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物語を愛するすべてのひとたちへ-小説すばる

2018年2月号 小説すばる

【新連載】朝井リョウ「照らす」

 上がった。
 そう聞こえた。自分の声かもしれないし、チームメイトの声かもしれない。とにかく、誰かが短く叫んだ。
 咄嗟に差し出した腕に、ボールが当たってくれた。そのまま宙へ弾かれた球体は、静かに激しく回転している。
 上がっている。ボールがつながったのだ。
 セッターが走り出す。
 相手レフトからのクロススパイク。前衛のレフトにディグをさせるなんて、やはりすごいコースに打ち込んでくる。乱れたディグを見て、相手ブロッカーがセンターへのマークを捨てたのが分かる。
 下半身に踏ん張りをきかせる。不意のディグで体勢が崩れたけれど、そのまま膝をつくわけにはいかない。
 セッターが、ボールの真下に体を滑り込ませる。
 その一秒前。
 セッターと、目が合う。
 大丈夫。
 ほんの一瞬のあいだに、目で、セッターにそう伝える。
 大丈夫、このまま倒れ込むことはしない。
 だから、持ってこい。
 言葉は声にならない。
 セッターが、視線をボールに戻す。
 起き上がらせた体を、アタックラインより後ろへ運ぶ。助走のコースを確保する。
 セッターの手元に、ボールが収まる直前。
 左足を踏み出す。両腕が大きく後ろに振られる。
 セッターの親指が、ボールを運ぶべき方向を指している。
 その指先に導かれるように、ボールが放物線を描く。
 前衛のレフトへ。
 自分が、いま、向かっているところへ。
 左足に乗った体重を、足の裏で思い切り弾く。
 前へ、大きく一歩。
 相手の前衛が、動きを揃えてこちらに向かってくる。
「三枚!」
 思考をなぞるように、後ろから、声が聞こえる。
 何度も聞いた声。
 何度も何度も何度も聞いた声だ。
 そして、これから先、何度聞けるのか、わからない声でもある。
 大きく踏み出した体を、右足が受け止める。すぐに、左足がついてくる。
 体を前に進めていた力を、すべて、上へ。
 足の裏から伝わるエネルギー、後ろへ振っていた両腕がつかみ取ってきたエネルギー、そのすべてを束ねて、上へ。
 跳ぶ。
 体育館のライトが眩しい。
 左腕を伸ばす。指先まで伸ばす。その先に、ちょうど、ボールが飛んでくる。
 ずっと前から、そこに届くことが決まっていたみたいに。
 完璧なセットだ。
 目の前に、掌が六つ現れる。三枚ブロック。きれいに揃っている。
 その向こう側には、レシーバー。
 両目に映る全員が、本気で、これから打ち込まれるボールをコートに落とすまいとしている。
 だけど、それはこちらも同じだ。
 肘を高く上げた右手、まっすぐに伸ばした左手、反らせた腰、床を蹴った脚、すべてが、あるべき場所にカチッと嵌まる。
 跳んだ体が、最高到達点で止まる、その一瞬。
 右手を振り下ろす。
 大きく開いた掌が、ボールに迫っていく。
 行け。
 何万回と受け止めてきた衝撃が、右の掌の上でたった一回、爆ぜる。

 

   第一章
    1
 見えない。
 晃人は、自分の背筋をぐいっと伸ばしてみる。それでもやっぱり、前にいるはずの担任の姿はよく見えない。ということは、目の前に座っている男子生徒は、けっこうな猫背のくせに、それでもじゅうぶん自分より背が高いということになる。羨ましい気持ちと喜ばしい気持ちが、晃人の小さな胸の中でカチカチと小競り合う。
 晃人の席は教室の左から二列目、前から四番目。敬太の席は同じ列の前から二番目。黒板に向かって左前から出席番号順に座っている今、敬太は晃人の前の前の席にいるので、話しかけることが難しい。それがもどかしくて、晃人はまた背筋を伸ばした。
「ま、今日のホームルームで伝えとくことはこんくらいか─あー、そや、アレがあったわ」
 黒い学生服に覆われた背中の向こう側から、まだまだ耳に慣れない担任の声が届く。晃人は、教室の壁の右上に設置されている時計をちらちらと気にしながら、きのうの入学式のあとに配られたクラス名簿を見た。
 出席番号10番、寺澤晃人(てらさわ あきと)。見慣れた自分の名前の上には、出席番号9番、津本典弘(つもと のりひろ)、という文字がある。
 津本。名字を確認しながら、晃人は、目線よりも上のほうにある短く切り揃えられた襟足を凝視する。身長、どんくらいやろ。座高がこんなに高いってことは、もしかしたら、いまの時点ですでに一七五近くあるかもしれん─。
「はい」
 突然、その襟足がぐるんと回転した。津本典弘が、こちらに振り返ったのだ。
「プリント。後ろ回してって」
 それだけ言うと、津本はまたぐるんと回転し、すっきりとした襟足を晃人に見せつけてきた。やっぱりでかくて、眉毛が太かった。目の前に広がる長い背中に、晃人は少しずつ情報を加えていく。
「今日の放課後から部活動見学が始まる。来週の金曜日までには仮入部したい部を決めておくように。全員とりあえず入部はしてもらうからなー」
 仮入部、という言葉に、教室の中のところどころの空気がぴりっと張りつめた。この時点ですでにどこの部に入ろうか決めている人、ほんとは部活なんて入りたくないのにめんどくさいなあと思ってる人、単純に上級生と触れ合うことが怖い人。ひとりひとりの体温が変わり、それまでなめらかだった教室の空気にムラが生まれたことがわかる。
「はい」まだきちんと話したことのないクラスメイトに、晃人はプリントを回す。いつももらうプリントの半分くらいの大きさのそれには、仮入部届、と書かれている。
「いろいろ見て回って、来週の金曜のこの時間までに提出するように。早く決める分にはいいけど、期限破るんはあかんぞ。はい、じゃあ日直」
 左の列の前から二番目、出席番号2の生徒が「きりーつ」と声を出す。
 津本も、立ち上がる。
 やっぱり、でかい。
「えっ」
 礼をして顔を上げると、もうすでに、そこに津本の姿はなかった。おかしい。そんなわけない。振り返ると、津本はその大きな体をかくんと折って、教室の後ろにあるロッカーに腕を突っ込んでいた。そして、カバンを取り出すと、そのまま教室を出て行こうとしている。
 いや、行動早くね? 晃人は自分のカバンを取りに行くこともせず、教室を飛び出す。もしかしたら、もうすでに見に行く部を決めているのかもしれない。
 放課後の廊下には、知らない人たちの顔がいっぱいだ。同じ小学校から来ている人もいるけれど、別の小学校の人のほうが断然多い。そうでなくても、昨日おろしたばかりの制服を着ているというだけで、まっさらな襟首から飛び出ている顔までおろしたてのように見える。
 だけど、津本の姿はすぐに見つかる。みんなが立っている廊下にいるときのほうが、その体の大きさがより際立つ。
 呼び止めようと、口を開いたそのときだった。
「津本君!」
 男子にしては高い声が、晃人の背中を飛び越えていった。
 津本が振り返る。晃人も振り返る。案の定、そこにいたのは敬太だった。
「あ、晃人! やっぱ晃人も声かけようって思った? 津本君に」
 晃人の横に敬太が並ぶと、二人の向かいに立っている津本の大きさがより際立った。津本だけ、真新しい学生服がぴったりと体のサイズに合っている。
「津本君って、もう、入る部活決めとったりする?」
 最近やっと一四五センチを超えた敬太が、津本を見上げる。その構図は、まるで大人と子どもだ。と言っても、晃人もやっと一五〇センチを超えたところなので、津本から見れば同じようなものかもしれない。
「いや、まだやけど……」
 まだっていうか、と言いよどんだ隙に、敬太が津本に向かって一歩前に踏み出した。
「じゃあ、おれらと一緒にバレー部見に行かん?」
 津本に近づいたあまり、敬太はほとんど真上を見ているような格好になり、晃人は思わず噴き出してしまった。

 

(続きは本誌でお楽しみください。)

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