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物語を愛するすべてのひとたちへ-小説すばる

芙蓉の干城

著:松井 今朝子

発売日:2018.12.5
定価:1,650円(本体)+税

謎解きと歌舞伎の舞台裏探訪の妙趣

 思い切りのいい出だしである。芝居でもエクスポジション(開示部)と呼ばれる開幕直後の数分が肝要だが、『壺中の回廊』に続く歌舞伎のバックステージ・ミステリー『芙蓉の干城』の幕開きは、必要な情報をもったいぶらず出し惜しみせずに早々と差し出してくれる。その潔さのおかげで、私たち読者は中心人物たちや事が起きる時と場所に一気に近づける。中心人物は江戸歌舞伎の大作家の孫であり、早稲田大学教授である桜木治郎と彼の親戚の娘大室澪子、そして歌舞伎界の大立者荻野沢之丞。時は犬養毅が首相官邸で殺された翌年の昭和八年、場所は歌舞伎劇場の木挽座である。ここで最初の殺人事件が起きる。
「皇国の干城」などと言うように、タイトルにある「干城」とは一義的には「楯となり城となって国家を守護する武人。軍人」(大辞林)で、本作には軍人も登場するのだが、同時に「何かを、誰かを身を挺して守る者」の比喩でもある。芙蓉はもちろんそう呼ばれる花のことだが、具体的にこの花が何を表すかを言えばネタバレになるので、言わない。ただ、「芙蓉の干城」は、芙蓉を守る楯とも芙蓉でできた楯とも読めて、そのどちらをとっても美しくミステリアス。
 何より高揚させられるのは連続殺人事件の謎解きに伴走しつつ、木挽座(=歌舞伎座)のバックステージ・ツアーができることだ。「客席の男子便所と楽屋の廊下が扉一枚で通じている」とか、楽屋風呂のことなど、全く知らなかった! 大道具方、小道具方、衣装方の仕事内容、楽屋の三階にある大部屋の役者たちの様子がつまびらかにされ、それらが全て何らかのかたちで事件の発生と解決の糸口になっている。
 昭和の何もかもが新しかった時代─交差点に設置された信号機や東海道線特急燕、資生堂パーラーや日比谷公園内のレストラン松本楼など─への時間旅行ができるのも、音を聞かせ、事物や現象をありありと見せ、匂いすら鼻腔に届ける作者の筆力の賜物である。
 築地小劇場の女優である澪子は、持ち前の鋭い観察力を発揮して、『壺中の回廊』の時よりも大活躍だ。歌舞伎界のいい塩梅の門外漢で、歌舞伎の専門用語についても、治郎が澪子に解説するかたちで読者が学べるのも嬉しい。
 夭折した天才的な役者荻野宇源次の襲名や、裏社会と右翼との繫がりもからむ入り組んだ事件が解決に向かうにつれて、私たち読者が歌舞伎小屋を巡るバックステージ・ツアーも奥へ奥へ。ここでは誰もが大なり小なり誰かの何かの干城たらんとしており、その結果犠牲者が出る。私たちは最後の犠牲者が出た驚きと苦さを治郎と共に味わうのだが、それがほんのりとした甘さに移り変わる幕切れに救われもする。

Writing

松岡 和子(まつおか・かずこ)

翻訳家。演劇評論家。シェイクスピア全作の新訳に取り組む。著書に『深読みシェイクスピア』、訳書に『ガラスの動物園』など。

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