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物語を愛するすべてのひとたちへ-小説すばる

2017年12月号 小説すばる

【新連載】青柳碧人「鳥籠のある家」

     1
 沢崎琉斗くんは、空っぽの鳥籠に怯えている。
 ――大学生講師の仲田明日彦からそういう話を聞く一時間前まで、私は品川の本社で行われた研修に参加していた。
 私の勤める《(株)SCエデュケーション》は、首都圏に全二十七教室を持つ、家庭教師派遣会社だ。業界では五位か六位という位置にいるらしく、正式な社名は知らずとも、《家庭教師のシーザー》と「来た、見た、勝った!」というキャッチフレーズを聞けば、多くの人がピンとくるはずである。
 今日は、半年に一度、各教室の家庭訪問担当主任が集まって行われる「児童ケア研修」の日だった。大学生講師の質の向上や顧客を離れさせない方法などを考える通常の研修と違い、児童の心のケアをテーマにしたものであり、児童相談所の職員が講師として三十分ほど話をしたあと、グループディスカッションをするのだ。児童虐待や学校内のいじめなどといった重い内容も含み、社会的な責務を感じさせる一方で、従来の家庭教師派遣業の仕事内容からかけ離れており、実務に生かせないのではという声も陰で聞こえている。
「あんなの聞かされても、意味ないよな」
「もっと、派遣先に遅刻をする大学生たちへの対応とか、そういうのやってほしいよ」
 今日も研修終了後、本社を出た階段のところで、参加者のうちの二人が愚痴っているところに出くわした。船橋教室と王子教室の担当主任だった。二人は同期で、たしか私より三つ先輩だったはずだ。
「お、お疲れー」
 私の顔を見るなり、王子教室のほうが笑いかけてきた。
「お疲れ様です」
 愚痴につき合わされても面倒なので、私は会釈をし、すぐに駅への道へと向かった。背後で二人が、ひそひそと私のことを噂しているのが聞こえた。どうせ、鬼子母神の高梨家の一件のことを話しているのだろう。
 かまうものかと、スーツのポケットからミントガムを一つ取り出し、口に放り込む。
 池袋に着くころ、私はまだ、味を失ったミントガムを嚙んでいた。改札を通り抜け、一日中人がごった返す地下構内から、東口五差路の交差点へ続く道へと出る。サンシャイン通りへ流れていく人並みから外れてオフィス街の細い道へ進み、なじみのラーメン屋の角を曲がると、三階の窓に「来た、見た、勝った!」というキャッチフレーズが見えた。エレベーターを待つあいだ、私は思い出したように包み紙を取り出し、ミントガムを吐き出した。
「おはようございます」
 三階に上がり、挨拶をしながらメインルームに入っていくと、パンフレットが平積みになっているカウンターの向こうのデスクには、沼尻室長と、スーツ姿の見慣れない女性が一人、いた。
「おっ、おはようございます」
 まるで同級生のように手をひらりと上げる。横で女性は椅子から立ち上がり、頭を下げた。黒髪で、大学を出たてのようなあか抜けなさがある。
「原田主任、紹介するから、こっちにきて」
 二人の近くに行くと、沼尻室長はひょこりと立ち、
「こちら、新人の清遠初美さん。中途採用で、今日からうちの教室で働くことになったから」
「清遠です、よろしくお願いします」
 彼女は再び、私に向かって頭を下げた。
「原田です」
「知ってるよね。鬼子母神の一件の。うちの社じゃ、ちょっとした有名人」
 その声には、皮肉がこもっていた。
 二か月前から池袋教室の室長に就任したこの上司が、私は苦手だ。頭髪は短く刈り込み、やせ形で肌は浅黒い。スーツも紺や濃い紫色といったものを選び、色つきのシャツにブランド物のネクタイを好んで合わせる。歓迎会では趣味はドライブとサーフィンなどと言っていた。どう見ても私より若いが、年齢は私より八歳上で、今年四十になるという。デスクの上には、プラスチックでできた、鮭やマンボウやタツノオトシゴの手のひらサイズの骨格標本が並んでいる。ゲームセンターで手に入る、二百円や三百円のカプセル入りのフィギュア(ガチャガチャというやつだ)が好きなのだそうだが、こんなものを仕事場に並べて置く神経が信じられない。
「原田主任は、このあと、何かあるんだっけ?」
 沼尻室長は訊ねた。
「三時から定期面談です」
「三時……って、あと少しじゃない。そうか、じゃあ、もう少し私が続けようか」
 机の上に広げた仕事の資料に目を落とす沼尻室長。私は荷物を置くために奥のロッカールームへ向かう。
「原田主任」
 沼尻室長は声をかけてきた。振り返ると、彼はキツネのような目で私を睨んでいた。
「また嚙んだでしょ、ミントのガム」
「ええ……」
「俺、嫌いだって言ったよね、その匂い」
「以後、気をつけます」
 ロッカールームに入り、隅のゴミ箱にミントガムの包みを放り捨てた。
 相手と至近距離で話すことが多い職業なのだから、口臭予防は身だしなみの一部である。――半年前までこの池袋教室にいた国尾室長はことあるごとにそう言っていた。理想の上司とまでは言わないが、彼の言うことは少なくとも私には合理的に聞こえたし、いつしかミントガムは習慣になっていた。
 しかしやはり、新しい上司に合わせなければならない。
「失礼します」
 面談の予定を入れていた仲田明日彦という大学生がやってきたのは、私がロッカールームを出たのとほぼ同時だった。
「あの、ちょっと早かったですか?」
 やせ形で、頭髪全体を右に流した今風の髪型をしている。灰色のパーカーに、茶色のショルダーバッグ。大学が終わった足でやってきたという感じだった。
「いや、大丈夫だ。こっちへ」
〈面談室1〉と書かれたドアの前まで案内し、ノブを摑んで開いた。面談室と言っても、パーテーションで区切られただけの空間に無機質な白い机と向かい合う一組の椅子があるだけのものだ。奥のほうに彼を座らせ、すぐさまデスクから資料を持ってきた。
「久しぶりだね」
「ご無沙汰しております」
 大学生講師にしては、丁寧な挨拶だった。
 家庭教師の派遣アルバイトというのは学生のあいだでも人気であり、この池袋教室だけでも三百人近くの登録者がいる。私の担当はそのうち五十人ほど。登録後、スクーリング形式で指導方法の研修を行い、各人十分から十五分ほど、模擬指導をしてもらう。五十人ほどいれば顔を覚えていない登録者もいるが、彼の顔は覚えていた。
「江古田の沢崎琉斗くんだったよね。中二男子で、数学」
「はい」
 私は資料に目を落とした。緊張しているようなので、砕けた口調を使うことにする。
「ああそうだ。お父さんが亡くなっていて、お母さんが働いている家だ。市民団体の活動もしていて、どうかな。教育熱心で、何か厳しく言われたりはしない?」
「いえ、それはないです」
「琉斗くんの学習態度は」
「すごく、いい子です」
 家庭教師派遣会社と、教室型の学習塾の最も大きな違いは、講師が生徒に指導する現場が、私たち職員のすぐ近くにないことである。教室型の場合、生徒に何か問題があればその日のうちに講師が職員に報告し、対応することができるし、学習における生徒の問題点を共有することもできる。その点、生徒はもちろんのこと、講師とすら日ごろ会うことのない家庭教師派遣会社は、現場と職員の距離が遠くなりがちだ。その問題点をできる限り解消する目的で設けられているのが、この定期面談である。
 派遣先を持つ講師は最低でも二か月に一度は、登録先の教室に足を運び、指導中の生徒の学習について報告する義務を負う。ただし、報告のマニュアルなどがあるわけではなく、事実上は担当の職員が資料を基に質問するというのがほとんどだ。専用ウェブサイトを通じて保護者が書き込む指導の感想や、生徒が受けたテストの成績などのことであるが、総じて、この資料の多寡が面談の長さに大きく関わる。彼の担当している沢崎琉斗という中二の男子生徒の場合、問題は見当たらず、定期面談は五分かそこらで終わるだろうと思われた。
「定期テストの結果を見る限り、琉斗くんの成績も上がっているみたいだね」
「はい。このあいだは、勉強が楽しくなったと言ってくれました」
「そうか。それはよかった。このまま仲田先生に続けてもらえれば、と思うんだけど」
「はい……」
 仲田の声は重くなった。悪い兆候だった。
 サークルや他のアルバイトとのかねあいで、途中でやめたいと言い出す学生は常にいる。皮肉なことに、人当たりがよく、生徒や保護者への印象がいい講師ほどそう言い出す傾向がある。仲田からもその雰囲気を感じる。
 家庭教師という仕事の特性上、派遣先の家から文句が出ない限り、回り始めた仕事の担当者を途中で代えてしまうのは生徒に負担をかけることになる。せめて受験シーズンが終わるまで、区切りのテストが終わるまでと、そういう学生を説得して引き留めるのも、私たちの大事な仕事なのだ。
「何か事情があるなら、言ってもらえるかな」
「事情と言いますか。……琉斗くんは進みは遅いですけれど、素直だから、とてもやりがいを感じています。だから、この先も続ける限りは、琉斗くんの数学を見たいんです」
 どうやら、やめたいという話ではないようだった。
「ただちょっと、あのお家が……」
「お家? お家がどうしたの?」
「不思議というか、気持ち悪いというか……」
 歯切れ悪く、とんでもないことを言い出した。派遣先の家を「気持ち悪い」などと。
「どういうことかな」
 そして彼は、言ったのだ。
「……空っぽの鳥籠が、あるんです」

 

(続きは本誌でお楽しみください。)

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