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2017年3月号 小説すばる

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【レポート】木下古栗シークレット読書会

【新連載】逢坂剛「百舌落とし」

              プロローグ

 

 老人は、カメラの液晶画面から、視線を離した。
 バードウォッチングは、学生時代からの趣味だった。当時は、同好の仲間たちと連れ立って、あちこち出かけたものだ。首都圏はもちろん、北海道や隠岐島といった遠方まで、足を延ばしたこともある。
 しかし、大学卒業後政治家の事務所で働き、その延長で政界を目指すようになってからは、すっかり遠ざかってしまった。野鳥への興味がよみがえったのは、先年政界を引退してからのことだ。
 もっとも、引退したのは自分の意志ではない。ライバルとの抗争に敗れて、詰め腹を切らされたのだった。
 引退したとき、年はすでに七十代にはいっていたが、若い連中にはそうそうひけを取らない、との自負があった。政治は、なんといっても人脈と経験、駆け引きがものを言う。党の幹部をはじめ、中堅や若手のあいだに自分に対抗しうる、優れた人材は見当たらなかった。ライバルさえ排除すれば、まだ自分の出番は十分にある、と思っていた。
 一年半ほど前。
 もう一度政界に復帰し、ライバルを追い落として要職につこうと、ひそかに策を巡らした。しかし、思わぬじゃまがはいったため、その試みは失敗に終わった。
 それでもあきらめきれず、その後も次の機会を待っていた。
 ところが、半年前に自宅の二階から、階段をおりようとして足を踏みはずし、転落した。その結果、大腿骨を複雑骨折して、歩行が困難になった。
 しばらくリハビリを続けたが、三カ月たってももとにもどらず、今でも家の中で伝い歩きをするのがせいぜい、という状態だった。
 足の自由がきかなければ、政界の激務には耐えられない。未練を残しながらも、心身ともに復帰をあきらめる、苦渋の決断をせざるをえなかった。
 それでもしばしば、外の空気を吸いたくなることがある。そういうときは、車椅子とひとの手を、借りなければならない。
 元気なころ、しばしば一人で足を運んだ近くの公園へ、妻と一緒に出かけるのがせめてもの、楽しみになっていた。
 十カ月ほど前、古い友人のすすめで四十歳も年下の女を、後妻にもらった。早智子といい、介護士の資格を持っている。
 一人息子は、IT企業の社長として安定した地位にあり、遺産相続等でもめる心配はない。おやじの好きにしていい、と言われた。
 早智子は、体は華奢だが病気知らずの、しっかりした女だ。いずれは、財産目当てかもしれないが、それでも別にかまわなかった。最期を看取ってくれるなら、財産などにはなんの未練もない。死んでしまえば、用のないものだ。
 早智子は、車椅子を押すのを苦にしないし、夫のバードウォッチングにも、理解を示してくれる。
 公園は、自宅から数百メートル離れた多摩川沿いにあり、野球場やサッカー場、テニスコートを備えた、かなり広い緑地公園だった。そこを訪れると、都心では見られないいろいろな野鳥を、目にすることができる。ときには、名も知れぬ野鳥が飛来することも、珍しくなかった。
 それを、焦点距離一五〇~六〇〇ミリの、超望遠ズームレンズを装着した、高性能のデジタルカメラで、撮影する。それがこのところの、数少ない気晴らしの一つだった。
 カメラ機材一式は、かなりの重さになる。
 運ぶのは、骨折のあとで雇った秘書兼雑用係の男に、やらせている。
 秘書は鳥藤和一といい、警察官上がりのがっしりした男で、柔道六段の猛者だ。髪を短く刈り上げ、柔道のせいで両耳とも奇妙な形に、つぶれている。
 そのくせ、国立大学の法学部を出た、なかなかのインテリだった。
 体がごついわりに手先が器用で、しかも動きがてきぱきしており、やることにむだがない。三脚やカメラなど、機材の持ち運びや移動、セッティングを何の苦もなく、やってのける。使い勝手のいい男だ。
 背後で、早智子が言う。
「あなた。あと十五分ほどで、お時間になりますよ。準備もありますし、そろそろおもどりになった方が、よろしいのでは」
「もう、そんな時間か」
「だいぶ、日が短くなりましたから」
「なるほど。それでは、あと十分だけにしよう」
 そう言って、鳥藤に合図した。
「いつもの方角だ」
 鳥藤が三脚の向きを変え、早智子が車椅子を移動させる。
 月に一度、党の反主流派の幹部が若手の議員を引き連れ、家にやって来る。茶話会と称して、その連中を相手にあれこれと政治談義をするのが、ならいだった。きょうが、その日にあたっていた。
 バードウォッチングを別にすれば、その茶話会が生きがいといってもよい。
 鳥藤が、カメラをセットし終わるのを待って、三脚のハンドルを操作した。
 ズームレンズを、いつも締めの観察対象にしている、ひときわ深い木立の方へ向ける。
そこにはときたま、郊外でもめったに目にすることがない、珍しい野鳥が飛来するのだった。
 ズームの倍率を上げ、慎重にレンズを左右に動かす。
 ゆっくりと往復させるうちに、ふと妙なものが液晶画面をかすめた。
 急いでレンズをもどし、見やすいように画面の角度を変える。
 何度か向きを上下させると、画面に白いカードのようなものが現れた。
 さらに倍率を上げて、ピントを合わせる。
 白いカードが、大写しになった。その表面に、赤い色で几帳面に書かれた、矢印が見えた。カードはピンか何かで、木の枝に留めてあるようだ。
「なんだ、これは」
 独り言を言ったが、早智子も鳥藤も答えなかった。
 矢印は、左斜め上を指している。何かを示す、案内の印のようだ。
 レンズを、その方向に向けてゆっくり動かすと、ほどなく別の矢印が現れた。今度は、左真横の向きだった。
 次のカードを見つけると、さらに左下向きの矢印。
 それらを、次つぎに画面で追いながら、レンズを動かす。すると五度目に、やっと野鳥らしきものの画像が、映し出された。
 どうやら、その野鳥の居場所を示すための、矢印カードだったように思える。だれのしわざだろう。いつ飛び去るかしれない、野鳥の居場所を教えたところで、なんの役に立つというのか。
 しかし、現にその野鳥は矢印が示した場所に、とどまっている。ときどき、羽ばたきして飛び上がるが、すぐにもとの枝にもどってしまう。鉤になった上の嘴を、何度も開くところをみると、鳴き声を上げているのかもしれない。もっともこちらの耳には、何も届いてこない。
 とりあえず、リモコンでシャッターを操作して、最大限に拡大した野鳥の姿を、何枚か撮影した。
 日がだいぶ傾いたせいで、木の間隠れに見える鳥は黒身を帯び、はっきり見えない。
「なんだろうな、これは」
 もう一度言って、今度は二人を見返る。
 早智子が、車椅子の上にかがみ込んで、肩越しに画面をのぞいた。
「鳥のようですね」
「そんなことは、分かっておる。なんという鳥か、図鑑で調べてみてくれ」
 バードウォッチングに出るとき、早智子には忘れずに野鳥図鑑を持って来るよう、言ってある。
「でも、この液晶画面では色が沈みすぎて、探しようがありませんよ」
 それももっともだ、と思う。
 あらためて、画面に目を凝らした。
 頭は、赤っぽい褐色。
 目のあたりに、黒い横断線。いわゆる、過眼線というやつだ。目は、その中に沈んだかたちで、確認できない。
 背中は灰色で、翼は黒か暗灰色。全体に画面が暗く、それ以上は分からなかった。
 そのあいだに、図鑑を調べていたらしい早智子が、軽い口調で言った。
「はっきりはしませんが、百舌かもしれませんね」
 それを聞いて、ぎくりとする。
 百舌。
 鳥の名前の中で、いちばん聞きたくない名前だった。
 実のところ、もしかすると百舌かもしれない、という気が最初からしていた。ただ、口にするのがおぞましくて、何も言わずにいたのだ。
 早智子はそれを、あっさりと言い放ってしまった。
 いやな気配を察したらしく、鳥藤がとりなすように言う。
「そろそろ、もどりましょうか、先生。その画像を、仕事場のパソコンで解析すれば、はっきりすると思います」
 そうだ、その手があった。
 あまり気が進まないが、やらなければならないだろう。いやなものから、目を背けてばかりいたら、生きる力を失ってしまう。
「ああ、そうしよう。機材を片付けてくれ」
 そう言って、もう一度かなたの暮れなずむ森に、暗い目を向けた。

 

(続きは本誌でお楽しみください。)

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