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物語を愛するすべてのひとたちへ-小説すばる

2017年8月号 小説すばる

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【短編】柞刈湯葉「記念日」

【短編】柴田勝家「瑠璃光」

 白い月が灰色の峰にかかる。幾千年、冷たい風と粗い砂によって削られ続けた、なめらかな岩肌と錐のように尖った頂上を持つ、ラエルガーシュの山影。
 この山の中腹に、聖タバナ師を祀る僧院がある。僧徒二千余を抱える堂棟二十五基に十三の別院。中央には密字儀種の記された五色旗を揺らす刹塔、それを囲む回り本堂は玉堂三十六廻に白漆喰、三層煉瓦を混ぜたクガン棟造、屋根には、今は剝げているが往時には眩い黄金の輝きを放っていたであろう、アキハールの黄銅瓦。総じて質素ながらも、巨大にして壮麗な奥の院。ラエルガーシュの雄峰を以てしても、その偉容は霞ませることができない。
 この僧院に納められた十億万巻の経典、それを管理する蔵典院の典務の職として、一人の青年僧が勤めている。
 名前をミバイと言った。その名は西域の高地語で「何故」を意味していた。
 ミバイは西方の大都市であるマカシュナグルで生まれ、また彼の両親は聖タバナ師を奉讃する僧堂の雑役を務めていた。今、彼がこの僧院にいるのも、その縁によるものだという。しかし、ミバイは自身の境遇を知らない。自らの名が、生まれて初めて喋った言葉によるものであることも、また両親が彼の心中に湧く深い疑念に恐れをなしたことも、知らないままに過ごしてきた。
 元より聖タバナ師の他者真善の教えは、己ではない誰かにこそ、己が求めるべき善があると説いたものだった。他者を信じること、疑心を抱かぬこと、それこそが聖タバナ師の教えの全てであった。その教えは両親の手によって、幼いミバイにも伝えられたが、それを聞くなり「何故」と答えた。疑ってはいけないという教えそのものを疑った。それはミバイにとっては当然の行為だったが、両親は自分達の子供が教えに背いた生き方をすることを恐れ、早々に僧院へ入れるよう手を尽くした。
 幼い頃から、ミバイはその名が示す通り、全ての物事を疑問に思った。世の成り立ち、自然の運行、食べ物の味、生死、好悪、手の動き、足の速さ、目に映る色、他者の感情。あらゆるものに「何故」と付し、その度に他者真善の教えを何度も説かれた。
 僧院で暮らし始めて十五年を数える頃には、流石にそういった無邪気な言葉を吐くようなことはなかった。疑念を抱くことは悪しきことだと、ミバイは自らを戒め、あるがままに全てを信じる道を選んだ。
 ある日、僧院の中で事件が起きた。
 一人の吏僧が、麓の村から受け取った寄進の品を着服しようとした。金銭などではなく、単なる魚の干物だったが、それでも信徒から喜捨された貴重な物であることに変わりはない。やがて寄進の品が消えていることが露見した後は、僧院の中で大きな騒ぎとなった。しかし他者真善を尊ぶ僧院の中で、何者かを疑うことなど許されない。罪を犯した者が自らの良心に従って名乗り出るのを待つだけだった。だが着服した当の吏僧は、その品の処分に困り、普段からミバイが座している敷物の下に隠すようになった。数日は誰にも気づかれなかったが、ミバイ自身が衆目の中で敷物を取り上げた時、その下から魚の干物が現れた。それを咎める声はなく、ただミバイが自ら罪を認めることを暗に求められた。ミバイは罪を認めることも、言い逃れすることもなく、無言のまま深く一礼すると、それから十日以上もの断食行に入った。瘦せ細ったミバイが倒れた時になって、ついに吏僧が自ら名乗り出て、その罪を告白した。
 この一件の後、僧院の長老衆もミバイの実直さを讃え、本来ならば年長者でなければ就くことのできない典務の任を与えるに至った。人々が敬うべき経典を管理し、その信仰を担う蔵典院を任される。その破格の待遇を受けた時だけ、ミバイはかつての口癖を出してしまいそうになった。

 その日の夜もまた、ミバイのもとに十二の新たな経典が届けられた。
「ミバイ典官補、麓のラエリの村から経典が届きました」
 雑務を担う少年僧に施しをやり、青年僧ミバイは届けられた経典を蔵典院の一角に運んでいく。管区ごとに分けられた書棚がある。バッタヤ県のイタク郡、ラエリの村からもたらされた経典は初めてであったので、そこに新たな区分けを設ける。
 一巻一巻、丁寧に羅紙に包み、水槽となっている書架に沈めていく。
 これらは聖タバナ師とヴァイリャ神への祈りの文言を込めたものであり、後から開いて読み上げるようなことはない。こうしてただ、信仰の証として土地土地の名と共に納めるだけであった。
 そうして、ただ無数の経典を納めた瑠璃色の水槽が並び立っている。ここには全ての、そして唯一の祈りの形がある。書棚に記され、増えていく土地の名は、大陸に広がっていく信仰の権威そのものでもある。
「変だな」
 ふとミバイが呟いた。
 ミバイは経典に接する際は言葉を発しない。それは経典に対する畏怖のためでもあるし、自分以外には誰もいない蔵典院で何かを喋ることの無意味さを理解しているからでもある。
 しかしこの時、ミバイは自分の意識を確かめる意味でも、僅かばかり言葉を発しようと思った。
「数が合わないな」
 ラエリの村から来た経典の数は十二、しかし事前に教監部からもたらされた報告によれば、この夜には十三の経典が届くはずだった。
 足りない一部。見落としがあったかとミバイは、一時は焦り、蔵典院の彼方此方を歩いてまわった。自身に誤りが無いと気づけば、次は雑務の少年僧を疑いかけたが、他者真善の教えを守るミバイは自らの浅慮を戒めた。
 結局、ミバイは疑義を書面に認め、教監部へと建白することにした。一日を経て、教監部から得られた回答は「しばらく待つように」というものだった。
 その後、ミバイが教監部からの返答を待っている数日中にも、数件、近隣の村からもたらされた経典の数が合わないという事件が起きた。いよいよ職務に支障が出ると判断したミバイは、普段は出ることの無い蔵典院を抜け出し、十一の回廊を通って直接に教監部のある師法塔頭に出向いた。
「エニン・マサバ大監師にお目通り願いたい」
「ミバイ典官補。貴方の持つ、信仰への忠実さと堅固さには我々も一目を置いています。しかし、職務を放ってまで疑義を訴えに出るのは如何なものか」
 対応に出た吏僧は、額に汗を光らせ、この剛直な青年僧をどう言いくるめようか思案しているようだった。他地域への渉外に出ることの多い教監部の人間だ。世俗に迎合した態度は、あるいは衆生の信徒には通じたかもしれない。しかし、相手をしているのが、億万巻の経典と日夜対話を続ける孤独な修行僧とあっては、それも功を奏さない。
「真善なる聖タバナ師への信仰を記した経典を、正しく受け持つのが蔵典院の役目。それが全うできないのであれば、職務に意味など存在しません。況してや、昨今の経典納巻の不備は教監部の責。如何に拙僧を咎められましょうか」
 ミバイの強情な物言いに、吏僧も困り果て、次から次に新たな吏僧を呼んでは説得を続けた。やがてミバイの為に教監部が慌ただしくなると、いよいよ行状が監師補の耳にも届き、ついにはエニン・マサバ大監師自身が面会する運びとなった。
「ミバイ典官補、一体如何なる用件で、この塔頭の燈明を燃やし続けさせるのか」
 朝から直訴に訪れ、この頃には夜深い時間となっていた。
「かけまくも恐れ多きことなれど、予ての経典納巻の不備にまつわる建白についての深慮を賜りたく、斯くの如く参上仕りました」
「そのことであれば、待つようにと返したはずだが」
「それでは職務を全う致せません。今も数日に数部、予定にあったはずの経典の納巻が滞る有り様であります」
「おお、案ずるなかれ、ミバイ典官補。君が今の職務についたのは最近で、よくは知らないのだろう。以前にも、経典の不備はあったのだ。それは仕方のないことで、無理に合わせるようなものではない」
「しかし、真善なる聖タバナ師へ捧ぐ経典に過ちがあって良いものでしょうか。全き形象の霊祖、祈りの言葉に噓と誤りがあるようでは、信仰の根本を腐らせることにはなりませぬか」
 ミバイの詰問するような言葉を、のらりくらりとかわし続けたエニン・マサバ大監師も、ここに来てついに音を上げ、一通の書簡を手に取った。
「そうまで言うならば、君の出した建白書を《月の民》の部族長に送れば良い。そうすれば、間もなく君の所に足りない経典が届くだろう」
 ミバイは《月の民》と聞いて疑問に思った。彼らはラエルガーシュ山の近隣の山々、タリマニ山脈一帯と、その麓の荒野を渡る流浪の民である。お互いに離れた山間都市にとっては、重要な交易の担い手でもあるが、僧院の人間との交流が盛んな訳ではない。むしろ聖タバナ師の教えに懐疑的な彼らを、僧院の人間は快く思ってはいない。
 しかし大監師が特別に言うのであれば、何かしら理由があるのだろうとミバイは思い直し、彼の言葉と《月の民》を信じる道を選んだ。
 ただし、大監師が言い残した言葉の意味を、ミバイはその時は理解することができなかった。
「何があっても、経典の中を見ようなどとは思うものではないよ」

 

(続きは本誌でお楽しみください。)

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