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物語を愛するすべてのひとたちへ-小説すばる

2017年11月号 小説すばる

【新連載】中澤日菜子「石灯る夜」

 ざくり、ぱさっ。もくり、ぱさっ。
 土を掘っている。
 夜空は厚い雲に覆われ、あたりは濃い闇に包まれている。九月も半ばだというのに空気はまだ暑く湿っている。昨日の雨に濡れた樹々のよいにおいがただよい、わたしはおおきく深呼吸をする。
 握ったシャベルの先端を、ふたたび赤茶けた土に差し入れる。乾ききっていない土は柔らかくて、軽くちからを入れただけでシャベルの刃は三分の二ほども埋まってしまう。掬い上げた土を放り投げるように背後に捨てる。
 ざくり、ぱさっ。もくり、ぱさっ。
 地面に置いたペンライトの細い光だけが頼りだ。そのかすかな光を受けて「石」の肌が、きらりと光る。
 隣にしゃがみこむミカミが、おおきなくしゃみをした。一回二回、つづけて三回。

 ちらりとミカミを見る。ミカミの横でも懐中電灯がちいさな光の輪を作っており、ぼんやりとだが表情が読み取れた。視線に気づいたミカミが、ちょっと照れたような顔でほほ笑んだ。わたしも笑みを返す。
 ふたりとも無言だった。無言でただひたすら土を掘っていた。けれどそれはけっして不快な沈黙ではなかった。しいて言うなら肌ざわりのよい布でお互いが緩やかに繫がり合っている、そんな沈黙。いつでもほどいて会話することもできれば、あえて布を伸ばし、距離を広げることもできる。自由で豊かな静けさがこの「石」のまわりには満ちていた。
 だからわたしはここに来ているのだろうな。他所にはけっして存在しない独特な「時間」を味わいたくて、ここに通いつづけてしまうんだ、きっと。とはいえハヤシダが来たら静けさなんてあっという間に吹き飛んでしまうけれども、でもそれはそれで楽しい時間ではあるし。
 ハヤシダのむっちり丸っこい顔を思いだして、思わず、くくっ、喉の奥で小さな笑い声を上げてしまう。
「どうしたのユキさん」ミカミが顔を上げ、ちいさな声で問いかけて来た。
「いえ、なんでもないです」あわてて手を振り視線を合わせると、ミカミのほほ笑みがさらに広がった。目じりに寄った皺が深まる。
 ミカミの歳も仕事もさらに言うなら本名すらも、わたしは知らない。顔かたちや喋りかた、立ち居振る舞いからなんとなく六十代後半くらいで、学校の先生や医師と言った知的な職業に就いている、あるいは「いた」のではないかと想像しているだけだ。それはミカミも同じで、わたしの本名や住所、年齢などなにも知らないはずだった。
 ミカミは視線をわたしから外すと、土を掘る作業に戻った。わたしも掘ろう。そう思いシャベルの柄を握り直そうとしてバランスを崩し、ペンライトを足で蹴ってしまう。ころころ転がったペンライトは向きを変え、光が目のまえに聳える「石」を照らし出す。
「石」。夜目にも黒ぐろと存在感を放つ巨大な石。岩、と言っていいくらいの、大きなおおきな石。てっぺんに一ヵ所、ひとの拳ほどの大きさの真っ白な結晶がついていて、それはまるで溶け残った雪のように見える。
 ペンライトの灯りを受けた石の肌が、きらきらと輝く。てっぺんと同じ、ごく小さな結晶が散らばっているせいだ。理屈ではそうわかっているけれど、この輝きを目にするたび、わたしはいつも星空を思い起こす。無数の星々が煌めく暗い広い、静かな宇宙。この石は、まるで宇宙をぎゅっと濃縮して閉じこめたみたい。
 この石のもとでは、わたしは「ユキ」という名のひとりの女でしかない。それ以上でも以下でもない。それがありがたかった。わたしからくっついて離れないもの、逃れたくても逃れられないものからほんのいっとき解放される、その時間が場所が在ること、それがなによりもありがたかった。
 がさり。草を踏みしめる音が響いて来、反射的に身を竦める。懐中電灯の眩い光が、さっ、わたしとミカミの頭上を掃くようによぎった。同時に「なんだ。来てたのかい」しゃがれた中年女性の声が聞こえてきて、わたしは安堵する。ミカミが穏やかな声でこたえた。
「ハヤシダさん。いらっしゃい」
 木立を背に、小柄だが横幅の広いひとかげがひとつ。左肩に、ぱんぱんに膨らんだエコバッグをかけている。噂をすればなんとやら。わたしは久しぶりに会うハヤシダに向かい、小さく右手を振ってみせた。
「暇人だねえ、おたくら。よくまあ来るよ、こんなくそ暑っつい夜に、しかも藪蚊だらけのとこにさぁ」ぶつくさ言いながらハヤシダが石のそばへ近づいてきた。
「よっこいしょっと」言い、定位置であるミカミの対面にエコバッグを置いた。ついでがさがさとバッグのなかを搔き回し始める。
 ハヤシダはこの「会」のメンバーのひとりだ。わたしよりもずいぶん前から参加していると聞く。「偽名」を名乗るメンバーのなかにあって、彼女ひとり、本名の「ハヤシダ」で通している。名前だけでなく、仕事や住所、年齢までも明かしていた。以前、なぜ名を明かすのか尋ねたとき「べつに悪いことしてるわけじゃなし。ていうかさ、偽名使うあんたたちのほうがどうかしてるよ、まったく」と叱られてしまったことがある。
「暗いね。なんも見えやしない」言うと、ハヤシダはランタンを取り出し、灯を入れて石のうえに置いた。

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