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物語を愛するすべてのひとたちへ-小説すばる

2017年9月号 小説すばる

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【新連載】雪舟えま「緑と楯」

【新連載】白岩玄「ライオンのたてがみは必要か?」

      直樹

 冬の洗濯は手がかじかむので自然と縮こまりながらの作業になる。風は冷たく、見上げた夜空に浮かんでいる三日月も心なしか素っ気ないように見えた。ベランダには夜の闇で色味を失った洗濯物がハンガーに吊るされて並んでいる。残りはネットに入れて洗った可南子の下着類だけだった。
 昔から洗濯は嫌いではない。ただひとつだけ、女の人のパンツを干すときに、未だに気持ちがざわっとする。取り込んだものをたたむときも、やわらかすぎて頼りないため、いまひとつシャキッとしないという問題があるのだが、干すときの難点としては、ピンチハンガーの洗濯ばさみでパンツのどの部分をつまめばいいのかがわからないのだ。前に可南子に訊いたときは、ちょうど股間の部分を自分はつまむようにしている、そこが一番生地が伸びなさそうだから、と言っていた。でも洗濯ばさみで股間をつまむのがイメージ的に痛そうで、結局聞いたことを無視して、今は毎回違うところをつまんで干している。
 空になった洗濯かごを持って部屋に戻ると、可南子がリビングとつながっている寝室のベッドで横になっていた。つわりがつらいのだろう、ここ最近はずっとああやって苦しみ続けている。実際につわりの女性を間近に見るのは初めてなので基準がわからないのだが、可南子は特にひどい方だと思われる。ほぼ一日中吐き気があるため、会社も何度か有給を取って休んでいるし、何か食べるとすぐに気持ち悪くなって吐いてしまう。もともとスリムな体型も、最近では目に見えてやつれてきていた。望んでできた子どもとはいえ、あそこまで苦しんでいるのを見ると気の毒になる。とにかく今は自分のできる範囲で、彼女が少しでも楽に過ごせるようにするだけだ。
 洗面所にかごを置きに行ったあと、キッチンに戻って後回しにしていた洗い物を始めた。マイホームを購入する際に一目見て気に入ったシステムキッチンは、前のマンションよりもシンクが広くて洗い物が楽しくなる。共働きなのに職場まで電車で一時間はなかなかつらいが、これから子育てすることを考えれば、遠くても広い家に住むことにしたのは間違っていなかったのだろう。きれいになった食器で水切りをいっぱいにし、濡れたフライパンをコンロの火にかけたところで可南子のうめき声がした。
「どうかした?」
「吐くぅ」
 コンロの火を止め、急いでビニール袋を持っていったが間に合わなかった。うつぶせの状態でベッドの外に顔を出した可南子が盛大にゲロを吐く。まだ傷のついていないフローリングの床にべちゃべちゃと落ちて広がり、胃液のにおいが立ちのぼった。第二波を回収するためにビニール袋を口元に持っていく。可南子が袋を自分の手で持ったので、垂れ下がっていた髪が汚れないようにうしろで束ねてやりながら背中をさすった。えずいては荒い呼吸を繰り返しているのが見ていて本当に不憫になる。
「あぁ〜……つらいよぉ」
 うっ、うっ、うっ、と背中が揺れて、どうやら今度は泣き出したらしい。片手で髪の束をつかんだまま、ティッシュの箱から二、三枚抜き取って可南子に渡した。涙を拭い、一緒に口も拭った妻に水を飲むかと訊いてみる。
「……うん、ちょっと欲しい」
 キッチンに浄水を汲みに行き、グラスを渡してから汚れた床の掃除をした。駅員さんの日常ってこんな感じなんだろうかと想像しながら、晩ご飯の残骸であることがうかがえるそれをティッシュで集めて拭き取っていく。自分でやると体を起こそうとする可南子を「寝ときなよ」と制止した。毎日世話をしていれば、慣れるし汚いとも思わなくなる。
「大丈夫?」
 片付けを終えてから声をかけると、ベッドに横になっている可南子のあごがわずかに振れた。
「いつものゼリーが切れてたから、コンビニまで行ってくるね」
 フルーツゼリーは可南子が気持ち悪くならずに食べられる唯一のものだ。さすがにそれだけでは栄養不足なので普通のご飯も作っているが、満足に食べられたことはあまりない。
「他に何か欲しいものがあったら買ってくるけど」
「いや、いい。ありがとう……」
 少し落ち着いたらしい可南子の様子を気にしながら家を出た。車通りの少ない住宅街はひっそりとしていて風が冷たく、歩いている人の姿もない。寒かったので上着のジッパーを首元まで上げ、ポケットに両手を突っ込んでコンビニまでの道を歩いた。スマホを引っぱり出してツイッターをのぞいてみても、スワイプする親指を止めてじっくり読みたくなるような投稿は見当たらない。
 昨日の夜、二人でテレビを観ているときに可南子がこんなことを言っていた。自分は本当に恵まれている、去年子どもを産んだ友達と話していたら、旦那は妊娠中にほとんど何もしてくれなかった、こっちがどれだけつらくても、仕事が忙しいのだと言い張って、朝方まで残業したり、休みの日も仕事に行ったり、妊娠前とまったく同じ生活を続けていたと散々愚痴を言われたそうだ。それをその友達は未だに根に持っていて、たしかに稼ぎはいいけれど、一流企業に勤める男なんかと結婚するんじゃなかったと思っているらしい。可南子は僕がそういう家庭を顧みない旦那じゃなくて本当によかったと喜んでいた。
「やっぱり結婚相手は自分の痛みを分かち合ってくれる人じゃないときついよね」
 可南子が僕の肩に頭を載せながらしみじみと言ったその言葉が、今でも忘れられずにいる。僕がそのときに感じていたのは大きな劣等感だったのだ。可南子の友達の夫に対する、わかってないなぁという優越感はあるにしても、そんなものは誰かに息を吹きかけられたら飛んでいってしまいそうな程度のものだ。
 ファミリーマートでフルーツゼリーを四つ買って帰ってくると、トイレのドアが開いていて、可南子がまた吐いていた。コンビニの袋を床に放り出し、駆け寄るように膝をついて背中をさする。どうやら胃液だけらしく、便器に溜まった水の中に黄色い泡が浮いていた。レバーに手をかけてトイレの水を流した可南子が、ぐったりしてうしろの僕にもたれかかる。まだ新築の家の匂いがするトイレの中で、腕を回して華奢な体を抱きしめながら「つらいね」と言って肩をさすった。
「ホントにつらい。毎日吐いてばっかりだよ……」
 可南子の苦しみが自分のことのように染みていく。でも気がつくと、可哀想だという気持ちがどこかに行って、妙に冷静になっている自分がいた。こうして世話をするたびに、体の中に溜まっていっているこの居心地の悪い感情はなんなんだろう。不満でもないし、かといって愛しさでもない感情が、近頃ずっと蓄積している。
「……ゼリー買ってきてくれたの?」
「うん」
「ありがとう。ごめんね、全部やらせて」
 ううん、と短く首を振る。このままだと可南子に対する思いやりが消えてしまいそうだったので、自分の気持ちをごまかすように体を起こした。不安定になった自分を支えるために浮かんでくるのは仕事のことだ。明日の会議で発表する企画書をもう一度練り直してみようかと考える。
「ちょっとだけ仕事してくるよ」
 そう言うと、可南子は驚いて僕を見上げた。
「え、家で仕事しないって決めたんじゃないの?」
「うん、でも明日の会議で出す企画書がまだ微妙にできてないから」
 可南子の視線を振り切るようにトイレを離れてリビングへと向かった。あの企画書のどこをいじろうかと思いを巡らせる。でも、ノートパソコンの前に座って一通り企画書を読み返してみたところで、今あるものが生まれ変わるようなアイデアはまったく出てこなかった。

 

(続きは本誌でお楽しみください。)

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