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物語を愛するすべてのひとたちへ-小説すばる

言の葉は、残りて

著:佐藤雫

発売日:2020.2.26
定価:1,650円(本体)+税

和歌を愛した将軍・実朝の新たな一面を描く

「世の中は 常にもがもな なぎさこぐ
  あまのをぶねの 綱手かなしも」
 百人一首第九十三番。穏やかな日がずっと続けばいいのにと願うこの歌を詠んだのは、鎌倉右大臣─第三代将軍・源実朝である。
 実朝といえば、二十八歳の若さで甥の公暁に暗殺された源氏正統最後の将軍であり、武芸より文芸を愛したたおやかな将軍。そんなイメージを持つ人が多いだろう。いずれも間違いではない。だが佐藤雫の『言の葉は、残りて』を読めば、それだけではない実朝像が浮かび上がってくる。
 物語は将軍・実朝のもとに京から摂関家の姫・信子が嫁ぐ場面から始まる。この時、実朝はまだ十三歳。将軍とは言え、実際の政務は母の北条政子や叔父の北条義時らに頼っていた実朝は、信子が教えてくれた和歌の世界に魅入られていく。
 しかしその後、家臣の間で争いが勃発。その評定すら母に頼ってしまった実朝は自らの将軍としてのあり方に悩む。騎馬も弓矢も不得意で、体も強靱ではない自分が武家の棟梁になるためにはどうすればいいのか。実朝にそのヒントを与えたのは、父・頼朝の作品を含む多くの和歌だった。
 言葉には人を動かす力がある─それを体感した実朝は、「父上は武でもって世を治めた。ならば私は言の葉で世を治めん」と決意するのである。北条の傀儡であることを潔しとせず、自らの政道を歩もうとする実朝。その姿は自分が何者なのかを懸命に探す青春の闘いであると同時に、従来のイメージを覆す実に堂々たる若武者でもある。
 つまり本書は、ただ文芸を愛した将軍としてではなく、その文芸によって実朝が何を為そうとしたかを描いているのだ。
 和歌を愛した将軍という実朝像に、ひとつの背骨が通った気がした。
 だが、世の中が「常にもがもな」と望んだ実朝に「炎のみ 虚空に満てる 阿鼻地獄 ゆくへもなしと いふもはかなし」と詠む日が訪れる。言の葉が残る、とはこういうことだ。八百年も前の将軍の悩みや苦しみ、希望や思いが今の私たちに届く。まさに言葉の力であり、それを紡いだ小説の力である。
 さらに本書は、人物描写が素晴らしい。歴史小説において決してメジャーな時代ではないにもかかわらず、ひとりひとりが生き生きと動き、時代の空気を読者に届けてくれる。歌の世界で意気投合しながら敵味方に分かれてしまう家臣や、言わなくていいことを言って他人の心をざらつかせる乳母。この人物造形の力は著者の大きな武器になるだろう。
 政治のパワーゲームに翻弄される将軍夫婦の愛と哀しみを見事に歌い上げた物語だ。今後に強く期待したい新人の登場である。

Writing

大矢博子(おおや・ひろこ)
書評家。著書に『女子ミステリーマストリード100』『歴史・時代小説 縦横無尽の読みくらべガイド』など。

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