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物語を愛するすべてのひとたちへ-小説すばる

2018年4月号 小説すばる

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【著者インタビュー】朽木誠一郎『健康を食い物にするメディアたち』

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 プロローグ
 親父が死んでくれるまで後一時間半――。
 大崎正好は装飾的なアンティークチェアに座り、マントルピースの中の炎を見つめていた。両手の指は膝の上で組み合わせている。
 頻繁に視線を上げ、掛け時計の短針を――いや、長針を確認した。遅々として進まない一分一分がじれったい。
 気がつくと、両手が震えていた。膝が貧乏揺すりをしているせいだった。組んだ手を解き、膝頭を鷲摑みにする。だが、震えを押さえ込むことはできなかった。
 ――状況は何も変わらないのに生が死に変わる。
 不思議な感覚だった。
 正好は深く息を吸い、静かに長く吐き出した。存在するのは、リビングルームに忍び込んでくる雨音を除けば、駆け足になっている自分の心音と、薪が爆ぜる音だけだった。
 無音の掛け時計のせいでよりいっそう時間を実感する。むしろチクタクと音がすればいいのに、とさえ思う。
 正好はチェアから腰を上げると、窓際に近づいた。天井のそばから絨毯まで流れ落ちるカーテンを引き開ける。夜の闇を映し出す窓ガラスに、雨粒がまだら模様を作っていた。
 ――親父が死ぬ夜に相応しい陰鬱さだ。
 正好は自嘲の笑みをこぼした。
 いや、親父の死を望む親不孝者にこそ相応しいのか。
 正好は窓に背を向け、リビングルームを見回した。ヨーロッパ調のモールディングが施された室内に合わせて家具類も洋風にしつらえてあり、ダークブラウンで猫足のデスク、キャビネット、コーヒーテーブル――と、父のこだわりが伝わってくる。
 掛け時計をちらっと見やる。
 午後十時四十五分。
 後一時間十五分後に父が死んだとき、この屋敷の相続はどうなるのだろう。総額二十四億とも言われる遺産は、どう分配されるのか。兄弟三人で均等に分ければ八億ずつ――。
 だが、兄と姉がすんなり認めてくれるだろうか。大金が欲しいのは誰もが一緒なのだ。遺産相続で揉めたくはないが……。
 正好は意味もなく部屋の中を歩き回った。居ても立ってもいられない以上、動いているほうがまだ気持ちが落ち着く。
 遺産相続の直前になって遺言書などが出てこないように祈る。もし遺言書があれば、自分に不利な内容がしたためられていることが容易に想像できる。
 大金が必要だ、何が何でも。
 正好は再び時刻を確認した。
 親父が死ぬまで後一時間十分。焦ることはない。父の死へのカウントダウンは確実に数えられている。
 自分が何か直接手を下すわけではない。だからこそ、こうしてそのときを待ち望むことができるのだ。
 チェアに座ろうとしたとき、部屋のドアが開いた。不意打ちだったので心臓が飛び上がった。振り返った先には、ワイングラスを手にした喪服姿の姉─美智香が立っていた。十歳年上の四十歳だ。メイクで巧妙に皺を隠しているのだろう、実年齢より少し若く見える。
「あんたも落ち着かないってわけ?」
 正好は黙ったまま姉を見返した。昨日、十七年ぶりに会った。当時の面影は薄く、常に誰かを睨みつけているような吊り目や、他人を見下したときに見せる唇の吊り上げ方で、ようやく記憶の中の彼女と一致した。
 今にも平手打ちを食らわせそうな形相で罵詈雑言を吐きつけられた思い出しかない。
「そんなに遺産が欲しいわけ?」姉はさっそく例の嘲笑するような唇の吊り上げ方を見せた。「二十年近く音沙汰もなかったくせに、前日にわざわざやって来て……」
 帰ってきて、とは言わないのか。母親と共に家を追い出された異母兄弟など、姉にとっては所詮〝よそ者〟なのだろう。だが、息子の一人である以上、父の遺産は貰う。たとえ、誰が不満を吐こうとも、正当な権利は行使させてもらう。
 大金が必要なのだ。
「なんか文句ある?」
 視線をぶつけ合ったまま、挑戦的に問うた。
 姉は鼻を鳴らすと、正好の真ん前を横切って部屋に進み入り、チェアに尻を下ろした。脚を組むと、漆黒のスカートから色白の太ももが覗く。
 そのまま血の色のワインに唇をつけた。液体の色味は、毒々しいほど深紅に塗られた唇によく似合った。
 眺めていると、姉は薄笑みをこぼした。
「何? 祝杯が不謹慎?」
「……いや」
 姉は体を見せつけるように両腕を軽く広げてみせた。
「あたしだって、喪に服してるのよ」喪服を披露した姉は、掛け時計を見上げると、くすくすと笑った。「まあ、一時間ほどフライングしちゃったけど」
 ――親父が死ぬまで後五十九分。
「姉貴は親父の死を祝いたいの? 悼みたいの?」
 姉は脚を組み直した。挑発的に顎を持ち上げる。メイクでも隠し切れない首のたるみが伸びた。
「何? お説教? あんただって遺産を貰いに来たくせに」
 別に姉を非難するつもりはなかった。姉の言うとおり、自分も父の遺産目当てに帰ってきたのだから。
 答えずにいると、姉はまたワインに口をつけた。隣のコーヒーテーブルにグラスを置く。
「それにしても、あんた、お父さんが死ぬ日をよく覚えてたわね」
「……別に」
「日めくりカレンダーを一日一日めくりながらこの日を待っていたんでしょう、どうせ。ごうつくばりねえ」
 頰が引き攣った。
 遺産を欲しているのは同じくせに――。

 

(続きは本誌でお楽しみください。)

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