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物語を愛するすべてのひとたちへ-小説すばる

2018年3月号 小説すばる

【短編】天祢涼「僕にはあの子がよく見えない」

     1
 お祭り騒ぎ。
 室内の状況は、この一言で表現できた。
「みんな悟空が倒すでしょ」「一人くらいベジータが倒すと思うよ。キャラの存在意義がないから」と、大学生と『ドラゴンボール』の話で盛り上がる男子小学生。「今日ね、学校でね、ええとね、友だちがね、それより先生がね」と、ひたすら口を動かす女子小学生。タブレットPCでYouTubeを見ながら「★%×♡●!」「▲□★$○!」などと、僕には聞き取れない単語を絶叫する女子中学生たち。
 ほとんどの子が好き放題に、思い思いのことをしている。
 例外なのが、声をそろえて九九を口にする三人組だった。
「3×5=15、3×6=18、3×7=21……」
 三人組の顔ぶれは、小二女子、小四男子、小五女子。年齢がばらばらな子どもが一斉に九九を覚えようとしている風景は、なんとも不思議だ。
 不思議をあっさり可能にしているのは、天野ひとみさんである。やっぱり、勉強を教えるのがうまい。
 けれど、こういう塾は─。
 シャツの右袖が、弱々しく引かれた。
「……した」
 ショウくんが俯きながら、僕にプリントを差し出してくる。喧騒に紛れてはっきり聞こえなかったけれど、「できました」と言ったんだろう。
「もうできたの? 見直しはした?」
 俯いたまま、ほんの少しだけ首を縦に振るショウくん。見るからに自信がなさそうだ。猫背のせいで、余計にそう見えるのかもしれない。
「こんなに早くできたってことは余裕だったんだろうなー。どれどれー」
 わざとらしく眼鏡をかけ直し、僕は赤ペンを手に取る。
 ショウくんにやらせたのは、漢字の書き取りテストだ。ほかの子たちと違って渡したらすぐに始めたけれど、僕の力ではない。ショウくんの学習意欲が高いだけだ。
 小学四年生をすぎた辺りから教科書が難しくなり、授業についていけなくなる子が増える「十歳の壁」があると言われている。
 ショウくんは小学五年生だから、焦っているのかもしれない。
 漢字テストの結果は、二十問中十一問正解だった。「浅」の偏がニスイになっていたりと単純ミスが多く、ちゃんと見直ししたとは思えない。四日前、同じテストをしたときはサンズイだったのに。それでも僕は、感嘆の息をついていた。
「この前は正解は六問だけだったから、ほぼ倍だ。ちゃんと復習したんだね。すごい」
 おだてているのではなく、本心だ。ここには、予習も復習もなかなかできない子が多いのだから。
「……先生が、するように言ったから」
 ショウくんは辛うじて聞き取れる声で、ぼそぼそと言う。長い前髪に隠れかけた目は、こちらを見ようともしない。相変わらず、ほめてもうれしそうにしない子だな。気にかかりながらも、「だめだって」と大袈裟に顔をしかめる。
「僕は勉強は教えてるけど、先生ではないから『龍之介さん』と呼ぶように。ひとみさんから何度も、そう言われてるでしょ?」
 子どもたちが親しめるようカジュアルな服を着ているのも、ひとみさんの方針だ。
「……ん」
 ショウくんは、微かに頷いただけだった。この前までバイトしていた塾なら、「ちゃんと答えなさい」と注意しなくてはならないところだ。
 でもここは、子どもの生育環境に合わせて勉強を教える、無料の学習塾。
「呼びたくなったら、いつでも『龍之介さん』と呼んでね。その方が、僕もうれしい」
 友だちに話しかけるような調子で、僕は言った。

 僕が通う川崎市立大学は、川崎市多摩区、小田急線向ヶ丘遊園駅の北口から歩いて十分ほどのところにある。
「突然で申し訳ないんだけど、佐藤くん、塾を手伝ってくれない?」
 橋本樹理亜さんに頼まれたのは、新年度が始まってすぐ。大手学習塾のバイトを辞めたばかりで、学生課の掲示板で次のバイトをさがしているときのことだった。
 学習塾を辞めた理由は、たいしたことじゃない。「授業の準備や反省会」と称してサービス残業を当たり前のように強いる上に、子どもの成績が下がったら時給を下げる職場に嫌気が差しただけだ。もう塾にはかかわりたくなかったけれど、僕はこう応じていた。
「どんな塾?」
 入学して一年。同じ教育学部なのに、立ち話くらいしかしたことがない彼女と接する機会を逃せるはずがなかった。友だちの羨望と嫉妬の視線を受けながら学食に移動して、詳しい話を聞いた。
 橋本さんによると、僕に手伝ってほしいのはNPO法人「かわさき子ども学習支援センター」が運営する学習塾《虹》。経済的に苦しい家庭の子どもや、勉強する習慣のないまま育ってしまった子どもなどが学ぶための塾だ。授業料も教材費も、原則無料。《虹》の場合は、市の補助金や、市民からの寄附で運営しているという。
「子どもの貧困」が社会問題になるにつれて、そういう塾が増えているというニュースは知っていたし、それなりに問題意識も持っていた。
「ボランティアだからお金は出ないけど、週三日─火、木、土曜のうち、来られる日に来てもらえないかしら。佐藤くんの教え方は評判がよかったと聞いてるし、子どもたちと仲よくできそうだし」
 だから、橋本さんが控え目に掌を合わせた瞬間にOKした。橋本さんと一緒に働けることに舞い上がってもいた。
 いま思えば、もっと慎重になるべきだった。せめて新しいバイトを見つけてからにした方がよかったし、自分に務まるか真剣に考えるべきだった。
 筆記試験と面接をパスして採用されたものの、初日、あまりに自由にお祭り騒ぎをする子どもたちに絶句した。十人前後の子どもに、大人たちがそろって翻弄されている……事前にひとみさんから「勉強する習慣のない子もいるから、無理にやらせようとするのは逆効果。辛抱強くつき合うように」と言われてはいたけれど、これほどとは。
 この職場は、僕には荷が重すぎる。痛感していたところに、橋本さん……じゃない、ひとみさんの方針で下の名前で呼ぶことになった樹理亜さんが、ボランティアの女性とこんな話をしているのを聞いてしまった。
「樹理亜さん、この前、川崎駅の近くを男の人と歩いてたよね。カレシ?」
「人違いですよ。わたしは、そっちの方には行きませんから」
 はにかみながら首を横に振る樹理亜さんは、カレシの存在は否定しなかった。
  ちっちゃくて長い黒髪で、お人形さんみたいにかわいらしい彼女と、冴えない眼鏡男の僕とではつり合わない。そんなことはわかっていたけれど、わずかな望みすら初日に断たれるなんて。
 すぐにでも辞めたくなったが、ひとみさんから、最低でも三ヵ月は続けるように言われている。
 子どもたちに迷惑をかけたくないから、その間は全力を尽くすつもりだ。

(続きは本誌でお楽しみください。)

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