close

物語を愛するすべてのひとたちへ-小説すばる

N

著:道尾秀介

発売日:2021.10.5
定価:1,870円(税込)

仕掛けが発動し 世界が立ち現れる「離れ業」

〈本書は六つの章で構成されていますが、読む順番は自由です。/どの章から読み始めるのか。/次にどの章を読み進めるのか。/最後はどの章で終わらせるのか〉
 著者による「~本書の読み方~」がはじめに記されている『N』は、『光媒の花』(二〇一〇年刊)、『鏡の花』(二〇一三年刊)に続く『花』シリーズの八年ぶりの新刊だ。①「光、蝶、花」のアイテム、②章ごとに語り手が代わる連作群像劇、③全六章を読み通すと“仕掛け”が集成され、六章による世界が立ち現れる、といった構造は前二作から踏襲されているが、タイトルから『花』がなくなり『N』となった。読む順番で、世界が変わる。〈読む人によって色が変わる物語をつくりたいと思いました。/読者の皆様に、自分だけの物語を体験していただければ幸いです〉(~本書の読み方~)と著者は記す。それにしても、『N』とはなんだろうか。
 まず、前二作を振り返ってみよう。一作目『光媒の花』の六章をつないだのは「蝶」だった。章から章へ、どこに向かうのかはわからず、六章で成る世界は蝶が辿り着いた場所で閉じられた。当時の道尾秀介さんはミステリー作家として知られていたが、『光媒の花』は謎解きよりも「人間」と「ドラマ」に焦点を当てた連作群像劇だった。一人ひとりは個性あるれっきとした「個人」だが、自然界の「光、蝶、花」と同様に、この世界にいまある「存在」として配され、シリーズを牽引する「主人公」はいない。
 続く『鏡の花』は、「光、蝶、花」のアイテムを踏襲しながら、一作目とはがらりと異なる趣向で描かれた。各章は鏡に映る花のように、「存在」しているが少しずつ違う。どの鏡にもいろんな角度から花が映り込んでいて、蝶は章から章へ「飛ぶ」のではなく、鏡の花に「止まる」。ある章で亡くなっている人物が、別の章では生きていて、どの物語が「現実」なのかだんだん分からなくなる。『鏡の花』は、同じ場所の世界をいろんな角度から映し、「奥行き」を探る連作群像劇だった。二〇一一年に発生した東日本大震災を受けて描かれた作品だと思う。大切なものが喪われた世界で佇む人々がいる。この世界は哀しいだけの世界なのだろうか。それと分からない「鏡面」を介して、此岸と彼岸をつないだ全六章が『鏡の花』だった。
 そして三作目。「花」はどこにあり、「蝶」は訪れるのだろうか。『N』は、海沿いの街を主要舞台にした連作群像劇である。
 本を開くと、読者は奇妙なつくりに驚かされるだろう。章と章の物理的なつながりをなくすため、一章ごとに上下反転させた状態で印刷されている。つながりをなくした理由は、読者それぞれの「読み」で類推していいと思う。もともと一作目は、つながりの薄い人々の間を蝶が舞う構成だった。今回は各章で中心的に描かれるエピソードの時代と場所が異なるため、切り離した方が語り手のドラマがよりくっきり浮かび上がる、というのはあると思う。実際の人間関係にしても、それぞれの物語がつながっていない方がむしろ自然だ。『鏡の花』は家族という場所の奥行きを探る物語だったが、『N』は違う。つながりのない物語が六章並立し、読み通すと“仕掛け”が発動して、大きな世界が立ち現れる「離れ業」が実行される。なお、「~本書の読み方~」のページをめくると、それぞれの章の冒頭部分だけが書かれていて、読みたいと思う章へ自由に移動できる。この冒頭部分が「つかみ」と「謎かけ」になっている趣向も楽しい。『花』シリーズは、技巧が凝らされたミステリー小説でもある。
 海沿いの街は「いま」、その街で五十年ぶりの殺人事件のニュースで揺れている。ただし章ごとに描かれるエピソードの時代や場所が異なるので、過去から「いま」へ、街の移り変わりも読者は読むことになる。この街の湾は大きな「つ」の字の形をしていて、住民たちから「島」「目玉島」「サカナの目」などいろいろに呼ばれる無人島がある。〈名前というのは、いったい何だろう〉。ATMコーナーで記帳をして、「吉岡利香」というフルネームが印刷された通帳を見ながら思う「わたし」は、記憶を反芻する。〈十三年前にわたしが飲んだ毒液にも、名前なんてなかった。/なのに、こうしていまも全身を流れつづけている〉(「名のない毒液と花」)
 この街には「格差」がある。バスで一時間ほど、舟で海を渡れば二十分ほどの距離だが、街の北側は南側より地価が高く、どちらに住んでいるかはステータスになっている。海に面した壁に向かい、毎日投球練習をする高校生の「僕」は南側の住人だ。ある日、迷子の鳥を届けに北側に行く(「落ちない魔球と鳥」)。幼い頃から虫を追いかけ、大学の研究員になった「わたし」は、北側のアパートで一人暮らしを始めた。エリアに似合う社会人生活を夢見たが、現実は過酷だった(「飛べない雄蜂の噓」)。夫婦が刺殺された事件は、北側の住宅地で発生した。刑事の「わたし」は、事件があった夜に殺人現場から姿を消した犬を捜す(「眠らない刑事と犬」)。
 異国を舞台にした章もある。アイルランドのダブリンは、海沿いの街と同じくらいの広さでちょうど東西が逆になり、海岸線が横から食い込んでいる。〈故郷の街では海に陽が沈んでいくが、この街では水平線からまっさらな太陽が顔を出す〉。海沿いの街で生まれ育った「私」はダブリンに移住し、ターミナルケアに従事する看護師になった(「消えない硝子の星」)。「笑わない少女の死」もダブリンが舞台だ。元英語教師の「私」は、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)への憧れからダブリンへ一人旅をする。そこで、紙コップを掲げて小銭を求める少女と出会う。
「名のない」「落ちない」「飛べない」など、六章のタイトルは「ない」の連なりだ。語り手は、「取り返しのつかないこと」に遭った人々である。「名のない毒液と花」の「わたし」は十三年前に「毒液」を飲み、「消えない硝子の星」の「私」は街から逃げ出した。人生を中断された人々は翅に傷を負った蝶であり、花や光の道標を探している。
 小さな街だが、語り手同士の縁は薄いか皆無だ。とある人と知り合っても、家族や友人と違い、ただそのまま会わなくなる。再会したいと思って、二度と会えないことも。読みながら、きちんとお別れができるのは得難いことなんだなと思った。『鏡の花』にはがんで母親を亡くす女性がいて、『N』にも母を亡くす少女がいる。お別れさえできずに会えなくなることもある。抱えた記憶や思いを伝えることなく去っていく、人もまた蝶や花と似た「存在」なのだと思う。
 今回、海外にまなざしを向けて舞台にしている点は、前二作になかった特徴だ。著者がどのような経緯でダブリンを舞台にしたのかはわからないが、アイルランドの風土や伝承と著者の小説が親和性をもって共振していて、スリリングだ。ラフカディオ・ハーンと著者の文学性は通じるものがあると思うし、映画好きの私はアイルランドの映画監督、ジョン・カーニーの音楽映画『シング・ストリート 未来へのうた』(二〇一六年)を連想した(十代の登場人物、ボートのアイテムなどから)。また、本書の「青い蝶」は、日本にもアイルランドにも生息している。二作目で鏡の花に止まった蝶は、三作目の『N』においては、遥かに広い世界をつないでいると言える。ちなみに『光媒の花』の文庫解説で、作家の玄侑宗久さんが道尾秀介さんのことを〈とても目が長い人である〉と評していた。穏やかに遠くを見据える著者の「長い目」は、『N』でより遠くへと延びたのだ。
 ジャンルの枠を超える、小説でできることを追求する、物語から物語へ次々に飛ぶ。ただ今回、私は『光媒の花』を読み返して、〈死んでいい人間なんて、この世にいないんだよ〉という言葉に目が引き寄せられた。『光媒の花』から十一年。いまはSNSが普及して、「ヘイト」がインターネット空間にも現実の世界にも満ちている。〈勝った言葉は強くて、負けた言葉は弱いのか。勝った人は強くて、負けた人は弱いのか〉と、『N』の語り手は思っている。格差、差別、DV、貧困、いじめ、虐待……。いまの社会を考えると、十年以上前の〈死んでいい人間なんて、この世にいない〉という言葉は、とても重要だったんだなと思う。『花』シリーズは、時代と並走する物語でもある。著者の視座はぶれておらず、より「長い目」で視野は広がり、名もなき人々の「存在」と「救い」を見据えて、シリーズは進化している。小説でなくてはできないことが今回も追求された。行間と奥行きがたっぷりあって、技巧が凝らされ、なおかつ、本のスタイルまで斬新な最新刊。スリルあふれる珠玉の連作群像劇である。『N』とは何か、これも読者それぞれにとらえてみるといいと思う。読む人によって色が変わる物語なのだから。
 感染症のパンデミックにも見舞われて、明るいとは言い難い世の中だ。「光」を感じて、誰もが平穏に暮らせる日は訪れるだろうか。〈つっても、悪いことが起きねえ人生のほうが特別なんだろうけどな〉。翅を休めてまた花を探し、生きていけるといい。
 私は『N』を同じ順番で二度読んでみたが、次は違う順番で読んでみよう。すると世界はどう変わるだろうか。楽しみである。

Writing

青木千恵(あおき・ちえ)
兵庫県生まれ。フリーライター、書評家。

top