もたれに立てかけた。予約の取り方を記したチラシを籘籠に入れて座面にのせ、最後にそれらの集客セットを玄関の脇に出しておく。
 とにかく初めの印象が大切だ。目立ちすぎず、だけど施術を必要とする人の目にはきちんと留まる、控えめなくらいの主張でちょうどいい。庭の隅で咲いていた赤紫の躑躅を数輪、チラシを入れた籠に差し込む。
 道具を片付けている最中にふと、庭に目が向いた。網戸越しに土と草の匂いが流れ込んでくる。
 なにかしっかりとした合図があったわけではない。たとえば好きな季節の匂いが風に紛れ込んでいたときの喜びに似た、ほのかな衝動に背を押されて庭へ降りる。
「ゆりちゃん、来たの?」
 やんわりと茂ったバジルの葉陰に指を差し込む。
 なめらかなものに、するりと指の側面を撫でられた。
「よかった、ちゃんとこちらに来られたのね」
 こちらの手に吸いつくような、なじみ深い皮膚の感触に安堵する。
 植物が作る小さな闇の中で、私の天使と指を絡ませた。

(続きは本誌でお楽しみください。)

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