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物語を愛するすべてのひとたちへ-小説すばる

2017年4月号 小説すばる

【短編】島本理生「足跡」

 旦那さん以外に抱かれたいと思ったことはないの? と訊かれた。
 ないわ、と答えると、澤井はすとんと角砂糖をカップに落として
「私が知ってる人妻は、皆、反対のことを言うよ」
 ティースプーンを回しながら、こともなげに続けた。人妻、という言い方が、彼女らしかった。
「なんでそんなことを訊くの?」
 私は首を傾げてから、ココアを飲み込んだ。溶け残っていたのか、どろりとした感触が喉を過ぎていく。
 澤井は明るい窓に視線を向けながら、となり町の坂の上にある治療院なんだ、と言った。
「治療院?」
「そう、名目は。紹介制だから、もし興味があればと思ったんだけど」
 澤井はたっぷりとした黒髪を耳に掛けて、さらっと告げた。
 女子大のときからの友人だが、なにを考えているのかは未だに計り知れないところがある。
 いきなり半年休学したと思ったら、単身、インドへボランティアに行ったり。かと思えば、怪しげな風俗雑誌でバイトを始め、記事を書いていたこともあった。
 今は新宿三丁目のトルコ料理屋でウェイトレスをしながら、時々、ぶらっと海外へ行ってしまう。
 私が、そういう人もいるかもしれないけどね、と呟くと、彼女はさっと手帳を取り出して、紙を一枚破った。
「結婚してるのが条件だから、私は行ってみることができないんだよね。もし興味がある人がいて、信頼できるなら、教えてあげて。私の名前を出してくれれば大丈夫だから」
 まばたきしようとしたけれど、緊張して、上手くいかなかった。
 押し付けられたような形で、数字の並んだメモを受け取った。

 里芋と豚肉のカレーに、隠し味のオイスターソースを入れたところで、夫が帰ってきた。
「すごい、いい匂い。外まで香ってたよ」
 振り返ると、夫はもう背広を脱いでいた。ずるっとワイシャツの裾をズボンから引っ張り出す。私は冷蔵庫を開けながら、おつかれさま、と言った。
 食卓で向かい合うと、夫は旺盛な食欲を見せて、アボカドとトマトのサラダとカレーをすぐにたいらげ、おかわりまでした。
 夫は他愛ない会話を好む人だ。
 クイズ番組を見ながら
「最後の将軍って、徳川慶喜で間違いないよね」
 と確認したり、このアボカドはちょっと硬くて美味いね、などと言ったりする。
 夫との食事は楽しい。私はそこまで話上手でもないのに沈黙をもてあまさないし、香草やアボカドや豆乳なんかの、ちょっと癖のある食材も好んでくれるので作りがいがある。
「そういえば、澤井さんは元気だった?」
 という質問をされたときだけ、手が止まった。
「うん。あいかわらずだった」
「なにかあったの?」
 びっくりして顔を上げると、眼鏡越しの丸い目が、きょとんと見ていた。
「なにも」
「そっか。君が、あいかわらず、て言うときは、たいてい、なにか大きく変わりがあったことが多いから」
 私は苦笑して、そんなことないよ、と首を振った。
「そういえばB号棟のかなちゃんって、覚えてる? 昼間、実家の母親から電話がかかってきて知ったんだけど、もうじき三人目の子が生まれるんだって」
 彼はコップに水を汲みながら、あの子って今いくつだっけ、とびっくりしたように訊き返した。
「私の三つ下かな。でも、なんか納得。かなちゃん、中学生のときから彼氏がいたし」
 彼は腑に落ちたように頷いた。
「あの子、昔から色っぽかったもんね」
 こちらから振った話題のくせに、私は返事に窮して、黙り込んだ。
 夫とは同じ団地のおとなり同士だった。たまに廊下で擦れ違う三歳年上の夫は黒い詰め襟の制服を着て、優しい物腰がお兄さんらしく、素敵に見えた。デートを重ねるようになったのは、大学を卒業して、私が実家に戻ってからだ。
 素敵なお兄さんは、いつしか打ち解けた恋人になり、結婚して三年経った今はむしろ気の合う親友のようだった。
 入浴を終えて、寝室の明かりを消すと、夫は小さな豆電球を見つめながら、また楽しそうに喋りかけてきた。
 私も近所の犬が尻尾を追ってくるくる回っていたことや、洗面所の白いタオルに赤い糸で刺繡したことを、話した。
 ゆっくりと、沈み込むような吐息が聞こえて、言葉が途切れた。
 眠っている夫の横顔をちらっと見てから、自分のパジャマの胸元に片手を入れて、すぐに引き抜いた。
 澤井のくれたメモは、鏡台の引き出しの奥深くにしまっていた。

 

(続きは本誌でお楽しみください。)

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