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物語を愛するすべてのひとたちへ-小説すばる

2017年1月号 小説すばる

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【ノンフィクション】高野秀行「占い放浪記」

【占い短編小説】雪舟えま「りゅりゅりゅ流星群」

 予備校の駐車場から見あげる東の夜空に、レモン形の月がのぼっていた。授業の帰り、おれは駐車場でバイクを前に立ったまま数分逡巡している。まっすぐ帰宅するか、いつものファミリーレストランで夜食を食べるか、それとも─彼の家に行くか。
 予備校のある未来稲荷町駅からは自宅もレストランも彼の家も近くて、いったんバイクを走らせると一瞬で着いてしまう。なので乗るまえに行先を決めておきたい。自分の心に正直になるのなら第一希望はもちろん彼の家だ。
「へぶし」
 くしゃみが出た。十一月の乾いた夜風が首すじを撫でてゆき、バイクスーツのフロントジップをのどもとまでしめた。風邪をひくわけにはいかないという声が頭の中で聞こえて、どこへ行くとも決まっていないのにふわっとバイクにまたがってしまう。
 ふわっと。
 彼に恋をしてからの自分は地に足がつかなくて、自分の行動にあまり責任がもてない。道に出て車の流れに入ったときには、きょうはこのまま帰宅してしまうんだろうか、と、どこか他人ごとのような気持ちでいた。しかし信号待ちでふと見あげた夜空に─獅子座流星群の極大日が、ことしは来週二十日だとニュースで知ったのを思い出し─ああ、流星群を彼といっしょに見たい、という願いが胸にあふれた。気がつくと、帰宅するなら直進せねばならないところを、またも「ふわっと」車線変更して右折動作に入っている自分がいた。
 あらやだ、おれったら、やっぱり行くのか。
「体は正直だ……」
 ヘルメットの中でため息をつく。しかしすぐに、「いや、あいつにはやくあれを訊かなきゃだし」と、彼に質問があったことを思い出して正当化する。ともかくおれ、兼古緑は二十二時すぎ、未来浅草高校の同級生、荻原楯の家に向かったのだった。
 彼の家は材木店で、通りをゆくと、「荻原林業」という白い大きな看板を掲げた作業場兼倉庫がまず目に入ってくる。そのとなりに古い木造のコンパクトな家がある。
 おれはこの小ぶりな家がすきで、ふたりも立てば狭く感じる台所で彼の母が料理をしたり、八畳ほどの茶の間に一家四人が睦まじくこたつを囲んでいるところを見ると心がほどける。おれの家は両親の仲がとてもわるくて─きょうも、まっすぐ帰宅すると親のけんかに巻きこまれそうで、帰る時間をどうにか彼らの就寝ごまで先延ばしにしたい気持ちがあったのだった。
 家の前から二階を見あげると、ふたつ窓があって、荻原の部屋と弟の部屋、両方とも明かりがついていた。きょうは彼のバイトの日ではないことは学校で確認してあった。彼は近くにある親戚の会社で、週に二、三回、夜の数時間だけ手伝いをしている。
 ガレージの入口にバイクを停めて玄関のベルを押す。グローブを脱いでリュックにつっこむ。ここまで来られただけで、達成感で胸がいっぱいだった。これから片時でもいっしょにすごせるのか、きょうはだめだと帰されるのかわからないが、どっちにしろひと目は荻原に会える。あの声が聞ける。
 出てきたのは彼の母、べべさんだった。
「あら、兼古くん。こんばんは」
「こんばんは」
「こんや寒いねえ。ちょっと待ってね」
 と、べべさんは二階に向かって「たーてー、かねこくーん」と声を張る。べべさんは毎日のように家に来るおれをどう思っているんだろうか。もうなにも訊かずに彼を呼んでくれるけど。
 兼古、と声がして、見あげると階段から荻原が降りてくる。彼は胸に猫のキャラクターのプリントがついたミルクティー色のスウェット上下を着て、暖かそうなオレンジ色の毛糸の靴下を履いていた。
「塾?」と、荻原。
「うん」と、おれ。
 彼とおれは身長がともに百六十八センチ。おなじ高さにあるその瞳と目が合うと、おれは自分がやっと正しい場所に、自分のいるべき場所に接続されたような安堵をおぼえる。
「あがって」といい、彼は背を向ける。
 彼のあとについて階段をのぼり、部屋に入る。机と二段ベッド、本棚と窓ぎわに天体望遠鏡があるくらいのさっぱりした部屋だ。壁には学校の制服のブレザーとズボンがかかっている。
「寝てた? 部屋の電気ついてるから寄ってみたんだけど」
「漫画読んでた」
 二段ベッドの下段の枕もとには漫画の本が五冊ほど積まれ、一冊ひらいて伏せてあった。この家に来ると、彼はたいていバイトか漫画か寝ているか。高三のこの時期にもまったく勉強をしている気配がない。
 荻原は折りたたみテーブルを広げてくれる。おれはその前に正座する。
「きょう寒いなー」
 彼はそういって小さなストーブを点け、二段ベッドの上段にひっかけていた茶色い半纏をつかんで羽織った。そして、テーブルに上半身をぺたんと伏せて「さー、むー、いー」とつぶやいた。あまりにも可愛いものを至近距離で目撃し、全身が総毛立つ。ここにクラスの女どもがいたなら「ギャーッ! タッティー可愛いーッ!!」と大騒ぎになる場面だ。美貌の彼にはクラスの内外、学年も超えて多数のファンがいる。
 彼は入学時から目立っていて一年のときからその存在は知っていた。二年のときにおなじクラスになって、荻原とおれは前後の席で一学期をすごした。休み時間になると彼の席には入れ代わり立ち代わり女子があらわれる。それまで女子とろくに会話もしたことのなかったおれには異世界のような光景が日々展開されていて、彼のそばにいると自分の冴えなさが強調されるようで一日もはやく離れたいと思っていた。
 三年になっても荻原は近づきたくない人間のままだった。それが、先月─水ぼうそうで長期欠席した彼の家に学級委員のおれが見舞いに行くことになり、病みあがりの彼とふたりきりになったこの部屋で、ふしぎなことが起こった。おれの前で眠ってしまった彼にどうしてか体が引き寄せられ、その顔に残る水ぼうそうのかさぶたの痕になぜか触れたくなってしまい、息を詰めてひとつ、ふたつと赤いかさぶたに触れていった。眠り姫のような彼が目を覚ましたとき、そこにはすっかり彼に心を奪われている自分がいた。
 その急接近の日から、坂を転がり落ちるように彼への気持ちは抑えがたくふくらんでいった。まだ見舞いから一か月しか経っていないことが信じられない。ずっとむかしからすきだった気がする─たぶん、彼のことを敬遠していた時期というのは、ゴムをギューッと引き伸ばしながら逃げつづけていたようなものなのだ。それがふとした拍子に足が地を離れてしまい、ビューンと一気に彼のもとへ引き寄せられてしまった。
 見舞いのあとも彼とすごした時間が忘れられず、遅れているぶんの勉強を教えるためと称して彼の家に通っていた。いまはそんな口実も見つからなくて、ただ会いたくて来てしまっている。彼にはきっとおれの気持ちは伝わっている。

 

続きは本誌でお楽しみください。

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