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物語を愛するすべてのひとたちへ-小説すばる

2018年6月号 小説すばる

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【著者インタビュー】津川友介『世界一シンプルで科学的に証明された究極の食事』

【短編】彩瀬まる「ひかり」

【新連載】天野純希「三木城合戦記 第一回 加代の戦場」

     一
 普段から往来の多い城下の目抜き通りが、今日は一段と賑わっていた。
 加代は空を仰ぎ、大きく息を吸い込んだ。
 この季節にしては日射しは柔らかく、山から吹き下ろす風もいつもより優しく感じる。初春の澄んだ空には、小さな雲がぽつりぽつりと浮かんでいるだけだ。
 東播磨の雄・別所家が本城とする三木城は、三木川南岸の小高い山に築かれていた。その城下は大きな街道が何本も貫き、何千人もの武家や商人、職人が暮らしている。
 城の北側、有馬を経て京へ至る湯山街道沿いでは多くの店が軒を連ね、物売りの声がひっきりなしに飛び交っている。
 加代の暮らす小林村は、城から南へ十五町ほどのところにある。城下へは月に一度買い物に出かけるが、今日は今年最初の市だけあって、見世棚には目移りするほど様々な品が並んでいた。
 華やかな柄を染め抜いた反物に、いかにも高価そうな化粧道具。茶器に陶磁器に刀剣類。珍しい干物や昆布に、目にすることもめったにない、砂糖でできた菓子。
 眺めているだけで、加代は心が浮き立ってくるのを感じた。集まった男女の表情も、どことなく晴れやかだ。
「やっぱ、すごい人やねえ」
 隣を歩く咲が、感嘆の声を上げた。
「加代ちゃん、はぐれたらあかんで」
 菊が市女笠を上げ、こちらを向いて釘を刺す。
「うん、わかってるよ」
「頼むで。加代ちゃん、目ぇ離すとすぐおらんくなってまうんやから。去年の正月だって……」
「あ、菊ちゃん、咲ちゃん、見て見て!」
 目に入った色とりどりの櫛に惹かれ、加代は小物屋の軒先に駆けた。龞甲の櫛を手に取り、じっと見つめる。
「へえ。ええねえ、それ」
 追いついてきた菊と咲が顔を輝かせるが、加代は溜め息をひとつ吐き、櫛を置いた。
「あかんわ。うち、こんな銭持ってへん」
「娘さん、こっちなら安うしとくで」
 店の主が別の櫛を薦めてくるが、値を聞いて加代は腕組みした。
 この櫛を買う銭で、妹と弟に何食食べさせてやれるだろう。考えて、やはり断念した。菊と咲も、口をへの字にして首を振っている。
「ほうかい。ほな、どっか去ねや。商いの邪魔やで」
「何や、おっちゃん。ごうわく(腹が立つ)なあ」
「ほれ、さっさと去ね。しっ、しっ」
 犬でも追い払うように手を振られ、三人は憤然と踵を返す。
 とはいえ、加代たちが裕福でないことは、身なりを見れば明らかだった。地味な麻の小袖に、まるで飾り気のない細い帯。しかも、小袖の色はずいぶんと抜け落ち、あちこちに接ぎが入っている。どこからどう見ても、貧しい百姓の娘だ。
「ああ、嫌や嫌や」
 菊がつまらなそうに愚痴をこぼす。
「どっかの裕福なお侍さんが、うちに言い寄ってくれへんかなあ」
「何言うてるの。菊ちゃんには市蔵さんがおるやないの」
 市蔵は村の若衆で、菊のもとにしばしば通っていた。
 独り身の若衆は、気に入った娘があれば、夜な夜なその娘の家に忍び通いする。娘の家の者も、それを咎めることはない。見目のいい娘になれば、毎晩のように違う男が通ってくることもあった。
 そして、もしも娘が身籠れば、その娘が子の父親を決めることになっていた。父親だと指名された男は、その娘を必ず娶らなければならない決まりになっている。
「市蔵さんか。まあ、悪い人やないんやけどねえ」
「あの人は長男坊やし、家は田んぼも持ってるし、贅沢言うたらあかんよ」
「それでも、嫁に行ったら朝から晩までこき使われるのは一緒やもん。うち、もう毎日泥だらけになって働くのはうんざりや」
 菊は野良仕事で荒れた手を見つめ、盛大に溜め息を吐く。
 加代と菊は、この正月で十六歳、咲は十五歳になっていた。
 この歳になれば、嫁に行くのも珍しいことではない。同じ年頃の娘の中には、もう子を産んでいる者も少なくはなかった。
「加代ちゃんこそ、誰かええ人おらんの?」
 咲の問いに、加代は「ううん」と首を傾げる。
「加代ちゃんのおっ父は、いちおうお侍やったんやろ? 他のお武家から縁談とかあれへんの?」
 加代は首を振った。
 父が城勤めの侍だったのは、もう九年も前の話だ。戦で傷を負って禄を返上してからは、他の侍衆との付き合いもない。加えて、一家四人がようやく食べていける程度の家だ。縁談など、どこからもきたことがない。
 だがそれ以前に、加代は侍が嫌いだった。米の一粒も作らず、苦労して得た収穫を年貢として取り上げ、戦になれば田畑を踏み荒らす。父が侍をやめてくれて、加代は心からよかったと思っていた。
「ほな、伊助さんなんかどうや。三男坊やけどめっぽう強いし、もうすぐお城勤めのお武家様に奉公するって言うてたで。戦で手柄でも立てたら、土地持ちになれるかも」
「うちは、嫁入りはまだええわ。家は女手がうち一人やし、妹も弟も小さいし、おっ父一人残して行けへんわ」
「そんなん言うてたら、行き遅れになってまうで。せっかくの器量よしが台無しや」
 菊はからかうように言うが、加代は自分が嫁に行くということがうまく想像できない。今は、日々の暮らしと妹弟の世話で手一杯だった。
 不意に、神社の方角から歓声が上がった。鳥居の向こうに人だかりができている。
「何やろう。行ってみよう!」
 鳥居をくぐると、猿曳きの謡いが聞こえてきた。唄声に合わせて、羽織を着た小さな猿がくるくると宙返りしている。三度、四度と繰り返すと、猿は「ああ、くたびれた」と言わんばかりに仰向けに寝転ぶ。
「これ、見物の衆がおられるのだぞ。もそっと気張らぬか」
 猿曳きは手にした棒で地面をぴしぴしと叩くが、猿は不貞腐れるように肘枕までしている。見物人から笑い声が上がり、加代たちも小物屋で邪険にされたことなど忘れてころころと笑った。
「ええい、なんとものぐさな猿よ。ならば、わしが手本をば」
 そう言うと、今度は猿曳きが見事な宙返りをしてみせる。客がどっと沸き、投げ銭が飛んだ。
「ほな、また後でね」
 猿曳きの人だかりを離れると、三人は別れてそれぞれの目当ての店へ向かった。
 城下までやってきたのは、父が吞む酒を買うのが目的だった。普段は自分で造ったひどい酒ばかり吞んでいる父の、めったにない贅沢だ。菊は研ぎに出していた鎌を受け取りに鍛冶屋へ、咲は針と糸を求めて小間物屋へ向かった。
 目指す酒屋は、三木川沿いの船着場近くにある。
 荷揚げ人足の威勢のいい掛け声が飛び交い、昼日中から遊女たちが客を引く。場所柄、このあたりは女郎屋も多かった。酒の臭いを振りまきながら、遊女にしなだれかかっている者までいる。
 一升入りの大徳利を購い、余った銭で肴でも買っていってやろうかと思案していると、いきなり後ろからぶつかられた。その拍子に徳利が落ち、がしゃんと音を立てて割れてしまう。
「ああっ!」
 父が爪に火を点すようにして貯めた、なけなしの銭で買った酒が、見る見る地面に吸い込まれていく。
 ぶつかってきたのは、中間二人を従えた若い侍だった。上等な袴と小袖、派手な色遣いの羽織。身なりからすると、それなりに地位のある武家だろう。そして、明らかに泥酔している。
 加代は憤懣のあまり、何事もなかったかのように通り過ぎようとする侍に向かって怒鳴った。
「ちょっと、なんてことしてくれるんや!」

(続きは本誌でお楽しみください。)

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