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物語を愛するすべてのひとたちへ-小説すばる

黄金の刻
小説 服部金太郎

 

著:楡周平

発売日:2021.11.26
定価:2,200円(税込)

服部金太郎が築いた セイコー140年の礎

 幕末から明治になり、欧米に追い付こうと急速な近代化を進めた日本は鉄道や電話、郵便といったインフラの整備を進め、綿糸や生糸の大量生産・大量輸出を行った。同時に欧米から文明の利器が輸入され人々の生活は徐々に改革されていく。


 この時期には、自動織機を発明したトヨタグループの創始者である豊田佐吉(1867年生まれ)やセメントが建設資材の柱になることに気づき、一代で浅野財閥を築いた浅野総一郎(1848年生まれ)、真珠の養殖とそのブランド化で現在まで名を馳せる御木本幸吉(1858年生まれ)など、一介の商人や職人から身を起こした現代まで続く会社の創業者も多い。


 そのひとりに万延元年(1860年)商人の子として生まれた服部金太郎がいる。二年の年季で丁稚奉公に入ったのは、東京でも成長著しい洋品問屋「辻屋」。店主の辻粂吉は年季が明けても店で働いてほしいと懇願するほど金太郎の仕事ぶりに惚れ込んだ。しかし金太郎は「時計商」を目指す。〝時計は高価だが、これからの社会は正確な時間を知ることが必要になる〟という信念のもと、一歩を踏み出した。粂吉は金太郎の生涯で陰になり日向になりながら事業の後押しをし続けた。粂吉は、実業家としての金太郎の生みの親であり、商売のいろはだけでなく、経営者としてのあり方、人のあり方、何を学び、何を考えなければならないのかを教えてくれた恩人であった。


 プロローグでは金太郎古稀の大宴会に粂吉の妹、浪子が招かれた経緯が語られる。総勢三十名を超える家族とともに、大恩人の妹を主賓にした金太郎は生涯感謝の念を忘れることはなかった。 


 粂吉から学んだ商売人としての謹厳実直さが服部時計店を創業し発展させ、後にSEIKO、現在のセイコーホールディングス株式会社として時計と時間に関する世界有数のブランドとなった礎である。


 本書はセイコー創業140周年記念作品として楡周平が初めて実在の人物をベースに描いた小説である。犯罪小説でデビューし人気作家となった楡は、近年多くの経済小説で注目を集めている。明治時代を舞台にするのも初めての試みだ。


 現代の経済小説は生き馬の目を抜く世界を描くことが多い。楡自身、大規模な物流プロジェクトを手掛けるサラリーマンだった。彼の小説ファンは騙し騙される企業や社員たちの鍔競り合いを楽しむ人が多いと思う。


 だが『黄金の刻』は少し違う。丁稚から身を起こし、当時は高嶺の花である時計の修理を身につけ、海外との取引をてがけ、日本製高級時計の製造に成功した男の生き様は一本筋が通った痛快な物語となった。


 時計販売の服部時計店が「精工舎」として製作もてがけ、製品に「SEIKO」というブランド名を付けたことを知らない人がいるかもしれない。精密機械の製造者であることを誇りにも戒めにもしている名は、いまや世界に通用する企業になった。


 だが決して順風満帆にこの140年が過ぎていったわけではない。まさに「禍福はあざなえる縄のごとし」。就職先の時計店の倒産時、金太郎は世話になった親方へ貯めていた給金を渡した。その誠実さが後々まで彼の事業を助けることになる。火事で店舗が消失しても「禍転じて福と為す」と背を押され、銀座木挽町に新店舗を出店、さらに発展させた。最初の妻とは離婚するも、後妻まんの内助の功には最後まで助けられた。


 人にも恵まれた。取引先であるフランスの貿易会社「ブルウル兄弟商会」の番頭、吉邨英恭。時計製造の資金稼ぎとして大ヒットした装飾を施した輸入懐中時計のナナコ彫りの職人、吉川鶴彦。彼らは後に「精工舎」の重要な人材となっていく。


 真摯な姿勢はブランドにも結び付く。日清戦争の特需で手に入れた銀座四丁目の服部時計店本社は、和光として高級ブランドを販売する銀座の顔となった。そびえ立つ時計塔を持つ建物は90年経っても銀座のシンボルであり伝統ある専門店として名高い。時計は毎日熟練の技術者が見回り1分とずれることはなく、社員でもめったに上がれない屋上の時計塔前はこの店で結婚指輪やアニバーサリーのウォッチまたはジュエリーを買った人たちだけ記念写真を撮ることができる。誠実に、かつ確実に商売相手の期待に応えること。これこそが金太郎が身につけたブランド力だ。


 楡周平は明治の立志伝中の人物にフォーカスし、近代日本が急速に発展した理由を描ききった。金太郎の教えは息子に孫に伝わって現在の隆盛に繫がる。低迷が続く日本の経済の起爆剤になるのは、バカが付くほど真面目な金太郎のような人材なのではないだろうか。

Writing

東えりか(あづま・えりか)
インターネット書評サイト「HONZ」副代表。ノンフィクションを中心とした書評で活躍中。

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